個人として現れている真我

受講者
日常生活では、「私」という言葉を、使用する機会が減っていることに気づきます。



より個人が落ちてきて、透明になってきていますね。
それは、真の自己理解が進んでいるということでもあります。


受講者
力みを感じるときに、はっきり自己主張、領域を決めたりするときには、使用しているようです。
また、話す前に、「私」という言葉を発する前に、違和感が起こることもあります。(この点は以前もお話ししたとおりです。)

真我と個人の立ち居地をいったり、きたりしていることが起こっているように感じられます。



それに気づいていれば、あるいは、深い自己理解が浸透しているようであれば、
その背後、あるいは、もっとも深いところにある立ち位置は、いつも真我と言うこともできますね。
ある意味、表層にある立ち位置は、状況、必要、焦点が当たっているところなどにより、
“自然に”変化していきます。
それは、ひとりの人が、自身の親に対しては、子の立ち位置に立ち、
自身の子に対しては、自然に親の立ち位置に立ち、
社会に出れば、またその立ち位置があり、会社では、ある方に対しては上司であり、
ある方に対しては部下であるかもしれません。
その相対的な立ち位置の変化、関係性における立ち位置の変化は、認識の働きにより、とても自然です。

そして、自身の存在の本質を知れば、それら自然に変化する現れの世界での
様々な立ち位置の背後、あるいは、より深くに、不変絶対の立ち位置が在ることが分かります。
その不変絶対の立ち位置が基盤としてあるおかげで、現れの世界では、
様々な立ち位置が自然に起こってきます。
(そこにさらにマインドを重ね、立場を必要以上に重くしたり、複雑にしたり、歪めたりすることもあります。)

自身の存在の本質、真の自己の理解が深まり、
それが現れを含めた存在全体に浸透し、包み込んでいれば、
現れレベルの必要により、個人の立ち位置が自然に起こっているようなときでも、
その存在は、個のまま真我、個人として起こっている真我、個人として現れている真我としてあります。
そのとき、その存在はまったく安全です。
その、ある意味、個人のように見え、感じられる存在は、他の存在と、そして、世界と分離していません。
個人と同一化し、巻き込まれているのか、個人そのものとして現れた真我であるのか、
その違いは傍から見てもなかなか分からないかもしれません。

また、もっとも深いレベルから見れば、両者は、本当はまったく違いがないと言うこともできます。
そして、同時に、まったく違うものであると言うこともできます。
その妙なるところは、存在のみが知るというところでしょうか。
でも、その存在の本質が実現されている存在からは、
透明感、安心感、軽やかさ、自然さ、親しみやすさ等、
何かしら、その本質の香りが醸し出されているかもしれません。

スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

初めてご訪問頂いた方へ
悟り|無空庵
お知らせ
公開・週一合同ゼロ意識共鳴
ご案内
浄化のときにはこちらへどうぞ
最新記事
最新コメント
カテゴリ
月別アーカイブ
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

リンク
検索フォーム
QRコード
QR
RSSリンクの表示