「穏やか」というのは、とても自然でトータルな在る(愛、全体、自然、生命)の在り方

受講者
セッション後、ただそのままで在りたい本当に穏やか
活動を感じる想念や概念がなく、静けさ そのものでした。



「穏やか」というのは、とても自然でトータルな在る(愛、全体、自然、生命)の在り方です。

「穏やか」ということに関して述べられている覚者の言葉を
参考までに、フーマンの「恩寵の扉が開くまでⅡ」から抜粋し、ご紹介させて頂きます。

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あなたのハートがその深いレベルに整合するようになると、
個人の意志とか無理強いとか集中とか、する事(Doing)のパワーは感じなくなる。
そこに意志はない。
ただの「穏やかさ」がある。
物事が流れに任せて起こる様になる。

しかしその穏やかさは、弱さではない。
それは神聖であり、究極の意識だ。

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マインドではなく、在るの方がより主になってくると、マインドの騒がしさが起こることも、在るがより確かなものとなっていく素晴らしい機会となっていく

受講者
日常では、マインドが騒がしく、気づいたら在るに戻ることを繰り返していました。



マインドではなく、在る(本質としての在る、
あるいは、マインドも含めたトータルな在る、
在るだけが在るという一元としての在る)の方がより主になってくると、
(識別による)マインドの騒がしさが起こることも、
在る(本質としての在る、そして、トータルな在る)がより確かなものとなっていく
素晴らしい機会となっていきます。

在るが主となれば、すべては、在るの成長、更新、深まりの機会、
悲喜等の相対を含み超えたよろこび、真・善・美等、
自らを知り、自らを感じ、自らを実現する機会となっていきます。

開かれ続ける完全性

受講者
第197回セッションもありがとうございました。

4週間ぶりとなりましたが、その間“在る”に意識を向ける、“在る”そのものである実践が自然に再び起こるようになり、今日のセッションでも、それの浸透、深まりが感じられました。



継続の力の賜物ですね。

そこからさらに変容、成熟が進んでいくでしょう。

参考までに、以前他の方だったかどうか忘れてしまいましたが、返信の際にご紹介させて頂いた「パワーかフォースか」の著者デヴィット・R・ホーキンスの「I<わたし>」から抜粋させて頂き、

ご紹介させて頂きます。

「けれども、これレベルの進化は通常あまり起こりません。意識レベルが600に達した時点でそこで止まり、
残りの生涯をそのまま過ごす場合がほとんどです。
各レベルの啓示はそれだけで完結していて深い満足を与えるので、その達成感がさらなる意識の進化を停止させてしまうのです。
ほとんどの覚者が600を超えたところで完結するのはそれが理由です。
その状態の至福があまりにも完全なので、さらにその先があるようには見えないのです。
しかしある意味では、その結論は正解です。
というのも、各レベルはそのレベルにおいて完全かつ完璧だからです。
そのような達成感や完了感は、500台の上位以上から現れます。
そこには好奇心も未完了感も残っていないので、先に進もうという探求心が起こりません。
わたしの場合、そこから先の各レベルにおいても、真理に対する開放性は持続していました。
ですからどこかで、完璧に完結しているのではなく、進行中の過程であるということを認識していたのです。
おそらく「自己」がさらなる進化の中で自らの本質と潜在的可能性を表現するために、前進しようとする意志を働かせたのでしょう。
そして、何よりも、おのずと起こる進化の過程に身を明け渡したいという意志が決定的な要素でした。
創造は条件が整ったとき、その潜在的可能性を表現するのです。」

意識レベルが600等は別にして、またはそこに至る前でも、プロセスの中にそれはあり、様々なレベル、段階でそれは起こるとも言えますが、

ある程度の満足、あるいは、様々な段階の満足が得られると、自然に意識的な実践が起こらなくなる(あるいは、あまり起こらなくなる)ということがあります。

さらに開かれる可能性がある方で、それを閉ざさない方のサポートとしても、ゼロ意識共鳴は存在しています。

それ(在る)が、ある程度自然なものとなった後、さらに意識的にそれを深めるような動きが起こるのは、さらに進んだ段階とも言えるかもしれませんね。

そこには、「まだ」というマインドは残っておらず、ただ開かれた「開かれ」が在るだけです。

完結し、(さらなる開かれに対して)閉じる場合(閉じて、完全性、完璧性の質がより強く表現、実現される場合)と、開かれ続ける場合があります。

(完全性、完結性、完璧性等も実現されながら、開かれ続けます。開かれた完全性、柔らかさを伴い、無限に成長する完結性、無限に深まり、無限に広がる完璧性です。)

自分自身を愛するということは、自分自身を知っていくこと

知と愛は、同じものでもあると言えます。

自分自身を愛するということは、自分自身を知っていくこと、

(感じていくこと、体験していくこと、体現、実現していくこと、理解していくこと、

体験し、理解し、それが叡智となり、知そのものは、さらに深まり、さらにトータルなものとなっていきます。

不変は絶対的に不変であり、絶対も絶対的に絶対でありますが、それは、無限性そのものでもあり、

不変は不変のまま、絶対は絶対のまま、完全は完全のまま、十全は十全のまま、

無限に不変性を増し、絶対性を深め、完全性をより高め、十全性を無限に満たしていきます。)

自分自身を知っていくということは、自分自身を愛していくということ、

そのようにただひとつのものである在るは、無限に深まり、無限に実現されていきます。

それそのものとして在るときには、「つながる」という感じではない

受講者
瞑想
周囲がバタバタしていて途中話しかけられたりしたため、
集中できない時がありました。
だからといってイライラするようなこともなく、
落ち着いていたことと、
自分の心の奥で、
本質的な部分とつながっているかのような感覚がありました。

無空さんとそれについてお話しさせていただいたところ、
本質そのものが「在る」なので、
つながっているという感覚とは別のものであること、
また、「本質の自分につながっている」ということではなくて、
そもそも「在る」しかない。
本質が離れて存在していてそこからつながっているものではない、
というお話を受けました。

確かに全く違う感覚のものでしたので、
さらに理解を深めることができました。
自分自身は本質そのものだと実感することができました。



はい、本質としての在るには、それ自身から起こり、
距離を持った関係性の中で、それ自身とつながる、それ自身を感じる等
の能力(自然本性)もあり、そのような体験も起こりますし、可能ですが、
(個人の立ち位置にいる場合はそこからのスタートになりますが、
そこから、「つながる」ではなく、それそのものとして在れるよう進んでいきます。
自己理解という点では、それそのものとして在れるということは必須です。)
それそのものとして在るときには、「つながる」という感じではありません。
本質としての自己理解、本質の実現、本質としての在るの実現という点では、
それそのものとしての実感、在り方を重ねていくことが大切です。

そして、本質としての自己理解が確かになった上で、
それを土台として本質から現れているものも統合されていくという流れがあります。
(同時並行で進んでいく部分もありますが。)

源と現れという関係性、在るの自然な在り方も理解された上で、
それだけが在る(すべてはただ起こっていて、そして、本当は何も起こっていない、愛だけが在る等)
という理解がすべてを貫き、すべてを包んでいきます。

プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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