“ただ気づいている”とは
受講者
マインドが起こる、起こらない
現象が起こる、終息する
それらに“かかわらず”という感覚が深くなってきていまして
それを感想に書こうとしても
微細なものを言葉にするのが難しく
なかなか起こりませんでしたが
今日読んだマハラジの「I AM THAT」に
とても腑に落ちる文章が在りました。
「真の気づきとは、観照されている出来事について
まったく何をすることも試みない。
純粋な観照の状態のことだ。
あなたの思考と感情、言葉と行為もまた、
出来事の一部分なのだ。
あなたは明確な理解の完全な光のなかで
まったく関わりをもたないまま見守る。
それがあなたに影響を与えないため
あなたは何が起こっているのかを正確に理解するのだ。」
このところは、そのような感覚です。
師
いいですね。
無空庵で言う、“ただ気づいている”、とはこういうことです。
起こってくる思考、感情は、
全体(愛)の中で起こるただの自然現象、とても自然な現象、出来事として
個人的なかかわりを持たず(個人のものとせず)、純粋な存在、
純粋な気づきそのもの、愛そのものとして、純粋に気づいていること。
そしてさらに、無空庵では、ただ在る純粋な存在として在るために、
個人ができるだけ出てこないよう、
(自然な必要で起こってくるもの以上には、できるだけ出てこないように。)
個人ができるだけ少なくあるように、
起こってきたことに (個人として)“意識的に” 焦点を当てる必要はない、
(特にそれを習慣にしていくと、場合によっては、
個人━意識的に焦点を当てる「私」である自我━を強めてしまうことがあります。)
詳細に見る必要はない、
必要があるときには、“自然に焦点が当たる”、
自然に見られる必要がある分だけ“見られ”、
気づかれる必要がある分だけ“気づかれ”、
感じられる必要がある分だけ“感じられる”、
ということを言っています。
ただ、まだ気づいている主体である在る(純粋な気づきそのもの)が分からない場合には、
思考、感情に気づいていてください、ということを言う場合はあります。
それは、それまで巻き込まれ、思考、感情と同一化していた気づいている主体、
思考、感情が起こっていく源である在る(純粋な気づきそのもの)と、
思考、感情に距離をつくるため、
あるいは、距離があることに気づいて頂くため、
そして、気づいている対象(思考、感情等)ではなく、気づいている主体の方である在るに、
徐々に気づきやすくなって頂くようにするためです。
はじめは、気づいている主体も個人がミックスされていることがほとんどですが、
気づいている主体の方に意識を向けること、
気づいている主体そのもので在ることを繰り返していくことにより、
徐々に主体が純化されていきます。
気づいている純粋な主体である在るに気づくことはとても大切です。
思考、感情に巻き込まれないだけでなく、
真の自己とは、本当の自分とは何ものであるのか、
気づいている純粋な主体である在る、
個人を超えた、あるいは、現れである個人をも含め、
全体を包括する純粋な気づきそのもの(愛)が本当の自分である
という実感と自覚を伴った自己理解(自意識のない純粋な自己の理解)が大切です。
その深い真の自己理解
(存在レベルに在る、“知っている”、“ただそうである”、“すでにそうである”、というもの。)
が、大きな安定と平安をもたらし、その立ち位置を絶対のものとします。
話しを戻します。
無空庵では、ただ気づいていてください。
そして、戻れるときには、在るに戻ってください。
ということをお伝えしています。
そして、ただ気づいているときには、
ただ在る純粋な存在として在るために、
個人ができるだけ出てこないよう、
個人ができるだけ少なくあるように、
起こってきたことに (個人として)“意識的に” 焦点を当てる必要はない
(プロセスとして、個人体験、ホ・オポノポノの本から言えば、創造主の体験の
段階にあるのであれば、個人を確立する、強める、個人を大きくしていく
ということも自然なことで、このようなこともよろしいと思います。
個人が確立され、あるいは、大きくなって、そして、落ちるというプロセスも
あります。)
詳細に見る必要はない、
必要があるときには、“自然に焦点が当たる”、
自然に見られる必要がある分だけ“見られ”、
気づかれる必要がある分だけ“気づかれ”、
感じられる必要がある分だけ“感じられる”、
ということを言っています。
これは、~しよう、~する、という個人が強くならないよう、
そして、個人からより自由になっていくため、
(ある程度、思考、感情と距離を保てるようになっても、個人は主体として残っています。
純粋な気づき、純粋な体験の後などに、それを所有する者として、
個人はその都度その都度出てきます。
けっして主体の座を明け渡してはいません。
主体の純化はここからです。
在るに注意を向けること、在るそのもので在ることで、それは成されていきます。)
また、在ると同じように、無為自然で在れるよう、ただ在れるようになっていくための配慮です。
(その他、起こってくる想念等に注意を向けていると、気づいている主体が弱い場合、
または、起こってくる想念が強い場合、そのまま巻き込まれていくことがある、
思考に思考を重ねて、物語化していくことがある。
雑念も多い。
また、起こってくる想念は、かならずしも当人に関わるものばかりでなく、
他の方のものや全体的なものもある、等もあります。)
そして、このように話しても、気づくこと自体が自然で自発的なものなので、
通常は、自然に気づかれます。
そこにさらに“する”個人を加える必要はないということです。
(さらには、それより、気づいたら在るに意識を戻してください。
ただ在ってください。ということです。
在る・真の幸福・変わらない平和・無限の愛・真我の実現に関して、
最も自然で、最もトータルで、最も直接的な実践方法を知っているのなら、
それをメインにしてください。ということです。
━マインドが未成熟なうちは、あれこれ色々やりたくなりますが、
進んでいき、その実践の中に含まれているものがどれほどのものなのかが
分かってくるにつれ、よりシンプルになっていきます。━)
“私(個人)が気づいた”という感覚・思いも起こってきますが、
それも、在るから“起こってきた”と見ましょう。
また、見て見ぬふりをする、自然に(無意識に)見ることを避けてしまう、
ふたをしてしまう、ということもあります。
そのこと自体にただ気づいていること、
それも“起こってきた”、“起こっている”、“今はただそうである”と
気づいていること、それが大切です。
もし、そのこと自体がどうしてもひっかかる場合、そのことに自然に注意が向き、
取り組みが自然に起き、それがクリアされるということが起こる場合がありますが、
それも“自然に起こっているもの”と見る立ち位置に在りましょう。
個人である自分が行っているものと見るか、ただ起こっているものと見るかで、
立ち位置がまったく違ってきます。
個人として個々の問題に取り組むのと、起こってきたことを自分のものとせず、
ただ気づいていることは、ひとつの現象の改善か、
現象全体からの解放、本質的にトータルに現象から自由になることなのかの違いです。
現れは、夢、幻想、物語(現象は純粋であるがままですが、マインドがそれを物語化します。)
という視点から見るならば、
夢をよりよく改善していくのか、夢自体から覚め、夢全体から自由になっていくのか、
その違いがあります。
さらには、その夢の改善も、それを本質的、全体的なものとしたいのならば、
やはりそれは、夢全体から自由になってはじめて可能であるという視点があります。
見て見ぬふりをする、自然に(無意識に)見ることを避けてしまう、
ふたをしてしまう、ということ、そのこと自体にただ気づいていること、
それも“起こってきた”、“起こっている”、“今はただそうである”と
気づいていること、
それは、個人が主体でなければ、個人に巻き込まれていなければ可能です。
そうすれば、ふたをしてしまっていたものなども、自然なタイミングで、
自然に気づかれるだけ気づかれ、ほぐれ、溶けていきます。
(マインドはなかなかそれを待てない場合がありますが、
自然なタイミングで、自然に落ちるのが最もトータルです。)
ときには、逃げずに見よう、もまた、自然に起こってきます。
それも個人のものとせず、“起こってきた”、という立ち位置にあることが
個人からの解放、本質を実現していく道、本質が実現されていく道です。
それを“私(個人)が行った”、では、どこまで行っても、個人の物語の中です。
個人からの解放、本質実現、真我実現という点では、
ふたをしてしまうことを解消しようとしている個人自体が、
“ふたそのもの”です。
(プロセスがあるので、個人としてどうしてもそれをしたいが起こっている場合は、
それをしてから、あるいは、それをしながら純化されていく、という場合もあるでしょう。
在るは、全体を大きく見渡し、見守っています。)
それは、個人が主体であるうちは、けっして気づくことができません。
個人感覚自体は自然に起こってきますし、
それはあるがままの自然で貴重な感覚でもありますが、
それが真に栄光化されるのは、主たる立ち位置が在るに在るとき、
主体が在るであるときだけです。
個のまま真我の実現は、個人が主体ではなく、在るが主体となってはじめて可能になります。
ただ気づいていること、そして、在るそのものであること、
その実践を継続していくと、“ただ気づいている” と、
“その気づいている主体”(同じものとも言えますが。)が、
純化、洗練されていき、真に純粋、真に自然なものとなっていきます。
そして、真の自己理解が深まり、立ち位置が個人から在るへとシフトし、
それがより確かで、より自然なものとなっていきます。
存在は絶対的なものとなり、変わらない平和、真のしあわせ、無限の愛が実現されていきます。
受講者
“気づき”で完結していて、流れがよりなめらかに感じます。
手放した、解放した、受け入れたとはなりません。
師
それ(手放す、解放する、受け入れる等)は、ある意味、個人発でもありますからね。
(それが、“起こった”なら、在るの立ち位置です。)
受講者
手放し、解放、受容は“ただ在る”こと(自然)で起こる結果(自然)のようです。
師
そのとおりです。
個人ではなく、在るの立ち位置にあると、それが分かりますね。
受講者
さらに“気づき”はマハラジの言葉を借りるなら
“自発的で、限界のないもの”であるようです。
師
~であるようです。の言葉(言葉の響きから伝わってくるもの)が、
とても慎重で、注意深く、謙虚で、丁寧であり、
かつ、真実が持つ力強さがありますね。
そして、“自発的で、限界のないもの”というところもとても大事ですね。
在るは、意識そのものでもあるがゆえに、気づくということはそれ自身の本性から起こるもの、
それはとても自然で、自発的なものです。
ですから、気づきは“起こる”のです。
必要なときには、自然に“気づかれる”のです。
それが在るの立ち位置からの視点です。
マインドが起こる、起こらない
現象が起こる、終息する
それらに“かかわらず”という感覚が深くなってきていまして
それを感想に書こうとしても
微細なものを言葉にするのが難しく
なかなか起こりませんでしたが
今日読んだマハラジの「I AM THAT」に
とても腑に落ちる文章が在りました。
「真の気づきとは、観照されている出来事について
まったく何をすることも試みない。
純粋な観照の状態のことだ。
あなたの思考と感情、言葉と行為もまた、
出来事の一部分なのだ。
あなたは明確な理解の完全な光のなかで
まったく関わりをもたないまま見守る。
それがあなたに影響を与えないため
あなたは何が起こっているのかを正確に理解するのだ。」
このところは、そのような感覚です。
師
いいですね。
無空庵で言う、“ただ気づいている”、とはこういうことです。
起こってくる思考、感情は、
全体(愛)の中で起こるただの自然現象、とても自然な現象、出来事として
個人的なかかわりを持たず(個人のものとせず)、純粋な存在、
純粋な気づきそのもの、愛そのものとして、純粋に気づいていること。
そしてさらに、無空庵では、ただ在る純粋な存在として在るために、
個人ができるだけ出てこないよう、
(自然な必要で起こってくるもの以上には、できるだけ出てこないように。)
個人ができるだけ少なくあるように、
起こってきたことに (個人として)“意識的に” 焦点を当てる必要はない、
(特にそれを習慣にしていくと、場合によっては、
個人━意識的に焦点を当てる「私」である自我━を強めてしまうことがあります。)
詳細に見る必要はない、
必要があるときには、“自然に焦点が当たる”、
自然に見られる必要がある分だけ“見られ”、
気づかれる必要がある分だけ“気づかれ”、
感じられる必要がある分だけ“感じられる”、
ということを言っています。
ただ、まだ気づいている主体である在る(純粋な気づきそのもの)が分からない場合には、
思考、感情に気づいていてください、ということを言う場合はあります。
それは、それまで巻き込まれ、思考、感情と同一化していた気づいている主体、
思考、感情が起こっていく源である在る(純粋な気づきそのもの)と、
思考、感情に距離をつくるため、
あるいは、距離があることに気づいて頂くため、
そして、気づいている対象(思考、感情等)ではなく、気づいている主体の方である在るに、
徐々に気づきやすくなって頂くようにするためです。
はじめは、気づいている主体も個人がミックスされていることがほとんどですが、
気づいている主体の方に意識を向けること、
気づいている主体そのもので在ることを繰り返していくことにより、
徐々に主体が純化されていきます。
気づいている純粋な主体である在るに気づくことはとても大切です。
思考、感情に巻き込まれないだけでなく、
真の自己とは、本当の自分とは何ものであるのか、
気づいている純粋な主体である在る、
個人を超えた、あるいは、現れである個人をも含め、
全体を包括する純粋な気づきそのもの(愛)が本当の自分である
という実感と自覚を伴った自己理解(自意識のない純粋な自己の理解)が大切です。
その深い真の自己理解
(存在レベルに在る、“知っている”、“ただそうである”、“すでにそうである”、というもの。)
が、大きな安定と平安をもたらし、その立ち位置を絶対のものとします。
話しを戻します。
無空庵では、ただ気づいていてください。
そして、戻れるときには、在るに戻ってください。
ということをお伝えしています。
そして、ただ気づいているときには、
ただ在る純粋な存在として在るために、
個人ができるだけ出てこないよう、
個人ができるだけ少なくあるように、
起こってきたことに (個人として)“意識的に” 焦点を当てる必要はない
(プロセスとして、個人体験、ホ・オポノポノの本から言えば、創造主の体験の
段階にあるのであれば、個人を確立する、強める、個人を大きくしていく
ということも自然なことで、このようなこともよろしいと思います。
個人が確立され、あるいは、大きくなって、そして、落ちるというプロセスも
あります。)
詳細に見る必要はない、
必要があるときには、“自然に焦点が当たる”、
自然に見られる必要がある分だけ“見られ”、
気づかれる必要がある分だけ“気づかれ”、
感じられる必要がある分だけ“感じられる”、
ということを言っています。
これは、~しよう、~する、という個人が強くならないよう、
そして、個人からより自由になっていくため、
(ある程度、思考、感情と距離を保てるようになっても、個人は主体として残っています。
純粋な気づき、純粋な体験の後などに、それを所有する者として、
個人はその都度その都度出てきます。
けっして主体の座を明け渡してはいません。
主体の純化はここからです。
在るに注意を向けること、在るそのもので在ることで、それは成されていきます。)
また、在ると同じように、無為自然で在れるよう、ただ在れるようになっていくための配慮です。
(その他、起こってくる想念等に注意を向けていると、気づいている主体が弱い場合、
または、起こってくる想念が強い場合、そのまま巻き込まれていくことがある、
思考に思考を重ねて、物語化していくことがある。
雑念も多い。
また、起こってくる想念は、かならずしも当人に関わるものばかりでなく、
他の方のものや全体的なものもある、等もあります。)
そして、このように話しても、気づくこと自体が自然で自発的なものなので、
通常は、自然に気づかれます。
そこにさらに“する”個人を加える必要はないということです。
(さらには、それより、気づいたら在るに意識を戻してください。
ただ在ってください。ということです。
在る・真の幸福・変わらない平和・無限の愛・真我の実現に関して、
最も自然で、最もトータルで、最も直接的な実践方法を知っているのなら、
それをメインにしてください。ということです。
━マインドが未成熟なうちは、あれこれ色々やりたくなりますが、
進んでいき、その実践の中に含まれているものがどれほどのものなのかが
分かってくるにつれ、よりシンプルになっていきます。━)
“私(個人)が気づいた”という感覚・思いも起こってきますが、
それも、在るから“起こってきた”と見ましょう。
また、見て見ぬふりをする、自然に(無意識に)見ることを避けてしまう、
ふたをしてしまう、ということもあります。
そのこと自体にただ気づいていること、
それも“起こってきた”、“起こっている”、“今はただそうである”と
気づいていること、それが大切です。
もし、そのこと自体がどうしてもひっかかる場合、そのことに自然に注意が向き、
取り組みが自然に起き、それがクリアされるということが起こる場合がありますが、
それも“自然に起こっているもの”と見る立ち位置に在りましょう。
個人である自分が行っているものと見るか、ただ起こっているものと見るかで、
立ち位置がまったく違ってきます。
個人として個々の問題に取り組むのと、起こってきたことを自分のものとせず、
ただ気づいていることは、ひとつの現象の改善か、
現象全体からの解放、本質的にトータルに現象から自由になることなのかの違いです。
現れは、夢、幻想、物語(現象は純粋であるがままですが、マインドがそれを物語化します。)
という視点から見るならば、
夢をよりよく改善していくのか、夢自体から覚め、夢全体から自由になっていくのか、
その違いがあります。
さらには、その夢の改善も、それを本質的、全体的なものとしたいのならば、
やはりそれは、夢全体から自由になってはじめて可能であるという視点があります。
見て見ぬふりをする、自然に(無意識に)見ることを避けてしまう、
ふたをしてしまう、ということ、そのこと自体にただ気づいていること、
それも“起こってきた”、“起こっている”、“今はただそうである”と
気づいていること、
それは、個人が主体でなければ、個人に巻き込まれていなければ可能です。
そうすれば、ふたをしてしまっていたものなども、自然なタイミングで、
自然に気づかれるだけ気づかれ、ほぐれ、溶けていきます。
(マインドはなかなかそれを待てない場合がありますが、
自然なタイミングで、自然に落ちるのが最もトータルです。)
ときには、逃げずに見よう、もまた、自然に起こってきます。
それも個人のものとせず、“起こってきた”、という立ち位置にあることが
個人からの解放、本質を実現していく道、本質が実現されていく道です。
それを“私(個人)が行った”、では、どこまで行っても、個人の物語の中です。
個人からの解放、本質実現、真我実現という点では、
ふたをしてしまうことを解消しようとしている個人自体が、
“ふたそのもの”です。
(プロセスがあるので、個人としてどうしてもそれをしたいが起こっている場合は、
それをしてから、あるいは、それをしながら純化されていく、という場合もあるでしょう。
在るは、全体を大きく見渡し、見守っています。)
それは、個人が主体であるうちは、けっして気づくことができません。
個人感覚自体は自然に起こってきますし、
それはあるがままの自然で貴重な感覚でもありますが、
それが真に栄光化されるのは、主たる立ち位置が在るに在るとき、
主体が在るであるときだけです。
個のまま真我の実現は、個人が主体ではなく、在るが主体となってはじめて可能になります。
ただ気づいていること、そして、在るそのものであること、
その実践を継続していくと、“ただ気づいている” と、
“その気づいている主体”(同じものとも言えますが。)が、
純化、洗練されていき、真に純粋、真に自然なものとなっていきます。
そして、真の自己理解が深まり、立ち位置が個人から在るへとシフトし、
それがより確かで、より自然なものとなっていきます。
存在は絶対的なものとなり、変わらない平和、真のしあわせ、無限の愛が実現されていきます。
受講者
“気づき”で完結していて、流れがよりなめらかに感じます。
手放した、解放した、受け入れたとはなりません。
師
それ(手放す、解放する、受け入れる等)は、ある意味、個人発でもありますからね。
(それが、“起こった”なら、在るの立ち位置です。)
受講者
手放し、解放、受容は“ただ在る”こと(自然)で起こる結果(自然)のようです。
師
そのとおりです。
個人ではなく、在るの立ち位置にあると、それが分かりますね。
受講者
さらに“気づき”はマハラジの言葉を借りるなら
“自発的で、限界のないもの”であるようです。
師
~であるようです。の言葉(言葉の響きから伝わってくるもの)が、
とても慎重で、注意深く、謙虚で、丁寧であり、
かつ、真実が持つ力強さがありますね。
そして、“自発的で、限界のないもの”というところもとても大事ですね。
在るは、意識そのものでもあるがゆえに、気づくということはそれ自身の本性から起こるもの、
それはとても自然で、自発的なものです。
ですから、気づきは“起こる”のです。
必要なときには、自然に“気づかれる”のです。
それが在るの立ち位置からの視点です。
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