シンプルな実践

受講者
いつもなれがあるのか、心が満足しない なんか満ち足りない



在る(真我)は、満ちているそのものでもあります。
在るの実践を継続していくことで、その質がマインド等含め、
存在全体に徐々に浸透していき、存在全体を変容させていきます。


受講者
以前サハスラーラから宇宙に意思を広げていく瞑想をしていました
松果体の部分にエネルギーが上ってきて物凄い歓喜?性的な快楽、
頭を抱えて転げ回ってしまいました 気が狂うと思ったからです



クンダリーニが活性化したのかもしれませんね。


受講者
それからあまりそのような瞑想はしていません 



はい、それがいいです。
シンプルで自然で安全な実践がいいです。
(自然で必要な浄化は起こってくることはありますが。)


受講者
自分の汚れが
(邪気)ともいえるような気が出てくるからです



現れの世界では、いつのまにか滞りが起こっていることがあります。
(状況、環境、集合的なものの影響なども含め)
在る(真我)の実践、在る(真我、純粋意識、ゼロ意識)の共鳴では、
無理なく自然に必要なところから必要な順番で、そして、同時に全体的に、
浄化、純化が起こっていきます。


受講者
早く先生のような境地になりたいと思ってます
ご指導ください



焦らず進んで行きましょう。
沈黙の実践と沈黙の共鳴が、最も自然でトータルでパワフルです。
その上で、必要に応じアドバイス等させていただきます。

無空庵では、基本的には、在る(真我)=ハート

受講者
よく体験談でハートで感じるとか、ハートの中心とか、
これはヨーガで言われているアナハタチャクラの事と
理解してよいですか?



無空庵では、基本的には、在る(真我)=ハート ということで
お伝えしております。
その中に、アナハタチャクラも含まれる、というくらいの理解が
よろしいでしょう。
現れた一部分も全体そのものであり、アナハタチャクラも
在るそのものであると言えますが、在る自体は、
アナハタチャクラに限定されるものではありません。

体験談で書かれてあるのは、アナハタチャクラのハートの場合もあれば、
一チャクラを超えた在るのひとつの在り方としてのハートの場合もあると
思います。
それぞれの方のタイプ、理解の度合い、プロセス等により、
感じ方、認識、理解、表現等は自ずと違ってきます。


受講者
そこに意識が集中してると前よりも なんか微細に
なってきました 甘く、とても気持ちがいいです



とてもよい感じですね。
意識が自然に向くようでしたら、そこから開かれていくのがとても自然な在り方です。
順調に進んでいると思いますので、地道に実践を継続してください。

真我のやわらかさ、とらわれのなさ

受講者
私には、現在意識、潜在意識、超潜在意識、と言う観念があって
心に深く入っていって、現在意識、潜在意識、超潜在意識の先に
真我が存在している これは間違いでしょうか?



それもひとつの視点であり、その視点からの真実であるとも言えます。
真我(在る)は無限であり、
それには無限の在り方、無限の視点、無限の理解があり、
それぞれの在り方、立ち位置、視点、見方
(どのように見るか、どのように見えるか)、
理解の度合い、深さ、広さ、大きさ、精妙さ、角度等により、
それぞれの認識、それぞれの感じられ方、
それぞれに体験され、それぞれに理解される真実があります。

また、真我は、その実在、当たり前に在るという事実において、
存在を存在させている絶対的に確かで堅固(愛)なものでありながら、
同時に、無限に柔軟(愛)でもあります。

それには、様々な視点、立ち位置、理解等に、いかようにでも応え、
応じるやわらかさ(やさしさ、愛)があります。

それは、特定不能、定義不可能、
真我は、マインド(観念も含む)でとらえきれるほど小さなものではありません。
それは、とてもとても大きいのです。

それは、すべてであり、すべてとして現れながら、
同時に、無限の可能性そのものとしての非顕現の在り方を失いません。

それは、知そのもの、知っているそのものとして既知でありながら、
同時に、未知そのものとしてのその地位、そのスペース、その余裕、
その神秘性、その奥深さ、その奥ゆかしさ等を常に有しています。

すべてはそれであり、どの視点(入口)からでも、それを理解していくことは可能です。

現在意識、潜在意識、超潜在意識、その先に真我が存在している、
源から現れまで、
最も精妙な領域を超えた領域、そして、最も精妙な領域から最も粗雑な領域まで、
あるいは、最も具体的、最も具象的な領域まで、
そのような視点からは、真我は、超潜在意識の先にあるということができるかもしれません。
それは、ひとつの言い方をすれば、本質、現れの源としての真我、ということができます。

また、すべては、それ(真我)である、それだけが在る、という視点からは、
現在意識、潜在意識、超潜在意識も、真我の現れであり、真我そのものでもある、ということができます。

本質としての真我を(深く、そしてトータルに)知ることにより、
それを現れの中にも、あるいは、現れそのままを、
真我として見、真我として認識することができるようになっていきます。

最も粗い層から最も精妙な層までを辿り、そこを超えていったところは、
それら連続するの層の一領域に属するようなものではなく、
すべての層そのものでもあり、同時に、それらすべてを含み超えた全く別次元のものであるという言い方もできます。

それは、最も粗い層であり、最も精妙な層であり、その中間の層でもあり、
その全体でもあり、さらには、それ自身を超えているもの
(それであり、同時にそれ自身を超えているもの、それ自身から自由であるもの、
常にそれ自身を超えていくもの)であります。

どの視点(入口)から入っていっても結構です。
それぞれの方が入りやすいところから入っていけばよいでしょう。

それぞれの方のタイプ、プロセス等により、ひとつの視点に限定し、それが唯一の道、
唯一の真実として進んで行くのがよいケースもあるでしょう。

また、はじめからひとつの視点、真実だけに限定せずに、
やわらかく、大きく、ただそのときどきで入りやすいところ、進みやすいところから
進んで行くのもよいでしょう。

(まったく見当がつかないような場合は、まずはひとつの視点を基準に
進んで行く方がよいかもしれません。
ただ、真我を限定しすぎてしまったため、それ以上進めないケース、
それ以上開かれないケース、あるいは、マインドでの決め込み、思い込みにより、
なかなか本質に開かれないケース等もあるかもしれません。)

無空庵としては、基本的には、まず現れがすべてであり、本質を知らないという状態から、
本質を知って頂く方へサポートさせていただきます。

(今現在行われている思いやイメージを見るというのは、現れについてよく知り、
また、現れとの距離をつくることにより、思いやイメージを見ている主体、意識、本質の方を
自覚、認識することの助けになります。)

本質とは、変わらないものであり、すべての現れの源であり、不動の視点、真の土台となるものであり、
そこ、それを基点として、真我は、現れを含み、また、未知、無限の潜在性、無限の可能性、
そして、無限の顕在性そのものでもある真我全体、全体である真我を理解していくことが可能になります。


補足:真我は、身体、マインド等すべてが完全に浄化、純化されなければ、認識できないものではありません。
(認識の度合いや深さ、広さ等は、浄化、成熟、変容等が進めば進むほど、深く、広く、そして、よりクリアになっていきます。)
真我の自覚、認識を繰り返しながら(あるいは、まずは、真我の方に意識を向けること、あるいは、そのための準備の実践をしながら)、
浄化は進んで行き、存在全体がクリアになっていきます。

大きな浄化中は大変だが、セッションと地道な実践により、クリアしていく

受講者
セッション後は、相変わらず、悲しさやイライラや不安感などが、浮上してくるのを感じる場面が多かったです。



浄化が進行中ですね。


受講者
夜に眠ろうとすると、悲しさや、イライラや、不安感などで、胸がいっぱいになり、ごちゃごちゃ考えてしまい、眠れなくなり、深夜に、一人で車に乗り、パンクロックなんかのやかましい、殺伐とした音楽を、音量MAXでかけながら、怒り狂ったように叫び続けたり、悲しい音楽をかけながら、泣きわめいたり。そういう事が何度かありました。
しばらくの間、それをすると、スッキリして眠れるようになるけれど、どうしても睡眠時間が短くなってしまうので、疲れがとれづらくなってしまう。
地道に続けます。



大きな浄化中は大変ですが、セッションと地道な実践により、クリアしていきましょう。

浄化が進めば進むほど、本質的なところがより開かれ、感じられるようになってきます。

理解も深まり、より自然で、真の意味での在るがまま(自己理解、在るの理解に立脚した在るがまま)、
を実現できるようになっていき、より楽で、軽やかになっていきます。

喜びや味わい深さ等も増していきます。

真実を知ること、そして、現れに触れることで(関係性の中で)、慈愛等起こるものは自然に起こってくる

受講者
この頃 やはり最初に真我を実感 体得するのが第一、始まりだと思ってます



はい、まずは変わらない本質、源としての真我の実感を重ね、
真の理解(自己理解)を深めていきましょう。
理解が深まっていく過程で、本質(本質的理解、在る、真我)が
現れレベル(マインド、身体等)にも徐々に浸透していき、
本質と現れが統合されてひとつとなったとき、それを体得と言ってもいいかもしれませんね。
(そのときの主体は真我であり、個人が体得するわけではありません。)

そして、書かれてあるように、そのような在り方になってはじめて、
存在全体でひとつ(ひとつである存在)として、「始まり」という言い方もできますね。


受講者
それによって人に対する、慈愛とかが生じてくるのではないでしょうか



本質としての在る(真我)は、愛そのもの、慈愛そのものでもあります。
それが、現れの経験を経たハート、マインド、身体等が統合された存在
(あるいは、成熟した存在、または、純粋な存在)を通して起こる時、
具体的な慈愛等として生じてきます。

本質は、それ以外の何ものも必要とせず、それ自身でただ在れます。
そして、それが具体的に現れるためには、(記憶、印象等も含め)現れとの接触、
現れとの関係性が必要です。

また、上記のことを本質的な視点、あるいは、一元的な視点から言えば、
現れもまた本質そのもので、本質(真我、在る、愛)だけが在る、
そこで起こっているのは、それ自身との接触、それ自身との関係性、それ自身のゆらぎ、
それ自身のそれ自身への気づき、反応、理解、自覚、覚醒、

(日々の実践では、これを繰り返していただきます。
ー気づいたら在る・真我に戻る、在る・真我を意識する、在る・真我そのものであるということー
これが、真我・在るの基本的な在り方、動き、働き方でもあります。
そのそれ自身の中での時間ゼロ、距離ゼロの動き-不動の中の動-が、
現れ、現れている世界の起こり方、現れ方、展開の仕方、消え方、
起こっているすべて、現れているすべての基本です。
その中に、全宇宙の創造、展開、消滅、休息、再創造等の
すべてが在ります。)

すべてはそれ自身の中で起こっていることであり、
それ自身の中で起こっていることということは、本質的には、何も起こっていない、
ということでもあります。

真実を知り、真実を生きていきましょう。
それは、全く大したことではありません。
とても普通で自然なことです。
そして、同時に、これ以上尊く美しいものはありません。
それは、真善美の真の実現です。
真実を知ること、そして、現れに触れることで(関係性の中で)、慈愛等起こるものは自然に起こってきます。

プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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