それはその本性により、それ自身を無限に知っていく。それは至上の悦び、至宝とも言える幸せ

受講者
最近では生活の中で、また今まで顕になっていなかった視点が
芽生え始めてきました。

歩くという行為においても、
個人が

足を上げる

足を振り出す

足を下す

という行為が連なって
移動している、歩いているように錯覚しますが



意識を核、中心(起点)に、

足が上がっている世界が現れ

それが消え

足が振り出される世界が起き

それが還り

足が下りた世界が生まれる

それが死ぬ

それと共に足、体の中に負荷や疲労感
何歩進んだ感覚、どちらを向いた感触なども
同時に起きている



そんな視点が進展しています。



より現れ(個人、そして、連続しているように見え、感じられる時間と世界)から
離れた視点、現れ(様々な感覚、現象、世界)が起こってくる源からの視点ですね。


受講者
意識は前も後ろも上も下もなく
重力、感触でさえ、真実の前では虚空のものですから
こういった視点が起きるのもとても自然な成り行きなんでしょうね。



自己理解の深まり、立ち位置のシフト等により、視点は自然に変わってきます。
それぞれの立ち位置にそれぞれの視点があり、
また、そのそれぞれの視点にも無限の角度や深さ等があり、
そこからさらに無限の視点が展開されていきます。
存在全体の成熟が進むにつれ、理解(愛)はより幅広く、そして奥深くなり、
全体を大きく包み込むことができるようになっていきます。


受講者
無空さんが時々仰る
「個人から真我までの無限の視点」
のひとつがまた開かれたような実感がありました。



いいですね。


受講者
仕事をしていても
歩き回っていますが
本当にどこにも行っていない

何も起きていない、無があります。

無として仕事があります。

無を仕事が巡っています。

それは
個人の肉体に意識が宿っているからではなく

意識を中心(起点)に肉体、世界が現れ続けているからこその
感覚なんでしょうね。



いいですね。
それは、個人が主体となった見方ではなく、意識が主体となった見方ですね。
どちらが主となるかで同じ現象が起こっていても体験はまったく違ったものになってきます。

幻想(現象)、一時的な現れ(個人)が主体となった世界は、主体と共に変化しやすく、もろく崩れすいです。
変わらない無、真我、在る、愛、全体が主体となれば、そこから起こる現れ、
あるいは、その中を巡る現れは変化していっても、
常に、それ自身は、絶対安心、絶対安全、絶対大丈夫そのものとして変わらずに在り、
そこから起こる現れのすべてを愛しき自己そのものとして支え、育み、包んでいる状態となります。

在るが主体となり、現れのすべてを包み込み、すべてが統合されていけば、
現れが在る(無・ゼロ・無限・全体・真我・愛・純粋な気づき)を栄光化し、
また、在る(無・ゼロ・無限・全体・真我・愛・純粋な気づき)が現れのすべてを栄光化するようになります。
それはとても自然にそうなります。
そしてそれが無限に相互作用しながら、ただひとつである栄光そのものとして無限に深まり、無限に拡大していきます。

また、そこで起こる無限の相互作用は、ただひとつのそれ(在る・無・ゼロ・無限・全体・真我・愛・純粋な気づき)の中で起こる、それ自身による無限の相互作用と言えます。

その相互作用は、それ(在る・無・ゼロ・無限・全体・真我・愛・純粋な気づき)がそれ自身に気づく、気づき続けるという、それとそれ自身との距離ゼロの中、
ゼロの三位一体である気づく主体がゼロ、気づかれる対象もゼロ、そして、そのプロセス、その間の時間と距離もゼロという中で無限に起こり続ける動き、作用、本性です。

(そのゼロ━それは愛でもありますが。━とは、時間と距離ゼロでありながら、ゼロそのものでもある意識の動きが可能になるスペース、広がりでもあります。
それはゼロ(愛)の広がり。
どこまで行ってもゼロ(愛)。
どこまで行っても無(愛)。
どこまで行っても均質(愛)です。
それゆえ、どれだけ動いても不動であり、どこまで行ってもどこへも行っていません。
時間も経過しません。
そこでは時間も距離も存在しません。
そこでは、無限である無・ゼロ・愛だけが、永遠そのものとして実在しています。)

その中で、それ(気づき・ゼロ)がそれ自身(気づき・ゼロ)に気づくということが無限に起こり続けています。
気づく主体(創造の源)が、気づくプロセス(創造のプロセス)にもなり、気づくプロセスが気づかれる対象(現れ、創造された対象、創造された宇宙)ともなり、
また気づかれた対象(現れ、創造された対象、創造された宇宙)が気づく主体(創造の源)となり・・・・・
ただひとつのものが順を追い、そして、同時に3つの役を果たし、
それ自身の中で、無限のループ、無限の相互作用(無限の気づき、意識による無限の宇宙創造、無限の体験)が続いていきます。

そしてそれはまた、ただひとつのものの中でその本性により自然に起こる、視点、自己認識、立ち位置、立場の移動とも言えます。
ただ、自分自身をどう見ているか、どう在るか、そこにすべてがあり、そして、それがすべてでもあります。
それはとても自然に起こります。
視点、認識、立ち位置、立場から、一瞬、一瞬、自然に世界、宇宙が創造されていきます。
そしてそこでの自然なそれ自身が体験され、知られていきます。

ゼロ(愛・気づき)の中で、意識の作用、意識の動きとしての意識の時空が生まれ、
その自然本性によるそれ自身の中での無限の相互作用により、すべての世界、全次元にわたる宇宙(現れた愛)は、無限に創造、更新、再創造、再更新されていきます。

そのゼロ(在る・無・無限・全体・真我・愛・純粋な気づき)という本当は何も起こっていない中で、
そして、均質なただひとつであるもの(在る・無・無限・全体・真我・愛・純粋な気づき)の中で、
すべてのことはただ起こります。
その本当は何も起こっていないという、
また、ただひとつのものであるという絶対安心、絶対安全、絶対大丈夫の中で、
無限の体験が生まれ、そのことにより、
それ(在る・無・無限・全体・真我・愛・純粋な気づき)は無限にそれ自身を知っていき、
無限に豊かになっていきます。
無限に悦び、幸福を拡大し、深まっていきます。

それは、ただそう在ります。

とても自然にそう在ります。


受講者
無を様々な命が巡る性質

この「巡り」という性質があるが故に
「時間」という概念、幻想が生まれ
多様性、個々、、、源と現れの関係性が成立していると感じます。



そうです。
そのもっとも核としてあるのが、
前述したように、ただひとつの実在である無のそれ自身への気づき。
無が無に気づくこと。
それ自身に気づくこと。
気づき続けていること。

それ(無)は純粋な意識、純粋な気づきそのもの。
それは気づきそのものであるがゆえに、その本性からそれ自身に気づきます。
気づき続けています。
それは永遠です。
それはただそれ自身の中で無限に起こり続ける動きなき動き。
それは時間を超えています。
それは始まりも終わりもないもの。
それは時間なき永遠、時間を超えた永遠です。

前述したことの繰り返しになりますが、
気づきがそれ自身である気づきに気づくための時間と距離は、実際はゼロ(幻想)です。
このゼロの中、気づきが気づきに気づくという中に、永遠の世界創造、宇宙創造、
すべての存在のすべての体験があります。
絶対的にリアル(在る)でありながら、絶対的に安全(無)な体験があります。
そこに、過去・現在・未来のすべて。
すべてのすべてがあります。

気づきが気づきに気づく、この動きが、静の中の動。
静止の中にある躍動。
命(在る・ゼロ・無・無限・全体・真我・愛・純粋な気づき)の巡り(循環、また、“生きる”ということ。)です。
その巡りは、無限であり、永遠です。
それは、気づきそのものでもあるがゆえに、それ自身に無限に、
そして、自然に、自発的に、自動的に気づき続けています。
気づきが気づきに気づくという意識の自然な作用による創造は無限です。
そして、自然です。
自発的です。
自動的です。
それは、ただ起こっていきます。
巡りは無限に続いていきます。
そして、そこでの体験も無限。
そこで知ることができることもまた無限。
可能性は無限です。
愛も悦びも幸せも無限に深まっていきます。
無(在る・ゼロ・無限・全体・真我・愛・純粋な気づき)はその本性(気づき・愛)により、
それ自身を無限に知っていきます。
それは至上の悦び、至宝とも言える幸せです。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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