ただ在ることの喜び

受講者
幸せそのものであったということを体験を通し、理解を深めています。幸せが放出されています。そして、それが自然と行動に結び付くのだなぁということを感じています。「私」がいないのは、これほど軽やかだったのですね。



それは、真に「そのもの」として在れるようになってはじめて分かりますね。
純度の違い、99.99999・・・・%と100%では、まったく別世界、別次元です。
また、全く違うということで言えば、
主体が個人(自我である私)であるのか、真我(在る・愛)であるのか、
それがたとえ真我を知っている者だとしても、
真我を知っている個人であるのか(個人が主体、個人が主導権を握っている)、
個人を知っている真我(主体が真我)であるのかで、全く違ってくるということが言えます。

(一時的に、主体が真我になること━主体としての個人がいなくなること━は、ある意味、誰でもあります。
それが恒常的なものになるには、あるいは、個人が透明になり、真我に統合され、真のあるがままとなるには、主体の純化、成熟、そして、深い自己理解が必要です。)


受講者
では、感想をご報告します。

最初の共鳴
穏やかさと平和がありました。また、幸せが浸透している と感じました。



それが目に見えて分かりましたね。


受講者
アイコンタクト
無空さんの視線に貫かれるような感覚がしました。それは、揺らぎのない愛に貫かれているようでした。絶対大丈夫である、間違うことがないということを揺らぎのない感覚で知りました。



はい、在ること(愛)を間違うことはできません。
それはすでに在ります。
それは揺らぎようがない事実。
それは、あらゆる相対的な認識、相対的な正しい、間違い等の認識が起こる以前の絶対的な事実であり、そこに、絶対的な正しさ、“ただそうである”(愛)があります。
そしてそれは、絶対大丈夫そのものでもあります。
在るという絶対的な正しさの上で、相対的な認識が自由に起こっています。
その理解があると、様々な認識に捉われず、振り回されず、そして、それらを大きく許容、受容することができ、自由で軽やかで、そして、安定して在ることができますね。


受講者
瞑想
美しい世界が広がっていて、そこに真の美しさを感じました。それに存在が気付き、喜びが広がりました。
それから、無のやすらぎとなり、何も起こっていないことの喜びを感じました。



何も起こっていないことの喜び、何もないことの喜びを感じれる方は幸いです。
なぜならそこには、何かが起こること、何かがあることと同等、あるいは、それ以上の喜びがあるからです。


受講者
ハートの共鳴
自然にある安らぎを感じました。時々、無空さんがブログで、「当たり前すぎて気付かない」というようなことを書かれていますが、その意味がよく分かりました。

立場をかえての共鳴
ただ在ることの喜びを感じました。



その喜びに開かれた方は幸いです。
なぜなら、その喜びはけっして消え去ることのない喜びだからです。
そして、それはどんな喜びよりも微細で深く、本質的な喜びだからです。
成熟してくると、その喜びを感じることができるようになってきます。
その喜びを知れば、他の喜びに捉われることはなくなっていきます。
捉われなくなれば、他の喜びをより自由に、軽やかに、かつ、味わい深く、
そしてトータルに感じることができるようになっていきます。


受講者
「ただ在ることはつまらないということを時々聞きます」というお話をすると、無空さんから、「この喜びもあまりにも普通にあるので、気付かない」というようなことをおっしゃいました。開かれ、理解を深めることでこの喜びを感じられるようになったのだなぁと思いました。



そうですね。
その喜びは、全ての喜びの源。
喜びそのもの。
それは、これまで現れた喜び、そして、今現れている喜び、さらにこれから現れるであろう喜びのすべてを足した以上の喜びです。
それは、通常は気づけず、感じられないほどに微細で、淡く、ほのかで、同時に、とてつもなく凝縮された濃いものです。
それは、在るという在り方、在るそのものとして実在しています。
それは、それそのものであることを繰り返し、それそのものであることによく馴染み、それ自身の繊細さ、微細さ、やわらかさ、深み等に開かれなければ感じることができないかもしれません。

ただ在ることを「つまらない」と言っているのは、マインドです。
(真我を知っている方でも、個人であるマインドが主体━真我を知っている個人━であれば、そのように話すケースもあるかもしれません。)
在るは、在ることをつまらないとは感じません。
サット(存在・在る)・チット(意識)・アーナンダ(至福)という真我の三つの側面、質、在り方を示した言葉があるように、それは至福そのものでもあります。
それがつまらないものであるわけがありません。
ただ在ること、あるいは、真のあるがままに落ち着けないのは、まだ、マインドのさらなる成熟が必要である状態だからです。
(そこに落ち着いた上で、自然に現れが楽しまれる、より活発に現れが起こって行く、ということはあります。
在るは、ただ在るだけで、すべてを為しています。ただ在るということ、あるいは、無為ということは、そこから何も起こらないということとは全く違います。ただ在れば在るほど、その本性により、起こっていくものは起こっていきます。そして、その起こっていくものは、本質的な喜び、幸せ、愛、調和、平和、自由、真・善・美等の質を帯び、よりトータルで、自然で、やさしく、やわらかく、かつ、パワフルなものになっていきます。)
まだ、ただ在ることの真の喜び、その深い喜び、その奇跡とも言える喜びを知らないから、それに開かれていないからです。
在る(真我・愛・純粋な意識・至福そのもの)は、在るで在ること、ただ自分自身で在ることで、絶対的に、そして、無限に満たされています。


受講者
立場なしの共鳴
日常に浸透している在るを感じました。それは普通であり、地味ですが、とても大切だと感じました。



その実感と理解に開かれると、存在全体の安定性はさらに増し、無限の喜び、変わらない喜びは、常在のものとなります。

スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

初めてご訪問頂いた方へ
悟り|無空庵
お知らせ
公開・週一合同ゼロ意識共鳴
ご案内
浄化のときにはこちらへどうぞ
最新記事
最新コメント
カテゴリ
月別アーカイブ
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

リンク
検索フォーム
QRコード
QR
RSSリンクの表示