自然であるということ

受講者
セッションありがとうございました。
振り返ると、やはり最初のお試しセッションから、いえ初めてこの無空庵のブログに出会い
そこから響き感じたもの。それは、今も変わらず在り続けています。



はじめから本質を感じ取れていましたね。


受講者
それは、自然であるということ。それをさまざまな現し方がありますが
根底のかわらぬ自然(愛)。ただ在ることは、自然な状態である。



そのとおりです。
それは、在るの本性(愛)です。
また、その本性からくるものであり、本質そのものでもある「在る」という
自然な状態が、在るのもうひとつの本性である、そこから「する」、「なる」が
ただ起こっていくというところに巻き込まれ、「在る」(真我)を見失った状態、
そこに焦点が当たらなくなった状態、ある意味、不自然(大きな意味では自然、
あるいは、自然の中の不自然、また、個人体験のプロセスにあるという意味でも自然)
になっている状態から目覚め、「在る」へと帰るタイミングに差しかかっている
ご縁のある方、あるいは、「在る」と「する」が統合され、トータルに自然な状態へと
進むという流れが起こってきているタイミングの方に、それが本当に自然なもの
となるようサポートさせて頂くのが、無空庵の個人セッション(在る・自然・愛)
であるとも言えますね。

ただひとつのものであるそれ(自然・愛・在る)だけがあり、

すべては、それ(自然・愛・在る)の中で、

それ自身(自然・愛・在る)により(それ自身の本性により)、

ただ行われていること(起こっていること)ですね。


受講者
それを感じ、自動的にセッションを申し込みが起こりました。

変わらぬ自然(愛)をいつもありがとうございます。
それは本当に変わらないものであることを体験を通して、理解・再認識が起こり
深まりと同時にシンプルに、そしてただ在る。



とてもいいですね。


受講者
セッションでもお話ししましたが、「自然」という表現。

ここ数ヶ月よく無空庵のブログでも全体的に浸透し、現れるようになりました。
開かれ浸透が起こり、実は、本当にすごいとこですよね。



そうですね。
「自然」の本質、本質である「自然」の本当のところが深く理解されてきていると
思います。
無空庵スタート時に、“自然”に覚醒、“自然”実現、“普通”実現、“当たり前”実現
などと表現しても、誰も興味を示さなかったでしょう(笑)。

その恩恵はすべての存在に等しく注がれ、すべての存在がそれを享受しているのですが、
もともとあるもの、すでにそうであるもの、個人の努力とは関係なくあるものには、
人は特段の興味を示さず、なかなかそれを大切にしようとはしません。
そこにある深遠な価値は、その機が訪れた方にだけ開かれるものですが、
それが今、より多くの方に開かれ始め、浸透が起こってきているということですね。


受講者
ある意味自然と使えるのは、統合に入ってからでしょうとお話にも出てきました。

(ここは、言葉が足らないと思いますので、どうぞ補足をお願いします)



そうですね。
大きな視点からは、プロセスのどの段階も、それぞれにそのときどきの立ち位置、
成熟度合い等での自然があると言うことができます。
また、直線的な時間の流れによるプロセスという視点ではなく、今在るすべて、
今現れているすべては、今の自然である、毎瞬、毎瞬、自然であるという見方もあります。

また、それとは別に、真我(本質的自然)を忘れた状態、
また、気づいてもまだそれがトータルに実現されていない状態を不自然、
真我がトータルに実現されている状態を自然(真の自然、トータルな自然)と見る見方もあります。

無空庵では、その視点に立ち(その他、すべてが自然であるという視点も持ちながら)、
真我がトータルに実現された状態である自然で在れるようサポートさせて頂いております。
その視点に立った流れを順を追って見ていきますと、あなたが言われる補足
にもなるかもしれません。

無空庵では、個人(マインド)に巻き込まれ、
真我(本質的自然・在る・愛)を知らない状態(忘れている状態)から、
真我を知り(思い出し)、それそのものであることを重ねていくことで、
真の自己理解を深め、個人(マインド)に巻き込まれていた習慣から、
真我(自然・愛・在る)の視点、真我(自然・愛・在る)の立ち位置(個人、思考、
感情等に気づいている状態、在り方)に自然に在れるよう、
また、真我そのものでもある変わらない幸せ・平和、無限の愛が実現された状態へと
シフトしていけるようサポートさせて頂いています。

それをもう少し詳しく見ていきますと、
無空庵では、ゼロ意識(真我・在る・愛・自然)共鳴セッションを通し、
まず、真我(気づいている意識・在る)を知って頂きます。

(すぐに分からない場合は、まずは、思考、感情等の対象に気づいて頂くことをして頂き、
徐々にその対象に気づいている主体の方である意識━真我━に気づいて頂きます。
その気づいている主体の方である意識も、はじめのうちは、個人がミックスされている
場合もありますが、その意識自体に注意を向け続けていくことにより、徐々に、
それは純粋なものとなっていきます。)

はじめは、現れた真我でもある個人、思考、感情等と、
それに気づいている現れの源である意識(真我)とを、
起こっては消えていくもの・変わり続けるものと、変わることのないもの、
というふうに識別し、変わり続けるもの(思考、感情等)と同一化していた不安定な
状態から、絶対的に変わらず、変わり続ける現れからも影響を受けない
それら現れの不変、不動の源である真我へと、主たる立ち位置がシフトしていくように、
“真我(意識)に意識を向ける”、というある意味、最小限の努力、
ある意味、最小限の不自然を行っていただきます。

そして、真我に意識を向け続けているうちに、その努力(不自然)は徐々に
落ちていき、真我であることがより自然なものとなっていきます。

(真我は、自然そのもの、無努力、無為、無意図そのものでもあるので、
真我に意識を向け続け、それにつながること、それそのものとしてあることにより、
徐々に、努力、不自然は落ちていきます。
また、自然に存在全体の浄化、純化も起こり、真にクリアで、真に自然な状態に
なっていきます。)

真我そのものであることを何度も繰り返していくと、本当の自分は、真我であるという
自己理解が自然に深まり、その立ち位置がより確かなものになっていきます。
思考、感情、様々なパターンにひっぱられなくなってきます。
不要なパターンは落ちていき、それまでの反応が起こらなくなってきます。
個人は透明になり、個人感覚は、関係性の中で必要に応じて起こってきますが、
その個人感覚も自然に働き、味わいながらも、そこから自由でいられるようになってきます。

透明な個人はまったく障害になりません。
むしろ、全体が全体を味わうための透明なゆらぎの役割を果たすようになります。

<(人によっては、それを透明な個人と感じ、そのように表現する方もいれば、

━話しの流れや必要に応じて、また、現れている世界の受容力、集合的な
意識レベルに合わせ、そのように話す場合等もあります。━

もはや個人はまったくいないと感じ、そのような表現をする方もいるでしょう。
同じような状態にあっても、感じ方はそれぞれですし、同じ方でもそのときどきで
感じ方も違ったりします。また、話す相手に合わせ、それが違った表現になる場合も
あります。

━様々に感じているもの、また、理解等に関する表現は、
そのままの表現であったり、方便として使われたり、鼓舞するようなものであったり、
半歩先を示す言葉であったり、今を確認できるような言葉、表現であったり、
少し違う角度からの表現で理解に幅、厚み、深みをもたらせるようなものであったり、
ある程度遠い角度からの表現で、のちのちの理解の深まり、広がりに効いてくるような
言葉であったり、意識を内側へと向けさせるようなものであったり、
意識を広げ、全体を見渡せるよう促すものであったり、
意識を軽くするようなものであったり、
注意を促したり、喚起させるようなものや
ときには、必要に応じて、あえて混乱を起こさせるような表現が起こってくる場合等も
あります。

また、表現ということに関してもう一点。
それは、どのような方を対象にして書かれているのか、
また、その方の本質に焦点が当たっているのか、現れ部分に焦点が当たって
いるのか、トータルにあるがままを見ているのか、
無限にある視点の中、たくさんある大切なポイントの中で、どこを大切にして
(軸、中心)書かれてあるのか、
どこかへ導くという場合、どこを見て語られているものなのか、
目の前の具体的な問題解決のみに焦点が当たっているのか、
それをも含め、様々な問題の根本的な解決に焦点が当たっているのか、
さらにそれをも含めた彼方(今そのものでもあります)、問題など何も存在しない
というところ(の実現)に焦点が当たっているのか、等で、その表現は違ってきます。
(また、表現が同じでも、在る・真我・愛から起こっているのか、
個人・マインドから起こっているのかで、その質、エネルギー等は自ずと違ってきます。)

無空庵では、真の統合、真我実現、自然実現のための実践として、
それが実現される前も、実現された後も変わらない在る(真我・自然)の態度、
姿勢、在り方である、ただ在ること(在るそのものであること)、ただ気づいていること、
をシンプルに実践して頂いています。
それは、ある意味、存在全体で在る(源である在る)と同じ態度を養い、
また、真の自己理解を深め、存在全体の浄化、純化等も促す包括的なものです。
シンプルでありながら、ある意味、すべてを含んでいます。

個々具体的な状態、状況に関しては、ただ在ることで、そこからその具体的な状況に
対応・呼応し、何か必要なものがあればそれは在るから起こってくる、という理解、
スタンスであります。
はじめから、そこにプラスアルファをつけることはしません。
できるだけシンプルに、はじめから一貫して、ある意味、到達すべきところで
在って頂き(在るを実現するには、在るであることです。)、その一貫し、透徹した
在り方(ただ在る、ただ気づいている)、透徹した純粋さ、透徹したパワーで、
在る(自然・真我・愛)であることの完全な実現へ向けて一直線に進んで頂き、
超えられないものを超えていけるよう、配慮しています。

(その歩みの中で、落ちるものは落ち、正されるものは正され、純化されるものは
純化され、変容していくものは変容していきます。)

個々具体的な状態、状況に関しては、個別にセッション時に対応していきます。
そういう意味では、セッションを受けておらず、何か具体的な状態、状況を抱え、
第一にその解決を望まれている読者の方にはあまりお役に立てないかもしれません。

(無空庵では、個々具体的な問題に対し、このような場合はこうしたらいいという
スタンスではなく━個別にはそれが起こる場合はあります━、
在る(変わらない平和・幸せ、無限の愛等)の実現に焦点が当たっており、
シンプルにその在るに焦点を当てていることで、いつのまにか、気づいたら問題が
なくなっていた、あるいは、その状況自体はさほど変わらずとも、
もはやそれを問題と感じなくなった、という感じになります。)

どこを見て(無空庵では、真の存在全体の統合、真我実現、自然実現)、
どこへ導くための表現となっているか、それは、目の前のひとつの状況の変化
なのか、あるいは、存在が真に安らぎ、真に落ち着けるところ、トータルで自然
で在れるところまでなのか、それが一時的なものではなく、日常的に生きられる
ところ、実現できるところまでなのか、どこまでを見て出てくる表現なのかで、
その内容も自ずと違ってきます。

また、真我実現のために(もちろん、それを望んでいる方に対して
ということですが)、多くの方がひっかかり、なかなか超えられないところ、
一人ではなかなか気づけないところ、落ちていかないところ、
でも、真の統合、真我実現、自然実現に必要なところ、
主体の純化、立ち位置のシフト、「する」個人でなく、「在る」在るであること、
何かが起こるのであれば、「する」に巻き込まれず、あるいは、巻き込まれて
いたことに気づいた後で、「起こる」、「起こった」という見方をすること。
その視点(ただ在る、ただ気づいている)に立つこと。戻ること。
等を大切にしています。

もちろん、個人体験を十分に重ねるためには、「する」、“私”が「する」も必要です。
それにより、マインドの成熟も進みます。
そして、存在全体の成熟も促されます。
そういう意味で、個人を主体として何か具体的にしたいこと、実現したいことが
ある方には、社会的に問題となるようなことだったり、他の方に迷惑がかかる
ようなことでない限り、「してください」とセッションではお伝えしています。
━まだ、個人を主体として働きたいエネルギーがあるうちは、働かせるのが
いいです。ただ、中には、ただ在ることで落ちていくものもあります。━
より微細なレベルで言えば、内面的なことに関しても、真我実現のために何か
障害となっているように見える強いひっかかり等があり、それに具体的に
取り組みたいが起これば、それを行ってみて下さいとお伝えしています。

ただし、内面的なものすべてにそれを行うという習慣を付けてしまうと、
それに取り組む個人が必ずそこにいますので、実現したいと思っている
在り方にはなかなかなれません。
そのため、例外として、そのようにしてください。とお伝えしています。
そして、できるなら、具体的なものに取り組む場合も、個人がそこに介在
しないよう、取り組みがただ起こっているという見方、視点であって下さい、
とお伝えしています。
━ここで、再度、確認しますが、これは、真我実現、自然実現、変わらない幸せ・
平和、無限の愛等を実現したいと思っている方向けのお話です。
そしてまた、これは無空庵のスタンスであり、無限にある視点、スタンスの中の
ひとつであることをご理解ください。━
実際、あるもの、起こってくるものを見て、感じていく、という方法を行ってきた方を
これまでたくさん見ており、それでは切りがなかった、というお話を聞いています。
問題解決に主体となって取り組む個人がいる限り、問題は起こり続ける可能性が
あります。
また、思考、感情、その他様々な現れを含む世界が、在るから起こってくることは、
在るの本性であり、世界創造が終わることはなく、思考、感情が起こらなくなる、
ということもありません。
━世界は、一瞬一瞬、起こっては消えていき、また、起こってきている。という視点や、
はじめから、世界はない、という視点もあります。無限の視点が同時に存在しています。━
もちろん、あるもの、起こってくるものを見て、感じていく、という方法は、
ひとつの具体的なものの解決ということに関しては、効果的なものだと思いますし、
その方法で、癒しが必要な方には必要な癒しが起こったり、必要な気づきも
起こっているでしょう。
ご自身の目的を達せられた方、問題が解決できた方、その方法に救われた方も
たくさんいらっしゃると思います。
中には、望んでいないのに、悟りの一瞥、覚醒体験が起こった方もいるかも
しれません。あるいは、望んで、そのような体験が起こった方もいるかもしれません。
もしかしたら、その方法で、最終的に、個人を超えていく場合もあるかもしれません。

世界は、多様です。
様々な在り方があります。
その多様な在り方のすべては同等であり、その中のひとつとして、
存在全体の統合(源である真我と現れている真我)、真我実現、自然実現、
変わらない幸せ・平和、無限の愛等の実現があります。
無空庵の記事は、そこを目指している方向けの記事が主であり、
━出てくる言葉、表現は、セッションを受けられている方々の意識の深まり具合、
世界全体の集合意識の深まり、高まり等によっても、変わってくる場合があります。━
そしてそこにも無限の視点、スタンス、在り方があり、無空庵のスタンス、視点、
アプローチ、在り方は、その中のひとつにしかすぎない、ということをご理解
頂ければありがたいです。
他の同等に素晴らしい在り方を目指し、また、今現在、実際にそれを生きて
いらっしゃる方々、それをサポートされていらっしゃる方々もたくさんいらっしゃいます。
そのような方々には、立ち位置、見ているところ、大事にしたいポイント等が
違うため、ときには、不愉快に思われるような表現も起こってくるかも
しれませんが、寛大、寛容な態度で、ご容赦頂ければ幸いです。

また、真我実現を目指し、内面でひっかかっているものに取り組んでいる方も
いらっしゃると思います。
ご自身の感じたままを進んでください。
それぞれの方に、それぞれ合った進み方があります。
意識が真我へと向いていれば、方法は問題ではありません。
最後に取り組む個人が落ちるかもしれませんし、どこかで気づきが起こるかも
しれません。
様々な願望実現と同様、取り組む個人、まだ活発なそのエネルギーを働かせ、
成熟させる必要があります。
━無空庵でセッションを受けられている方々の中でも、それが何らかの形で
微細に起きて(微細でない場合もありますが。)、成熟していきます。
基本以外で必要なことは自然に起こる、というスタンスです。━
あるいは、習慣、または、もともと備わっているマインドの傾向、その自然な
働きを利用し、存在全体をより軽くしていくことが可能です。

在るの立ち位置に在れていないとき、個人の立ち位置以外に始めるところは
ありません。

━無空庵では、在るに意識を向けるということで、個人・マインドの本性、
あるいは、その習慣的な傾向を最小限に働かせ、真我実現へと進んでいきます。━

さらには、その立ち位置で取り組み、それが起こっているという見方をすれば、
それは在るの立ち位置にシフトすることになります。━個人がミックスしてくる
場合もありますが。━。
そして、真我実現を望まれているのであれば、そのような理解を同時に持って、
進まれるという方法もあります。

無空庵では、もしかしたら実際はわずかかもしれませんが、逆に個人を強化して
しまう可能性もあり、また、最終的に個人が落ちる(透明になる、あるいは、
成熟する)というところまでの直接的な方法ではないため、

━対象に取り組むことは、取り組む個人がどうしても必要になります。
在るは、何にも取り組みません。
ただ気づいているだけです。あるいは、それとただ共に在る、というだけです。
ただ在るだけ、起こってきているマインドにただ気づいているだけで、
その根っこが落ちていっているのを実感されたという方の体験談があります。
通常の取り組みではなかなかここまではいきません。起こってきている具体的
なものであるひとつは消えるかもしれませんが、その大元の根っこは残り、
同じようなものがまた出てくる可能性があります。━

基本として、在るに意識を向ける、ということを実践して頂いています。
在るに意識を向けることは、まだ、在ると距離がある場合は個人が残りますが、
在るとつながることで、個人が薄くなっていきます。そして、徐々に在ると
ひとつになり、個人が在る(愛)に溶けます。在るそのものとなります。
こちらは、在る(真我・愛・自然)を実現するためのより直接的な方法と言えるでしょう。

何か具体的なひっかかりがある場合、そのようなものが起こってきた場合でも、
それに具体的に取り組むということは、無空庵では基本とはしていません。
在るの立ち位置にできるだけ在って頂くように、あくまで“例外として”認識して
頂くようお伝えして、

━※ ここの認識に限らず、認識、理解というものはとてもとても重要です。
どのように認識しているか、どう捉えているか、理解しているかは、
その立ち位置を決めます。━

在るを実現したいのであれば、在ってください。

と、はじめから一貫して、その在り方を実践、あるいは、修練していきます。

━途中、浄化やマインドの抵抗や罠が起こることもありますが、修練と言っても、
基本的には、自然さ、軽やかさ、シンプルさ、楽さ、幸せ、喜び等が自然に
増して行く修練、実践なので、厳しいものではなく、楽しいものです。━

また、ただ在ることで、必要なときには、自然に、起こってきたものを見る、
感じるが起こる、それが必要なだけ自然に見られる、感じられる、
━そこには、見る、感じるそのものだけがあり、見る個人、感じる個人は
いません。━という理解、スタンスであって頂いています。

無空庵では、存在全体の統合、真我実現、変わらない幸せ・平和、無限の愛
等の実現のため、その基盤となる主体の純度、立ち位置等に、かなり注意
深く在ります。

<( )>でくくられた中の、「また、表現ということに関してもう一点。」というところ
からが長くなりましたが、
無空庵の記事は、無限に在る多様性、すべてが同等である多様性の在り方
の中のひとつである、存在全体の統合(源である真我と現れている真我)、
真我実現、自然実現、変わらない幸せ・平和、無限の愛等の実現を目指して
いる方向けの記事が主であること。
また、これも以前の記事にも書いていますが、その視点も、無限にある中の
たったひとつであること。
そして、特に、多くは、セッションを実際、受けられている方向けの記事で
あることをご理解頂き、読んで頂けるとありがたいです。

ひとつだけ言えるのは、セッションを受けられている方々の進み方、
意識の深まり、広がり、高まり、今現在の在り方を、その体験談や、
各ブログ等から見て頂ければ、無空庵のスタンス、理解、視点も、
存在全体の統合(源である真我と現れている真我)、真我実現、自然実現、
変わらない幸せ・平和、無限の愛等の実現のために、正しく働いている、
ということは言えると思います。━)>

※━ 様々に感じているもの、~ ━ の部分が長くなりましたので、
少し前のところから再掲させて頂きます。

無空庵では、個人(マインド)に巻き込まれ、
真我(本質的自然・在る・愛)を知らない状態(忘れている状態)から、
真我を知り(思い出し)、それそのものであることを重ねていくことで、
真の自己理解を深め、個人(マインド)に巻き込まれていた習慣から、
真我(自然・愛・在る)の視点、真我(自然・愛・在る)の立ち位置(個人、思考、
感情等に気づいている状態、在り方)に自然に在れるよう、
また、真我そのものでもある変わらない幸せ・平和、無限の愛が実現された状態へと
シフトしていけるようサポートさせて頂いています。

それをもう少し詳しく見ていきますと、
無空庵では、ゼロ意識(真我・在る・愛・自然)共鳴セッションを通し、
まず、真我(気づいている意識・在る)を知って頂きます。

(すぐに分からない場合は、まずは、思考、感情等の対象に気づいて頂くことをして頂き、
徐々にその対象に気づいている主体の方である意識━真我━に気づいて頂きます。
その気づいている主体の方である意識も、はじめのうちは、個人がミックスされている
場合もありますが、その意識自体に注意を向け続けていくことにより、徐々に、
それは純粋なものとなっていきます。)

はじめは、現れた真我でもある個人、思考、感情等と、
それに気づいている現れの源である意識(真我)とを、
起こっては消えていくもの・変わり続けるものと、変わることのないもの、
というふうに識別し、変わり続けるもの(思考、感情等)と同一化していた不安定な
状態から、絶対的に変わらず、変わり続ける現れからも影響を受けない
それら現れの不変、不動の源である真我へと、主たる立ち位置がシフトしていくように、
“真我(意識)に意識を向ける”、というある意味、最小限の努力、
ある意味、最小限の不自然を行っていただきます。

そして、真我に意識を向け続けているうちに、その努力(不自然)は徐々に
落ちていき、真我であることがより自然なものとなっていきます。

(真我は、自然そのもの、無努力、無為、無意図そのものでもあるので、
真我に意識を向け続け、それにつながること、それそのものとしてあることにより、
徐々に、努力、不自然は落ちていきます。
また、自然に存在全体の浄化、純化も起こり、真にクリアで、真に自然な状態に
なっていきます。)

真我そのものであることを何度も繰り返していくと、本当の自分は、真我であるという
自己理解が自然に深まり、その立ち位置がより確かなものになっていきます。
思考、感情、様々なパターンにひっぱられなくなってきます。
不要なパターンは落ちていき、それまでの反応が起こらなくなってきます。
個人は透明になり、個人感覚は、関係性の中で必要に応じて起こってきますが、
その個人感覚も自然に働き、味わいながらも、そこから自由でいられるようになってきます。

透明な個人はまったく障害になりません。
むしろ、全体が全体を味わうための透明なゆらぎの役割を果たすようになります。

<(人によっては、それを透明な個人と感じ、そのように表現する方もいれば、

━話しの流れや必要に応じて、また、現れている世界の受容力、集合的な
意識レベルに合わせ、そのように話す場合等もあります。━

もはや個人はまったくいないと感じ、そのような表現をする方もいるでしょう。
同じような状態にあっても、感じ方はそれぞれですし、同じ方でもそのときどきで
感じ方も違ったりします。また、話す相手に合わせ、それが違った表現になる
場合もあります。

さらには、意識、理解の深さやトータルさ、存在全体の成熟度合い等も、
ひとつの視点からは、ある意味、皆違うと言うこともできます。
同じ位置に立たないと、現れた言葉だけではまったく別なものだと思ったり、
同じものだと思ったりしてしまうのが、意識に関する世界です。)>

真我であることがより自然で、より確かなものになってくると、
そこから現れていく思考、感情等、そして、周囲にあるものすべてが、
近しく、愛おしく感じられるようになってきたりもします。

(あるいは、そこまではっきり感じなくても、周囲のものを粗末には扱えなくなってきます。)

そして、それらも真我の現れであり、真我そのものであるという理解、認識が起こり、

(その理解、認識自体は、真我に確立していない段階でも、悟りの一瞥等の体験で、
一時的なものとしては起こる可能性はあります。ただ、それは一時的なものなので、
体験の記憶は残りますが、生き生きとした実感、理解、深い理解として、日常の中で、
常に働く状態にはならない場合も多く、そこから現れがすぐに自然にスムーズに
統合されていく、という流れにはなかなかなりません。)

すでに、真我であることが確かなものとなっているため、その理解、認識もまた、
一時的なもので終わらず、生き生きと働き続けます。

その自然な認識、理解の働きにより、それまで、源と現れ、変わらないものと、
起こっては消えていくもの・変化し続けるもの、本当の自分と本当の自分では
ないものと識別していたものが、“自然”に統合されはじめます(愛)。

すべての現れの源であるそれ自身だけでなく、そこから現れるすべてもまたそれであると。

源と現れ、変わることのないものと変わり続けるもの、色即是空、空即是色の
空と色がひとつになります。
ふたつは同じものであったことが分かります。
ひとつの言い方をすれば、それはひとつのものの不変相と可変相という言い方も
できるかもしれません。

その不変という立ち位置に在り、不変に焦点を当てれば、何も起こっていない、
誰もいない、世界はない。となります。
その不変の立ち位置から、可変する側面に焦点を当てれば、すべてはただ起こっている、です。
世界はそれ自身で動いているです。
そこに観照者はいず、観照だけがあります。
もちろん、ただひとつのものだけがありますので、それ以外のものからの干渉も
ありませんし、干渉者もいません(絶対安心、絶対安全、絶対大丈夫。)
あるいは、世界が世界に干渉している、ただそれ自身で動いているということが言えます。
言い換えれば、在る(真我・意識・愛・自然・全体)がただ在るだけで、
在るが在るに干渉している、それ自身の中で(ゆらぎのない)ゆらぎを起こしている、
意識がそれ自身に気づくことで、意識が意識に干渉している、
距離ゼロの間でゆらぎを起こしているということが言えます。

在るの本性は、在ることであり、
意識の本性は気づくこと。
愛の本性は、愛であること。
自然の本性は、ただ自然であること、ただそうであること、これでいい、あるがまま、
そのまま、起こるがままであること。
全体の本性は、全体であること、トータルであること。
それは、本性ゆえに、そうであるため、そうなるために、
ああなろう、こうなろう、ああしよう、こうしよう、という意図はいりません。
意図はありません。

それは、ただ(只)です。
ただそうなります。
ただそうであります。

それは絶対です。
そこに間違いはありません。そこに間違いは起こりえません。
在ることは絶対です。
在ることは、間違うことがない絶対的な正しさです。
愛も、自然も、気づいていることも、全体も、同じく絶対です。
そこには、絶対的な正しさがあります。

(絶対的な正しさには、同時に、無限のやわらかさがあります。
それは、相対的に矛盾するすべてを包み込みます。)

在る=真我(真の自己、本当の自分)=愛=意識(気づき)=自然=全体=絶対

すべての存在は、ひとつである全体そのもの、自然そのもの、愛そのものであり、

その存在において、

(今)在るということ、(今)存在しているということにおいて、絶対的な正しさがあります。

存在が存在すること。

そこには、絶対的な正しさ、そして、ひとつであるものの全体的な正しさがあります。

それはまた、絶対的な善であり、全体的な善。

絶対的な真実であり、全体的な真実。

絶対的な美であり、全体的な美。

それは、真・善・美そのものです。

そして、それが存在の自然な姿、自然な在り方、

在るの自然体です。

在ること、起こること、すべてはそれ(真・善・美)であると理解され、統合され、

真の自然、トータル・全体的な自然、全体そのものである愛、

全体そのものである自然が実現されます。

それまでは、真我にその立ち位置がシフトするまでは、
それに意識を向けるという小さな不自然とも言える努力が必要

(その努力も起こっているという視点からは、
それもまた大きな意味で「自然」ということはできます。)

であり、
また、源である真我と、現れ(現れた真我)がまだ統合されていない段階では、
全体としてひとつになっておらず、トータルな自然、真の意味での自然とは言えない
ということが言えます。

(これも、セッションでお話ししたように、「ある意味」、ということで、
ひとつの視点からはそのように言えるということです。)

そのように全体がひとつとなり、自然(トータルな自然)となったとき、
もはやどの立ち位置にある等は問題ではなくなってきます。

なぜなら、すべては“それ”ですから。

そして、そのようなときでも、自然に必要な識別は働きますが、
すべてはそれである、本当の自分は、真我(全体・愛・自然・意識)である
という深い理解がすべてを支え、識別を含むすべてに浸透し、
すべてを包んでいるため、その識別は、純粋な識別として何の価値判断等も
加わらず、自然に軽やかに働きます。

以前の返信に書かせて頂きましたが、
ご依頼頂いた補足部分の締めとして、再掲させて頂きます。

自らの本質である変わらない真我(在る・意識・愛・自然・全体)を知り(再認識し)、
そして、その現れを含むすべてが統合され、
すでにそうであったもの、真の自己へと帰る。戻る。復帰する。
そこにはあるがまま、とても自然でトータルな自己、そしてトータルな生があります。


受講者
元々、私自身、あまり概念がなく、以前はそういうところが無意識なのかと思っておりましたし、
現れの世界の慣習と違う点も気がついておりました。



多くの方は、成長するに従って様々な概念、観念等をたくさん身に付けて
いきますが、あなたは、そうではなかったのですね。
それは、これまで(自然なところから、本来の場所から)呼吸ができなかったと
言われていて、社会的な面からは大変なところもあったと思いますが、
真我の視点からは、大きな自然(愛)にとてもとても守られていた、ということが
言えるかもしれませんね。


受講者
自然・不自然、そして不自然も含めて、わからないものはわからないままで。
人との会話も「自然の妙」であり、また起こること、TAOなど「自然の妙」の中で、体感し血となり肉となる体験は
プロセスの上でも、今=未知 生を生きることであり、自然愛そのものであり、ただ起こっている。

最近は、真我を知っている個人であろうが、マインドが起ころうが、そのマインドを心配することが起ころうが
またそれを観ていることも、放っており、あまりそこは意識をしていません。



そこは、前述させて頂いたとおり、今のところにこられると(あなたの言葉で言えば、
復帰)、すべてはそれですから、その前の段階で言っていた、真我を知っている個人
という起こり方が起こったように見えても、それを支え、それに浸透し、それ全体を
包んでいるさらに深い理解があります。
そのときのそれは純粋で、とても自然で、まったく安全です。
そのときは、現れ方がどのようであろうとも、立ち位置がどのように現れたように
見えても、もはや問題ではなくなります。
そのため、分かる人には分かりますが、多くの場合は、外側の現れだけ見ても、
巻き込まれているのか、そうでないのか、個人なのか、そうでないのか、
そこは見分け、判断がつきにくいところとなります。

手がかりとしては、これもひとそれぞれ感じるものが違うと思いますが、
やはり、全体的な自然さ、透明感、軽やかさ、あたたかさ、ぬくもり等があるかも
しれません。
何かが違いますが、頭の判断、頭優勢の場合は難しいでしょう。
ハート、あるいは、存在全体で何か違いが感じられるものがあるでしょう。


受講者
「起こる」だけで、すべて自然現象です。



はい、自然から起こること、意図なきものから起こることは、すべて自然現象です。

すべてを自然現象だと認識できるということが、
自然(あえていえば、トータルな自然)を実現されている、と言うことができますね。


受講者
秘めているところ、控えていた、以前はそこを隠していたような感じでしたが、



それは、この世界で身を守るためでもあり、また、真実そのものを時期が来るまで、
大切に大切に守られていた、とも言えますね。


受講者
そこで在り、呼吸しています。



今は、自然にそう在れるようになりましたね。


受講者
そこが、とても楽になり、意識しなくなりました。
元々のシンプルで、これでよい感じです。



そうですね。
それでよいですね。
それが、無空庵で言っている、これでいい、でもあり、
正しい、という感覚でもあります。


受講者
変わらないところで、呼吸をしています。
そこが普通となりました。



“普通”実現ですね^^

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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