在る(真我・愛・全体)は、自らのみに拠る

受講者
この一週間のご報告で

神に対する 人生に対する 何生にもわたるような
根深いものが 起こっているのを 
観ていました。


そして 在る は   世界 は

私から 寄って立つもの 全てを蹴散らしてゆきました



それ自身とは別の何か、

それ自身とは距離のある何かに、拠って立っているのは、個人。

個人である私です。

在る(真我・愛)は、自らのみに拠ります。

ただひとつであるもの

ただひとつであるすべては、そう在ります。

自ら然り。

それ自身にとって、それはとても自然なことです。


受講者
ここは 真っ暗です。



マハラジも、源は明るくない、というようなことを言っていましたね。

それ自身と距離のある対象は何もありません。

照らし出させる対象は何もありません。

また、真っ暗なときは(対象として認識できる真っ暗ではない)、

それ自身に気づいていない、焦点が当たっていない、

自覚がない状態とも言えます。

それもただ在るですね。

(その場合は、ただ自分自身であるという言い方は、自己認識、自己理解が

ないので、適切ではないとも言えます。


━その点から、無空庵で普段お話ししている「ただ在る」は、

それ自身が存在しているという気づきが伴った「ただ在る」、

あるいは、自己理解、自己認識が伴った「ただ在る」であると言うことができます。

また、現れを含め、すべてはそれである、すべて自分自身であるという

よりトータルな自己理解がすでにあれば、

源であるそれ自身に焦点が当たっていない状態でも、

理解は常に背景にあり、またはその内にあり、

あるいは、それそのものとしてあり、

その在り方は、どこに焦点が当たっていても自然、

在るがまま、どんなときでも、在るがままの在るである、

ただ自分自身である、

という言い方が可能になってきます。

そのとき、愛でもあり、全体でもある在る、

その在るからはみ出すもの、分離されるもの、排除されるものは何ひとつありません。

すべてはそれ(愛・在る・全体・真我)であり、

それ(愛・在る・全体・真我)が(現れの世界を通して)実現されている状態です。━


在るがそれ自身の存在、それ自身が在ること、それ自身が存在していることを

認識していない状態。

気づきは存在しているが、気づきがそれ自身にまだ気づいていない状態。

━そういう意味もあり、意識(気づき)と在るは同じであるけれども、

在るの方がよりベーシックであるという言い方をすることがあります。━

それは、気づきそのものなので、眠っているという言い方は適切ではないかもしれませんが、

それ自身への気づき、自覚、自己認識、自己への目覚め、自己覚醒という点では、

まだそれは起こっていない、と言えます。

また、その点から、自己への気づき、認識という限定した見方、言い方をすれば、

眠っている在る、それ自身に気づいていない気づき、という言い方も可能かもしれません。

ただ、この視点は、気づいていない状態から気づく、

という時間の流れがあることを前提としています。

マインドを超えたところに時間は存在しません。

そこでは、在るは、永遠に、無限に、絶対的に、それ自身に気づいています。

その永遠の気づき、無限の気づき、絶対的な気づき、

言い換えれば、絶対安心、絶対安全、絶対大丈夫を絶対的なベースとして、

あるいは、その中で、

現れという時空体験、世界体験を通し、気づいていない状態から気づく、

さらに気づく、何度も気づく、という再認識が繰り返され、

変わることのない絶対・在る・純粋な気づきが、無限に深まっていく、

そのトータル性が無限に拡大していく、ということが実現され続けています。)


受講者
けれど・・

この真っ暗に寛げています。

ただ ただ じっと しています。


ありがとうございます。


と 伝えました。



寛ぎ、そして、それそのものとして在れるようになるといいですね。

それそのものとして在れるようになると、自己認識が可能になります。

真っ暗の中に“いる”者(個人)では、まだ全体としての自己認識、

それそのものとしての自己認識はできません。

起こりません。

(個人がいるということは、まだ微細な現れ、

あるいは、ゆらぎがあるということでもありますね。)


受講者
無空さんは マハラジ?の言葉を引用され
その暗闇に 自らが光 となる

というような事を言われました。



それそのものとなり、自己認識が起きたとき、

光そのものとなります。

それは、認識、気づきの光です。

明るさそのもの、

明晰性そのもの、

そして、それは、“知っている”、という光・叡智(あるいは、叡智の種)でもあります。

そのとき、在る(愛・すべて・純粋な気づき)は、

自分自身(在る・愛・すべて)に対して、無限に開かれ、無限に明るい状態となります。


受講者
「共鳴」

さえぎるものが 何もない


純度 と 純度 が
響いている


ここは のびのび

楽である
爽やかで 爽快です。
と伝えました。


「アイコンタクト」

無空さんの 在り方から
在り方を学ぶ・・・


------
-----

- -

・ ・ ・ ・ ・ ・


[ 無 ] 極まり

 無すらない


[ 気づき ] 極まり

 気づくこともできなくなる




無空さんに ギリギリでした。
自我意識を保つ ギリギリでした。

と、伝えると


無空さんは、自我意識が無くなっても 純粋意識はあるわけです^^

と言われ

豆鉄砲をくらった 鳩みたいに 止まってしまいました。

ああ・・・・そうなんだ・・と感じました。



起こっては消えるを繰り返している自我が消えた際には、

起こることも消えることもなく変わらずに在る純粋な意識、純粋な気づき、

純粋な主観性そのものが残ります。


受講者
「瞑想」

今日 あった出来事が軽やかに思い出される

その 思い出す。という事に
何の抵抗も感じない。
(以前は、マインドだ。と微細に抵抗していたのに気づく)


それは とても 普通に思い出される。

そして なにも変わらない 


・ ・ ・ ・ ・ 

・ ・ ・ 


純粋意識とは? という問いが起こる

[無か?]

[在る か?]

[在る なんだろうな・・] という思考が起こる


でも、しっくりこない


---


ただ 寛ぐ   - -






何もない ところに  ただ  寛いでいる・・  これは違和感がない


「ハートの共鳴」

気づき が 突然起こる



何もないのだ


何もない


何者でもない




この 何でも  何とも  しようのない  もの


それが  そうなのだ。  


と知る。



理解が起こりましたね。

それは、いつも突然起こります。


受講者
無空さんに、
純粋意識とは、
何も ありませんでした。
純粋でした。と伝えると


無空さんは、そうです。 とおっしゃりました。


「立場を変えての共鳴」

何もない  そのもの

純粋意識 そのもの


それに気づくと 彼方となる


何でもない  何でもない  何者でもない


「ニュートラルの共鳴」

純粋意識が どーんとあって

それを 感じている 個人に

感謝が溢れる


感謝と それ と 個人は ひとつである



はい。


受講者
純粋意識は

拝むほど に

それは 神であり 全てである


感謝が溢れる



ひとつであるものが関係性として現れたとき、

そこに、感謝等の体験が起こります。


受講者
無空さんは、それはそして 真実の自己 とも言うわけです
真我です。と話されました。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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