道(タオ)、ただそうである

受講者
最後に道(タオ)はありますか?という質問がありました。

ハートの共鳴辺りから、これは真我というより、
道というのが適切だなという感覚が起こっており、それをお伝えしました。



同じものではありますが(それぞれの方には、それぞれの見解があると思いますが、無空庵的にやわらかく大きな意味で捉えて)、真我=愛=全体=純粋な気づき=空=無=実在などのように同じものでも、それぞれに前面、全体に開かれる質、その働き等も含め、そこから感じられるものが違います。


受講者
セッション後は、今をどのように言葉にしてよいのか全くわかりません。

同じことではありますが
真我というより在る
在るというより自然、普通
自然、普通、を含んだ、ただ。
そのような表現がやっとです。

そうだったんだなぁ

そうなんだなぁ

最後は、そう。。。(頷き、またはただ沈黙)

老子のいう無為自然。
人としての正しく自然な在り方と素晴らしさが
道(タオ)を知ることによって、明るみになりました。
(再確認という感じでもありますが)

マインドの入る隙のないただひとつのところからの
メッセージは本当に最も大切なことを
包み隠さず、丁寧に大事に語られており、大きな学びとなります。

そのような在り方は無空庵そのものでもありますね。
道(真我)がそのまま現れ、かつ、最大限に配慮がなされていると感じます。



過去からの偉大な教えが、今また、より生き生きと現れてきていますね。

そして、その時代は、“人として”(人としての正しく自然な在り方と素晴らしさが・・・・)
ということだったでしょうけれど、

(時代として、そのような表現になったとも言えますし、
また、ここでいう“人”は、すべてが統合された人、真我・在るそのものとしても見ることもできますね。)

今は、道(タオ)そのものとして、在る、真我、愛そのものとして、

そちらが主体となり、自然に在れるようになるといいですね。

(在るが主体であれば、人としての現れの部分も含め、すべてが統合されていきます。

すべてが包まれ、すべてが自然に含まれるようになります。

自己理解が深まり、━以前は、「自己理解と受け入れ」という表現も時々使っていましたが、マインドで受け入れようとして混乱された方がいらっしゃったので、最近は使用は控えめにしています。━在る(愛・全体・自然)が変わらぬ主体となったとき、もはや在る主体、個人主体という問題は、なくなります。

とても自然な在り方、

ただそうである、という在り方になります。)

道(タオ)、在る、真我、愛そのものとして在ることは、

けっして現れである人の部分をおろそかにするものではありません。

(実践にあまりに夢中になり、一時的に日常生活がおろそかになる可能性は

ありますが、それはまだ本質が理解できていません。

普通、日常生活の中にこそ、真の実践があります。

在るを意識することは一瞬あればできますし、ただ気づいていることは、

可能性として、日常のすべての場面において可能です。

そして、状況により、気づいていれなかったとき、巻き込まれていたことに気づいたときに

それにとらわれないという在り方も、日常の中で何度もチャンスがあるでしょう。

どんな言い分け的な思考や物語化していきそうな思考が積み重なってきても、

どこまでもただ気づいている、そのようにただ起こっている、ただそうであるという在り方は、

日常の中においてこそ、実践可能です。)

道(タオ)、在る、真我、愛そのものとして在ることは、
現れを真に自然で、トータルで、そして、また適切なものにします。

日常生活を送って行く上で、人レベルの常識・視点(それはそれぞれとも言えますが、
ある程度共通的なもの)はとても大切です。

(以下は、あなたへではなく、読者の方、該当する方へ向けてですが。)

まだ、トータルな統合に到っていない方は、現場、現れレベルではそちらを優先させてください。

(トータルに統合された存在は、どちらを優先などという視点自体が起こりません。

ただ起こることが起こるだけです。

そして、それは現れレベルにもとても即したものであることでしょう。)

人である前に、真我で在るわけですが(真我が源で、人がそこから現れているので当然ですね。)、

真我を知りながら、人の立ち位置にあるときは、現れレベルでは、人の常識・視点を優先させるのがよろしいでしょう。

(これももちろんケースバイケースでもありますが。中には、どうしても、葛藤を起こしたり、━それ自体は悪いことではありませんが━、極端に考えてしまう方もいらっしゃいますので、今は、このようにお話ししておくのがトータルでよろしいでしょう。マインドはどうしても一面的に考えてしまいがちですので。)

統合された人(統合された存在全体)はトータルに自然ですが、まだ統合されていない人はそうではありません。

(大きな意味では、不自然の自然で、それも自然の中に含まれますが、それをマインドの言い訳にしないことが大切です。)

不自然な人の立ち位置(まだ統合されていない人の立ち位置)から、真我の視点を使おうとしても、やはりそれは不自然なものになります。
ときには、真我の視点は、ある意味、影響力が大きいものだけに、その不自然さはさらに大きなものになる可能性もあります。

真我の立ち位置が主となり、すべてが統合されていれば、ただ自然です。

すべては、ただそうである、となります。

そしてそれが、道(タオ)でもありますね。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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