愛(在る)がすべてを統合していく
受講者
無空さん
先ほどはセッションをありがとうございました
書ききれずにブログにも少し書きました。。。
どうぞお時間がございましたら
目を通してやってくださいませ(^0^)
師
はい、そうさせて頂きます。
受講者
クンダリーニエネルギー(チャクラ開発)に関しては
私自身は
クンダリーニ症候群とやらでも
苦しみましたし
もともと
そのエネルギーに関しては
疑問だらけで。。。
能力開発も絡みだすとややこしいものですから
この真我実現には不要のものと考えております
師
(そこに自然に注意が向く方でない限り)
特に注意を向ける必要はありません。
ラマナ・マハルシの本などにも似たようなことが書かれてあったかと思います。
気づいている意識は変わらずにずっと在ります。
それは、新たに獲得されたり、開発されたりするものではありません。
受講者
ただ
ブログにも少し書きましたが
このエネルギーが活性してきているようで(チャクラも含めてです)
クンダリーニエネルギー自体は
愛のエネルギーです
師
そうですね。
また、大きな視点から見れば、すべては愛であり、すべては愛のエネルギーです。
受講者
また
神さまの神聖さが
私自身と一体化しております
大きなエネルギーで包まれて
恍惚状態に入るという感じではないですが
(これは以前何度も起こっておりましたが。。)
ただ
それにも気がついている意識
その意識の方なんだという
ここ一番のところなのかな~~って感じです
師
そこがしっかりすれば、すべては統合され、すべてを包み込めるようになるでしょう。
そうでないと、現れに巻き込まれ、現れに振り回される可能性があります。
気づいている意識である現れの源がしっかりと主体となり、すべてが自然に統合されていけば、
すべての現れは、同等にそれ自身として理解されるようになるでしょう。
(必要なときには、自然な識別も起こりますし、同時にそれまでの現れの世界、
多様性の世界での習慣も自然に働き続けます。)
受講者
ただ
その気がついている意識というのは
それそのものなので
今ちょっと分けられない感じなんです
師
それそのものであるときは、ただそうであるので、
分けられないですね。
意識をここまでが意識で、ここからは意識ではないと分けることはできません。
愛を分割することはできません。
究極的には、ただひとつのもの(意識・愛・在る)だけがあり、
そこに識別作用が起こった時、分けるということが自然に起こります。
そして、識別作用が起こらないときは、
そこには分けられないただひとつのもの(意識・愛・在る)が在るだけです。
それそのものであることの直接体験、
直知による存在レベルでの理解等をさらに重ねた上での深く、
そして幅と厚みのあるトータルな自己理解が、
さらに存在全体を安定させてくれるでしょう。
受講者
さて
始めの共鳴では
大きな流れが起きました
真我が真我に気づいている愛です
師
愛の本流ですね。
受講者
アイコンタクトでは
今まで味わったことの無い共鳴でした
私自身が
大きく変わってしまっているからだと思います
エネルギーが
上から下から滝のように浴びせかかっているかのようでした
師
ゼロ意識共鳴では、そのときに必要なことが自然に起こります。
そして、それは適切です。
受講者
瞑想では
絶対の安心
絶対の安全
絶対の大丈夫の
真実の愛でした
ここです
ここです^^
師
はい、そこです^^
受講者
ハートの共鳴では
愛です
生まれいずるところ
いのちの源
愛です
それは大いなる慈悲深さを湛えておりました
師
よく感じ取られていますね。
受講者
立場を変えての共鳴は
その真実の愛が
濃厚な透明感のなかに吸い込まれていきました
無空さんのいのちの中は(わたしたちのいのちの中でもありますが)
濃厚な何かだなって思っていました
明るく白い
透明な何かです
そんな風に感じていました
師
それは、純度が高く(あるいは、純粋性そのもの)、また満ちている絶対的な“何か”ですね。
受講者
立場なし・ニュートラルの共鳴は
いきなり
雷が落ちたように
グラっとめまいのように感じ
大きなエネルギーが
尾てい骨まで貫いていきました
師
それもまた、共鳴により自然に起こったことですね。
受講者
セッション後
ちょっとだけ
嫌な気持ちが出て行きました
あ
おおちゃくものの
傲慢ものの私だったかなって^^
クンダリーニエネルギーのことを
一生懸命聞きながらも
その開発には
全く興味がないどころか
この真我実現には
不要とさえ思っていることが
うまく伝わっていないことが
とても悲しかったです
師
本質は伝わってますので、大丈夫です。
必要と感じられたならば、このようにメールでフォローして頂ければ、
よろしいですね。
受講者
話すことは難しいですね^^
師
存在(沈黙)で語り合っていますので、大丈夫です。
ご自身から出た言葉、そして、それがどのように伝わるかからも
自由で在りましょう。
そして、もし必要があれば、今回のように、自然にフォローや、
確認、訂正等が起こるということも知って在りましょう。
受講者
さらに
自己実現に関して
その大きなエネルギーを自在に操りながら
それとはマインドのコントロールですよね
師
操るという立ち位置は、そうですね。
それそのもの(愛・気づいている意識そのもの)であることで、
自然に整う等は、コントロールではありません。
その在り方は、ただそうである、ただそのようになるということを
(絶対的に、そして、普通に)“知っている”というだけです。
受講者
その自己(願望)は叶うとか
叶わないとか
まったく真我実現とは関係ないですよね^^
師
大きな意味では、すべてはそれにつながっていくとも言えますが、
直接的な関係はないとも言えますね。
マインド(現れ)と真我(源)を識別してみる視点からは、
それは、真我実現ではなく、マインド実現です。
そして、(ニュートラルな視点からは)当然、そこによいも悪いもありません。
それは、ただそうであるというだけです。
受講者
これら
エネルギーワークを散々してきた私は
何が
どう在るのか
理解していきたいところですが
ただ受け入れていくという愛の在りようは
起きていますから
そんな風に今いる友人たちとも
何ひとつ問題はありません~~^^
師
いいですね。
受講者
でも
真我実現の道は
それら
マインドのコントロール上には絶対にないですし
師
主体となっている者、立ち位置が違いますね。
受講者
そのことを
伝えたいという気持ちが
まだまだ強いです
師
近い関係の方には、そのような思いも起きてきやすいですね。
受講者
この真我実現が
その自己実現をも含み
在ることが
どれほどの幸せなのかを
どうしたら
伝えることが出来るのだろうと
いった強い思いが出てきます
(ここのところの私のブログはそんな風です。。)
師
どなたかに意識を向けて書かれていらっしゃるのであれば、
それは必ず届いています。
(わたしも、お一人の感想への返信の中で、内容的に自然なものであれば、
他の方や複数の方へ向けて、コメントすることなどもあります。
また、どなたかに意識を向けて書かれる時も、その立ち位置、純度というものが
とても大切ですね。)
それがいつ気づかれるか、いつその方に変容が起こるかは、
その方の自然でベストなタイミングがありますので、気にされる必要はありません。
その方は、今ご自身が思う道を歩かれていらっしゃると思いますので、
それはそれで今のその方に必要な体験、ベストであると見ることもできます。
ですが、東にあるところへ向かいたいと思っていながら、西に進んでいるのが見えるのであれば、
お伝えできるタイミングがあれば、お伝えできる範囲でお伝えするのは親切とも言えます。
(どうしても、そのご本人がその道を進みたいという思いが強いのであれば、
ある程度のその歩みを見守り、その道に疑問等を持ち始めた頃に、
お話しするのもひとつのタイミングかもしれません。
いくら話しても無駄、あるいは、逆効果になるタイミングもありますし、
よいタイミングであれば、お話しはとても有効に働く場合もあります。)
ただ、真我はすべてであるので、どこから行っても、
いずれそこに注意が向くようになる(かもしれない)というのはあります。
地球のように丸ければ、東へ向かって行っても(東回り)、西に向かって行っても(西回り)、
場所によりかかる時間が違うかもしれませんが、同じ場所に辿り付くことは可能です。
必ずしも遠回りが悪いわけではありませんが、全体が見える方であれば、
近い方をお伝えするのが自然かもしれません。
あるいは、両方、どのくらい時間がかかるかをただお伝えするのもよいかもしれませんし、
すでに遠回りの道を経験している方であれば、その経験をただお話しするのもよいかもしれません。
そして、後はただその方からどのように起こっていくかを見守るだけです。
すべては大丈夫であるということを絶対的に“知っている”在り方(愛)、その立ち位置で。
受講者
さらに
この真我実現に関しての
正しい理解は
さらに無空さんの個人セッションと
無空庵さんのブログを読みすすめていきたいです
師
はい、以前の返信にも書かせて頂きましたように、
無空庵の理解、視点もまた、無限にある中のたったひとつとも言えますが、
これは、お一人お一人がその存在レベルで、
ちょうど今回の共鳴中(瞑想中)にあなたの体験にあったように、
ここです
ここです^^
と
直接感じ、直接知るところですので、共に在り、そこをサポートさせて頂きます。
受講者
この真我を知りたいという欲求は
特別なものなのでしょうか?
師
それは、真我の本性でもあり、とても自然なものです。
(現れである個人体験━まだ真我を再認識していない段階━も、
真我のひとつの可能性として、その側面として、
個人の立ち位置から見れば、世界、そして、自分自身はどのように見え、
どのように体験されるのか、
真我がそれ自身を知りたいという、その本性から起こっているという
見方もできます。)
受講者
真我を
真我と知るまでに
そのことのためだけに
すでに
何度も転生してきて
やっとのこと
それそのものを知るに至る
タイミングが訪れるのだという話も聞いたことがあります
それほど
この真我に関しての
正しい理解は
なかなかたどり着けるものではないとも思います
師
そうですね。
ニサルガダッタ・マハラジの本「I AM THAT」にも、
【光はすべてにとって、つねにそこにある。
だが、探求者がまれなのだ。
探求者のなかでも用意のできた者はたいへんまれなのだ。
成熟したハートとマインドが不可欠なのだ。】
とあります。
今、時代が進み、覚醒体験や悟りの一瞥体験をされる方も増えてきているようです。
そのような今でも、やはり成熟している存在は本当にまれかもしれません。
あなたの真実に対する強く、熱く、真剣で絶え間ない思い(愛)が、
今あなたが在る位置(愛)に連れて来てくれたと言えるでしょう。
それは、とても稀有なこととも言えます。
そして、そのように稀有な存在ひとりひとりの深い理解、深い愛が、
世界全体、すべての存在を深いレベルから支え、育み、包み込み、
全体の深化、変容を促していきます。
受講者
また来週どうぞよろしくお願いいたします
師
こちらこそよろしくお願い致します。
追伸:
では、ブログの方も読ませていただきましょう。
受講者
無空さん
先ほどはセッションありがとうございました
ここずっと
大きなエネルギーのままで
これがクンダリーニエネルギーと関係しているのか
ちょっとよく分かりませんが。。
「在る」その愛の立ち位置であれば
本当にバランスよく
何ひとつ心身のバランスを
(クンダリーニ症候群だったりしておりましたものね)
崩すようなことはありません~
師
そうですね。
在れば(愛であれば)、自然にすべては整い(あるいは、完璧であることが見出され)、
バランスされていきます。
受講者
ただここ数週間は
不思議な感じで
これまでの自分を統合していくことが起きているのかもしれませんが
クンダリーニヨガをかじりだした時も
それに向かわざるをえないような
苦しみでたどり着いているので
それを開発することで
得られるらしい能力に関しては
全く 魔 ぐらいに思っています
師
自我にとって、それは魔となる可能性があります。
真我にとっては、すべてが愛です。
(必要であれば、それは自然に開発されるということが起こるでしょうし、
そうでなければ、真我からはそのことへの興味は起こらないでしょう。)
起こってくるもの(能力)が魔となるか、真(ゼロ・無・愛)となるかは、
どう在るか、その立ち位置次第と言えますね。
受講者
中途半端に開かれていて
苦しんでいたのですから。。。。
師
やはり、まずは、すべてを統合できる真の土台、
真の中心、真の自己(真我・愛)を知ること。
そして、それで在れるようになることですね。
受講者
ここにきて
そのエネルギーも含めて
その愛であるところに
ただ
ただ落ち着いていきます
師
いいですね。
受講者
ただそこに
「在る」愛に
向かうのみです
ありがとうございます
(^0^)
前半お話共鳴で
皆様の感想を読んで
そのことで
自分自身の理解が至りませんとお話ししたら
「それでいい」が自分の中で起こっていました
師
話してみると、それ自身の中から応えが起こってくることがありますね。
受講者
とことん
どのように在るのか
その在りようなのだなと思いました
師
そうですね。
本当にそれだけと言えます。
受講者
皆様の理解は
それで本当にすばらしく
その理解が自分に起こったらそれでいいし
起こらなくても
全くかまわないです
この愛は不滅ですから~~^^
師
そうですね。
その捉われない態度、在り方が在る(愛)です。
受講者
さて
始めの共鳴は
少しお話をしながらでしたね
揺るがない愛が
やわらかく変化して
大きな流れとなりました
「揺らぎ」と申しましたが
大きな流れはこの柔軟な柔らかさそのものの愛です
師
よい捉え方ですね。
受講者
また
愛の中心では
すべてが
全く静止しているかのように
何もありません
いいえ満ち満ちているのです
少し揺らいでやっとのことそれを味わうことが出来るという感じでもあります
師
その感覚、理解は正しいです。
まったくそれそのものであるときは、何もなく、そして、絶対的に満ち満ちています。
そこに微細なゆらぎ(気づき)が起きて、はじめてそれを味わうことが可能になります。
(さらには、それはただひとつの均質なるものの中で起こっているゆらぎなきゆらぎ、
静止の中の動、不動不変の気づきの中の気づくという動きとも言えます。
そのただひとつであるものは、気づき、気づいている意識であるがゆえに、ただそうであります。
そこには、絶対の静止と無限の躍動が同時に存在しています。)
受講者
アイコンタクトは
今までに味わったことのない共鳴でした
無空さん
わたしは
もう私ではないです
あるいは
私ではない何かがアイコンタクトでした
師
それは、何者でもない者
何者でもない“何か”かもしれませんね。
受講者
わたしはどこまでもわたしです
師
特定の誰でもない、何者でもない純粋な主観性そのものは、
どこまでもそう在ります。
受講者
クンダリーニエネルギーであっても
チャクラであっても
それは顕れの部分であるということであれば
いずれは消えてなくなるものですよね
師
現れては消え、消えてはまた現れを繰り返す、
という視点もありますね。
在る(愛)が主体となれば、現れていても、バランスされます。
(バランスされ、すべてがひとつ━愛━として機能しているとき、
消えていると見ることもできるかもしれません。)
受講者
だとすると
ハートチャクラは厳密にいうと
真我「ハート」ではありませんね
チャクラも消えて無くなるのですから
師
すべての現れも真我であるという視点からは、
チャクラも真我であるという見方もあります。
変わらずに在り続けるものという視点からは、
すべての現れの源である真我だけが実在です。
受講者
アートマン「真我」は
そのハートチャクラのすぐそばに在るとも
どこかで読んだ気もするのですが
なので
そのチャクラと勘違いするのかもしれないですね
ハート(真我・アートマン)自体は
消えてなくならない
気づいている
愛そのものですよね
師
ハートをどのように捉えるか、定義するかなどによりますが、
それは消えてなくならないものということであれば、
真我・気づいている愛そのものと言えますね。
相手の方の理解や状況に合わせ、様々な意味で使うこともありますが、
無空庵での基本的な理解は、ハート=真我です。
ハートチャクラは、そのひとつの現れです。
(そこに真我がトータルに現れているという見方はできるかもしれません。)
受講者
以前より
無空さんの共鳴での次元を超えたような体験は
エネルギーではないという
そのエッセンスをただ
知り続けていきたい
それを生きたいのですという
感じです^^
師
エネルギーという言葉もそれをどのように捉えるかで違ってきますが、
本質、エッセンスという捉え方は、源と現れ、
不変で不動であるものと起こっては消えていくもの、現れては動き、変化していくもの、
絶対と相対、絶対的事実(実在・実存)と一時的現象とを識別し、
様々に変化するエネルギーに翻弄され、振り回されないようにするために
有効だということが言えますね。
受講者
なので
本当に
クンダリーニエネルギーだの
チャクラエネルギーだの
構いたくないのですがね。。
師
あまり捉われずに在りましょう。
受講者
起こってくるのですから
仕方ないですね。。
師
起こってくるものは起こるがまま、
在るがままに。
ただそうであるということで。
受講者
クンダリーニエネルギー自体
愛のエネルギーですけどね^^
なので
ややこしいのです。。。
師
ややこしいのは、マインドの方です。
源も愛であり、その現れも愛。
すべては愛。
とてもシンプルです。
苦しめられたものを真我(愛)でないもの、
苦しみから救ってくれたものを真我(愛)
とすると、真我(愛)でないものが存在することになります。
(視点により、そのように識別することはありますが。)
もちろん、真我(愛)に、直接的に苦しめようという意図や思いはありません。
ただすべての可能性の中で、それが多様に展開される中で、
その関係性、立ち位置、視点、在り方等により、
それ(苦しみ)が体験されるということは起こります。
真我にとってその体験もまた、
未知であり、無限である自分自身を知るための純粋に貴重な体験のひとつであり、
また、それ自身の本質、そして、トータルなそれ自身を知っていくためにも
それは貴重な経験、導きとなります。
苦しめられたもの、苦しみから救ってくれたもの、その両方の奥に共通して実在している、
あるいは、その両方を貫き実在している
ただひとつの愛に焦点を当てましょう。
ただそれそのものとして在りましょう。
それが必要なすべてを変容させ、すべてを統合していきます。
受講者
真我のそれは
エネルギーではない
また
純粋さと神聖さにおいては
他に比べようもありません
師
それは比類なきものです。
受講者
しかし
神さまのような高次の存在方のそれも
神聖さは
真我のそれとややこしく
同じようで。。。
師
様々に現れた存在もまた、真我の現れ、神聖さの現れです。
受講者
なので
前回と今回と
うまくお話しできていないのですが
何でしょう~~というところなんです。。。
神聖さのそれは
何度も
無空さんのセッションで味わいましたが
ある日
いのちが
大きく
呼吸をしたかのように
その愛を
感じ続けておりましたら
ここんところ
本当にそこから
離れることはありません
さらに深く愛である
ところへと落ち着いていきますね
う~~~ん
それしかないって感じです^^
師
それがすべてを統合していきます。
受講者
このクンダリーニエネルギーの濃厚な愛と
神さまの神聖さが
ややこしく
こんがらがったまま
私の真我として
スッキリと理解されてこないのですがね。。。
師
愛(在る)はすべてを統合していきます。
愛(在る)で在り続ければ、そうなっていくでしょう。
受講者
体験や
それそのものである時は
やはり
どうなのかは見るのは難しいといったところでしょうか
じっくり
焦らずいきます
師
それがいいですね。
受講者
さらに
深いこのいのちの
愛に
さらに気づき続けていきますね
師
今起こっている体験も、より深まり、より大きく全てを統合するための恩寵とも言えますね。
無空さん
先ほどはセッションをありがとうございました
書ききれずにブログにも少し書きました。。。
どうぞお時間がございましたら
目を通してやってくださいませ(^0^)
師
はい、そうさせて頂きます。
受講者
クンダリーニエネルギー(チャクラ開発)に関しては
私自身は
クンダリーニ症候群とやらでも
苦しみましたし
もともと
そのエネルギーに関しては
疑問だらけで。。。
能力開発も絡みだすとややこしいものですから
この真我実現には不要のものと考えております
師
(そこに自然に注意が向く方でない限り)
特に注意を向ける必要はありません。
ラマナ・マハルシの本などにも似たようなことが書かれてあったかと思います。
気づいている意識は変わらずにずっと在ります。
それは、新たに獲得されたり、開発されたりするものではありません。
受講者
ただ
ブログにも少し書きましたが
このエネルギーが活性してきているようで(チャクラも含めてです)
クンダリーニエネルギー自体は
愛のエネルギーです
師
そうですね。
また、大きな視点から見れば、すべては愛であり、すべては愛のエネルギーです。
受講者
また
神さまの神聖さが
私自身と一体化しております
大きなエネルギーで包まれて
恍惚状態に入るという感じではないですが
(これは以前何度も起こっておりましたが。。)
ただ
それにも気がついている意識
その意識の方なんだという
ここ一番のところなのかな~~って感じです
師
そこがしっかりすれば、すべては統合され、すべてを包み込めるようになるでしょう。
そうでないと、現れに巻き込まれ、現れに振り回される可能性があります。
気づいている意識である現れの源がしっかりと主体となり、すべてが自然に統合されていけば、
すべての現れは、同等にそれ自身として理解されるようになるでしょう。
(必要なときには、自然な識別も起こりますし、同時にそれまでの現れの世界、
多様性の世界での習慣も自然に働き続けます。)
受講者
ただ
その気がついている意識というのは
それそのものなので
今ちょっと分けられない感じなんです
師
それそのものであるときは、ただそうであるので、
分けられないですね。
意識をここまでが意識で、ここからは意識ではないと分けることはできません。
愛を分割することはできません。
究極的には、ただひとつのもの(意識・愛・在る)だけがあり、
そこに識別作用が起こった時、分けるということが自然に起こります。
そして、識別作用が起こらないときは、
そこには分けられないただひとつのもの(意識・愛・在る)が在るだけです。
それそのものであることの直接体験、
直知による存在レベルでの理解等をさらに重ねた上での深く、
そして幅と厚みのあるトータルな自己理解が、
さらに存在全体を安定させてくれるでしょう。
受講者
さて
始めの共鳴では
大きな流れが起きました
真我が真我に気づいている愛です
師
愛の本流ですね。
受講者
アイコンタクトでは
今まで味わったことの無い共鳴でした
私自身が
大きく変わってしまっているからだと思います
エネルギーが
上から下から滝のように浴びせかかっているかのようでした
師
ゼロ意識共鳴では、そのときに必要なことが自然に起こります。
そして、それは適切です。
受講者
瞑想では
絶対の安心
絶対の安全
絶対の大丈夫の
真実の愛でした
ここです
ここです^^
師
はい、そこです^^
受講者
ハートの共鳴では
愛です
生まれいずるところ
いのちの源
愛です
それは大いなる慈悲深さを湛えておりました
師
よく感じ取られていますね。
受講者
立場を変えての共鳴は
その真実の愛が
濃厚な透明感のなかに吸い込まれていきました
無空さんのいのちの中は(わたしたちのいのちの中でもありますが)
濃厚な何かだなって思っていました
明るく白い
透明な何かです
そんな風に感じていました
師
それは、純度が高く(あるいは、純粋性そのもの)、また満ちている絶対的な“何か”ですね。
受講者
立場なし・ニュートラルの共鳴は
いきなり
雷が落ちたように
グラっとめまいのように感じ
大きなエネルギーが
尾てい骨まで貫いていきました
師
それもまた、共鳴により自然に起こったことですね。
受講者
セッション後
ちょっとだけ
嫌な気持ちが出て行きました
あ
おおちゃくものの
傲慢ものの私だったかなって^^
クンダリーニエネルギーのことを
一生懸命聞きながらも
その開発には
全く興味がないどころか
この真我実現には
不要とさえ思っていることが
うまく伝わっていないことが
とても悲しかったです
師
本質は伝わってますので、大丈夫です。
必要と感じられたならば、このようにメールでフォローして頂ければ、
よろしいですね。
受講者
話すことは難しいですね^^
師
存在(沈黙)で語り合っていますので、大丈夫です。
ご自身から出た言葉、そして、それがどのように伝わるかからも
自由で在りましょう。
そして、もし必要があれば、今回のように、自然にフォローや、
確認、訂正等が起こるということも知って在りましょう。
受講者
さらに
自己実現に関して
その大きなエネルギーを自在に操りながら
それとはマインドのコントロールですよね
師
操るという立ち位置は、そうですね。
それそのもの(愛・気づいている意識そのもの)であることで、
自然に整う等は、コントロールではありません。
その在り方は、ただそうである、ただそのようになるということを
(絶対的に、そして、普通に)“知っている”というだけです。
受講者
その自己(願望)は叶うとか
叶わないとか
まったく真我実現とは関係ないですよね^^
師
大きな意味では、すべてはそれにつながっていくとも言えますが、
直接的な関係はないとも言えますね。
マインド(現れ)と真我(源)を識別してみる視点からは、
それは、真我実現ではなく、マインド実現です。
そして、(ニュートラルな視点からは)当然、そこによいも悪いもありません。
それは、ただそうであるというだけです。
受講者
これら
エネルギーワークを散々してきた私は
何が
どう在るのか
理解していきたいところですが
ただ受け入れていくという愛の在りようは
起きていますから
そんな風に今いる友人たちとも
何ひとつ問題はありません~~^^
師
いいですね。
受講者
でも
真我実現の道は
それら
マインドのコントロール上には絶対にないですし
師
主体となっている者、立ち位置が違いますね。
受講者
そのことを
伝えたいという気持ちが
まだまだ強いです
師
近い関係の方には、そのような思いも起きてきやすいですね。
受講者
この真我実現が
その自己実現をも含み
在ることが
どれほどの幸せなのかを
どうしたら
伝えることが出来るのだろうと
いった強い思いが出てきます
(ここのところの私のブログはそんな風です。。)
師
どなたかに意識を向けて書かれていらっしゃるのであれば、
それは必ず届いています。
(わたしも、お一人の感想への返信の中で、内容的に自然なものであれば、
他の方や複数の方へ向けて、コメントすることなどもあります。
また、どなたかに意識を向けて書かれる時も、その立ち位置、純度というものが
とても大切ですね。)
それがいつ気づかれるか、いつその方に変容が起こるかは、
その方の自然でベストなタイミングがありますので、気にされる必要はありません。
その方は、今ご自身が思う道を歩かれていらっしゃると思いますので、
それはそれで今のその方に必要な体験、ベストであると見ることもできます。
ですが、東にあるところへ向かいたいと思っていながら、西に進んでいるのが見えるのであれば、
お伝えできるタイミングがあれば、お伝えできる範囲でお伝えするのは親切とも言えます。
(どうしても、そのご本人がその道を進みたいという思いが強いのであれば、
ある程度のその歩みを見守り、その道に疑問等を持ち始めた頃に、
お話しするのもひとつのタイミングかもしれません。
いくら話しても無駄、あるいは、逆効果になるタイミングもありますし、
よいタイミングであれば、お話しはとても有効に働く場合もあります。)
ただ、真我はすべてであるので、どこから行っても、
いずれそこに注意が向くようになる(かもしれない)というのはあります。
地球のように丸ければ、東へ向かって行っても(東回り)、西に向かって行っても(西回り)、
場所によりかかる時間が違うかもしれませんが、同じ場所に辿り付くことは可能です。
必ずしも遠回りが悪いわけではありませんが、全体が見える方であれば、
近い方をお伝えするのが自然かもしれません。
あるいは、両方、どのくらい時間がかかるかをただお伝えするのもよいかもしれませんし、
すでに遠回りの道を経験している方であれば、その経験をただお話しするのもよいかもしれません。
そして、後はただその方からどのように起こっていくかを見守るだけです。
すべては大丈夫であるということを絶対的に“知っている”在り方(愛)、その立ち位置で。
受講者
さらに
この真我実現に関しての
正しい理解は
さらに無空さんの個人セッションと
無空庵さんのブログを読みすすめていきたいです
師
はい、以前の返信にも書かせて頂きましたように、
無空庵の理解、視点もまた、無限にある中のたったひとつとも言えますが、
これは、お一人お一人がその存在レベルで、
ちょうど今回の共鳴中(瞑想中)にあなたの体験にあったように、
ここです
ここです^^
と
直接感じ、直接知るところですので、共に在り、そこをサポートさせて頂きます。
受講者
この真我を知りたいという欲求は
特別なものなのでしょうか?
師
それは、真我の本性でもあり、とても自然なものです。
(現れである個人体験━まだ真我を再認識していない段階━も、
真我のひとつの可能性として、その側面として、
個人の立ち位置から見れば、世界、そして、自分自身はどのように見え、
どのように体験されるのか、
真我がそれ自身を知りたいという、その本性から起こっているという
見方もできます。)
受講者
真我を
真我と知るまでに
そのことのためだけに
すでに
何度も転生してきて
やっとのこと
それそのものを知るに至る
タイミングが訪れるのだという話も聞いたことがあります
それほど
この真我に関しての
正しい理解は
なかなかたどり着けるものではないとも思います
師
そうですね。
ニサルガダッタ・マハラジの本「I AM THAT」にも、
【光はすべてにとって、つねにそこにある。
だが、探求者がまれなのだ。
探求者のなかでも用意のできた者はたいへんまれなのだ。
成熟したハートとマインドが不可欠なのだ。】
とあります。
今、時代が進み、覚醒体験や悟りの一瞥体験をされる方も増えてきているようです。
そのような今でも、やはり成熟している存在は本当にまれかもしれません。
あなたの真実に対する強く、熱く、真剣で絶え間ない思い(愛)が、
今あなたが在る位置(愛)に連れて来てくれたと言えるでしょう。
それは、とても稀有なこととも言えます。
そして、そのように稀有な存在ひとりひとりの深い理解、深い愛が、
世界全体、すべての存在を深いレベルから支え、育み、包み込み、
全体の深化、変容を促していきます。
受講者
また来週どうぞよろしくお願いいたします
師
こちらこそよろしくお願い致します。
追伸:
では、ブログの方も読ませていただきましょう。
受講者
無空さん
先ほどはセッションありがとうございました
ここずっと
大きなエネルギーのままで
これがクンダリーニエネルギーと関係しているのか
ちょっとよく分かりませんが。。
「在る」その愛の立ち位置であれば
本当にバランスよく
何ひとつ心身のバランスを
(クンダリーニ症候群だったりしておりましたものね)
崩すようなことはありません~
師
そうですね。
在れば(愛であれば)、自然にすべては整い(あるいは、完璧であることが見出され)、
バランスされていきます。
受講者
ただここ数週間は
不思議な感じで
これまでの自分を統合していくことが起きているのかもしれませんが
クンダリーニヨガをかじりだした時も
それに向かわざるをえないような
苦しみでたどり着いているので
それを開発することで
得られるらしい能力に関しては
全く 魔 ぐらいに思っています
師
自我にとって、それは魔となる可能性があります。
真我にとっては、すべてが愛です。
(必要であれば、それは自然に開発されるということが起こるでしょうし、
そうでなければ、真我からはそのことへの興味は起こらないでしょう。)
起こってくるもの(能力)が魔となるか、真(ゼロ・無・愛)となるかは、
どう在るか、その立ち位置次第と言えますね。
受講者
中途半端に開かれていて
苦しんでいたのですから。。。。
師
やはり、まずは、すべてを統合できる真の土台、
真の中心、真の自己(真我・愛)を知ること。
そして、それで在れるようになることですね。
受講者
ここにきて
そのエネルギーも含めて
その愛であるところに
ただ
ただ落ち着いていきます
師
いいですね。
受講者
ただそこに
「在る」愛に
向かうのみです
ありがとうございます
(^0^)
前半お話共鳴で
皆様の感想を読んで
そのことで
自分自身の理解が至りませんとお話ししたら
「それでいい」が自分の中で起こっていました
師
話してみると、それ自身の中から応えが起こってくることがありますね。
受講者
とことん
どのように在るのか
その在りようなのだなと思いました
師
そうですね。
本当にそれだけと言えます。
受講者
皆様の理解は
それで本当にすばらしく
その理解が自分に起こったらそれでいいし
起こらなくても
全くかまわないです
この愛は不滅ですから~~^^
師
そうですね。
その捉われない態度、在り方が在る(愛)です。
受講者
さて
始めの共鳴は
少しお話をしながらでしたね
揺るがない愛が
やわらかく変化して
大きな流れとなりました
「揺らぎ」と申しましたが
大きな流れはこの柔軟な柔らかさそのものの愛です
師
よい捉え方ですね。
受講者
また
愛の中心では
すべてが
全く静止しているかのように
何もありません
いいえ満ち満ちているのです
少し揺らいでやっとのことそれを味わうことが出来るという感じでもあります
師
その感覚、理解は正しいです。
まったくそれそのものであるときは、何もなく、そして、絶対的に満ち満ちています。
そこに微細なゆらぎ(気づき)が起きて、はじめてそれを味わうことが可能になります。
(さらには、それはただひとつの均質なるものの中で起こっているゆらぎなきゆらぎ、
静止の中の動、不動不変の気づきの中の気づくという動きとも言えます。
そのただひとつであるものは、気づき、気づいている意識であるがゆえに、ただそうであります。
そこには、絶対の静止と無限の躍動が同時に存在しています。)
受講者
アイコンタクトは
今までに味わったことのない共鳴でした
無空さん
わたしは
もう私ではないです
あるいは
私ではない何かがアイコンタクトでした
師
それは、何者でもない者
何者でもない“何か”かもしれませんね。
受講者
わたしはどこまでもわたしです
師
特定の誰でもない、何者でもない純粋な主観性そのものは、
どこまでもそう在ります。
受講者
クンダリーニエネルギーであっても
チャクラであっても
それは顕れの部分であるということであれば
いずれは消えてなくなるものですよね
師
現れては消え、消えてはまた現れを繰り返す、
という視点もありますね。
在る(愛)が主体となれば、現れていても、バランスされます。
(バランスされ、すべてがひとつ━愛━として機能しているとき、
消えていると見ることもできるかもしれません。)
受講者
だとすると
ハートチャクラは厳密にいうと
真我「ハート」ではありませんね
チャクラも消えて無くなるのですから
師
すべての現れも真我であるという視点からは、
チャクラも真我であるという見方もあります。
変わらずに在り続けるものという視点からは、
すべての現れの源である真我だけが実在です。
受講者
アートマン「真我」は
そのハートチャクラのすぐそばに在るとも
どこかで読んだ気もするのですが
なので
そのチャクラと勘違いするのかもしれないですね
ハート(真我・アートマン)自体は
消えてなくならない
気づいている
愛そのものですよね
師
ハートをどのように捉えるか、定義するかなどによりますが、
それは消えてなくならないものということであれば、
真我・気づいている愛そのものと言えますね。
相手の方の理解や状況に合わせ、様々な意味で使うこともありますが、
無空庵での基本的な理解は、ハート=真我です。
ハートチャクラは、そのひとつの現れです。
(そこに真我がトータルに現れているという見方はできるかもしれません。)
受講者
以前より
無空さんの共鳴での次元を超えたような体験は
エネルギーではないという
そのエッセンスをただ
知り続けていきたい
それを生きたいのですという
感じです^^
師
エネルギーという言葉もそれをどのように捉えるかで違ってきますが、
本質、エッセンスという捉え方は、源と現れ、
不変で不動であるものと起こっては消えていくもの、現れては動き、変化していくもの、
絶対と相対、絶対的事実(実在・実存)と一時的現象とを識別し、
様々に変化するエネルギーに翻弄され、振り回されないようにするために
有効だということが言えますね。
受講者
なので
本当に
クンダリーニエネルギーだの
チャクラエネルギーだの
構いたくないのですがね。。
師
あまり捉われずに在りましょう。
受講者
起こってくるのですから
仕方ないですね。。
師
起こってくるものは起こるがまま、
在るがままに。
ただそうであるということで。
受講者
クンダリーニエネルギー自体
愛のエネルギーですけどね^^
なので
ややこしいのです。。。
師
ややこしいのは、マインドの方です。
源も愛であり、その現れも愛。
すべては愛。
とてもシンプルです。
苦しめられたものを真我(愛)でないもの、
苦しみから救ってくれたものを真我(愛)
とすると、真我(愛)でないものが存在することになります。
(視点により、そのように識別することはありますが。)
もちろん、真我(愛)に、直接的に苦しめようという意図や思いはありません。
ただすべての可能性の中で、それが多様に展開される中で、
その関係性、立ち位置、視点、在り方等により、
それ(苦しみ)が体験されるということは起こります。
真我にとってその体験もまた、
未知であり、無限である自分自身を知るための純粋に貴重な体験のひとつであり、
また、それ自身の本質、そして、トータルなそれ自身を知っていくためにも
それは貴重な経験、導きとなります。
苦しめられたもの、苦しみから救ってくれたもの、その両方の奥に共通して実在している、
あるいは、その両方を貫き実在している
ただひとつの愛に焦点を当てましょう。
ただそれそのものとして在りましょう。
それが必要なすべてを変容させ、すべてを統合していきます。
受講者
真我のそれは
エネルギーではない
また
純粋さと神聖さにおいては
他に比べようもありません
師
それは比類なきものです。
受講者
しかし
神さまのような高次の存在方のそれも
神聖さは
真我のそれとややこしく
同じようで。。。
師
様々に現れた存在もまた、真我の現れ、神聖さの現れです。
受講者
なので
前回と今回と
うまくお話しできていないのですが
何でしょう~~というところなんです。。。
神聖さのそれは
何度も
無空さんのセッションで味わいましたが
ある日
いのちが
大きく
呼吸をしたかのように
その愛を
感じ続けておりましたら
ここんところ
本当にそこから
離れることはありません
さらに深く愛である
ところへと落ち着いていきますね
う~~~ん
それしかないって感じです^^
師
それがすべてを統合していきます。
受講者
このクンダリーニエネルギーの濃厚な愛と
神さまの神聖さが
ややこしく
こんがらがったまま
私の真我として
スッキリと理解されてこないのですがね。。。
師
愛(在る)はすべてを統合していきます。
愛(在る)で在り続ければ、そうなっていくでしょう。
受講者
体験や
それそのものである時は
やはり
どうなのかは見るのは難しいといったところでしょうか
じっくり
焦らずいきます
師
それがいいですね。
受講者
さらに
深いこのいのちの
愛に
さらに気づき続けていきますね
師
今起こっている体験も、より深まり、より大きく全てを統合するための恩寵とも言えますね。
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