すべての存在は、在るという点において絶対的に正しく、存在しているということには絶対的な価値がある

受講者
無空庵に出会う前は

マインドに引っかかるたびに

一つ一つそれを詳細に観て

落とそう、クリアにしよう

手放そう、委ねようと

頑張って“して”いました。



世の中にあるほとんどの方法は、そのようなものかもしれませんね。

マインドにマインド(個人)で取り組むという方法です。

それは、ひとつの視点からは、幻想(現象)に幻想(現象)で取り組んでいるとも言えます。


受講者
詳細に観ること、痛みを感じていることが

落ちていることだと思っていました。

そこに、どこまでも個人がいることにまったく気づいていませんでした。

それが、悟後の修行だと思っていました。



そのひとつひとつは、観ていくこと、感じること等でクリアされ、

実際に楽になり、とても実感があったりしますが、

あるもの、起こってくるものを自分のものと個人所有し、

それに個人として取り組んでいる限り、真の解放はありません。

ずっと物語の中です。

悟後の修行物語です。

個人の中に起こってくる思考等は、直接個人に関するものだけでは

ありません。

すべてはひとつであり、すべてはつながっていて、

他の方が自分のものとして抱えているものや集合的なものも影響してきます。

また、在る(真我・愛)の自然本性から、創造も絶え間なく続いていくため、

個人である私(自我)が取り組むべきものも、永遠に終わることはありません。

個人である私(自我)として、起こってくるものに対して取り組んでいたのでは、

きりがないのです。


(個人、マインドからの解放という意味で。

日々の生活という意味では、まさに、一瞬、一瞬に起こってくることに対する対処

の連続とも言えます。

それを個人として行うか、

在る・真我・愛・全体からの自然な感応、

愛の自然な発露、

源からの自然な現象、

全体の中の相互作用、

ひとつである全体の中での自然な展開

として起こっているものと見るか━ただ起こっていると見るか━、

気づいているか━ただ気づいているか、ただそうであると気づいているか━

というところで違いが出てきます。)


真の解放への直接的な在り方として、焦点を当てるべきは

個人が抱えているものではなく、

その抱えているものに取り組んでいる物語の主体である私(個人・自我)です。


(その私である個人の核に、真我が在るとも言えます。

あるいは、全体である真我の中に個人が起こっているとも言えます。

真我の在り方は無限ですので、感じ方はそのときどきで違ったりしますが、

個人が消えると、その核である真我、あるいは、全体である真我だけが残ります。

真我は、個人なしでも存在しますが、

個人は真我なしには存在し得ません。

個人は、真の主体にはなり得ません。

真の主体でない者、現われている現象である者、起こったり消えたりしている者が

それ自身が抱えていると思っているものに取り組んでも、真の解放は起こりません。

問題、課題、何かに取り組む物語はずっと続いていきます。

そしてそれを知りながらも、マインドが未成熟なうち、

あるいは、なんとなく分かっていても、真にクリアには見えていない段階、

理解がまだ浅い場合(本人は深いと思っていても)、

マインドが主体として、源である変わらない真実と現われの

“折り合いをうまくつけようとする”ような場合、


━これは真の統合ではありません。

(真の統合は、全体であり、愛であり、在るである真我が主体となって自然に起こります。)

ですから、その人は、個人としての問題を持ち続けます。

真我を知り、それをいつでも感じることができる個人は、

(感じているその瞬間は個人はいませんが、その後に個人がそれを所有し、使います)

それを素晴らしく描写したり、話したりすることができ、

人々は、その内容に引き付けられたりしますが、

真にクリアに見ることができる者からは、主体が個人であるかどうかは一目瞭然です。━


真実(真我)を“使って”、現われをよりよくしようとする場合など、


━何か個人的に解決したい問題、課題を抱えている方で、まだ真我を知らない方は、

もちろん、ここからスタートでかまいません。

ただ、真の解放には、真実を知り、主体が個人から真我へとシフトしていく必要があります。

何か問題を抱えている方は、それを解決したい一心でスタートするかもしれませんが、

それ(解決したい)が起こっているという立ち位置に立ち、在るが主体とならない限りは、

また別の問題が起こってくる可能性があります。

スタートはそれでもかまいませんが、ひとつの問題だけを解決したいために

あるいは、他の方のため、より多くの方のため、全体のためにということでも、

“真我(真実)を使う”(“使う”、“利用する”のは、個人になります。)という意識(思い)のままでは、

立ち位置の真のシフトは起こりませんし、深い理解、本当にクリアに見える視点も開かれません。

また、問題の根本的な解決、他にゆがみ、ひずみ等をつくらない本当の意味でのすっきり青空

という感じの全体的な解決、そして、自然な解決にはなりません。

参考:「キリストのヨーガ」(M・マクドナルド・ベイン)より

【人が平和を造るのではない。
愛=平和は世界が存在する前より存在していた合一の基本原理であり、今の今における唯一の実在である。
『吾は唯一者なり。吾が外に存するもの無し』である。】

【もしあなたが真理を悟り、それを使役しようなどと考えずに、真理自らが働くままに打ち任せるならば、その時真理はあなたの人生とあなたの諸関係とに基本的な変質をもたらす。
しかも、その働きは甚大にして広大、無限、広範である。】

【心の側からの干渉を排して、自分の中に、かつ自分を通して真理が働くままに打ち任せるならば、それは知らず知らずのうちに、無意識のうちに人間の意想を超えた、遠大なる効果をおよぼす。
その時、あなたは、真理━知られざるもの、神その他、いかなる名称のものであれ━の解放効果を体験するであろう。
知られざるものに名前はない。
知られざるものを予測することはできない。
ゆえに、心がそれを使役し得るはずのないことを、あなたは理解しなければならない。
しかし、心が静まるならば真理は働き、その働きは甚大にして広大、無限である。
ここに解脱と至福と、常在する無限の生命の力と栄光とが存する。】━


(注)━部分が長くなりましたので、少し前から再掲します。


真の主体でない者、現れている現象である者、起こったり消えたりしている者が

それ自身が抱えていると思っているものに取り組んでも、真の解放は起こりません。

問題、課題、何かに取り組む物語はずっと続いていきます。

そしてそれを知りながらも、マインドが未成熟なうち、

あるいは、なんとなく分かっていても、真にクリアには見えていない段階、

理解がまだ浅い場合(本人は深いと思っていても)、

マインドが主体として、源である変わらない真実と現われの

“折り合いをうまくつけようとする”ような場合、

真実を“使って”、現われをよりよくしようとする場合など

それ(個人として何かに取り組む物語)を続けていく場合もありますし、

また、無意識のうちにある恐れ(自分が消えてしまうのではないかという恐れ等)が、

そうさせている場合もあります。

気づくべきは、様々に起こってくるもの(現象)に取り組んでいる個人もまた、

起こってきているもの(現象)であること。

それは、物語の中の主体であり、真の主体ではないこと。

真の主体は、個人である私(自我)や思考、感情、その他様々な事象、現象が

起こっていることに気づいている意識です。

それは個人色のまったくない純粋な意識、純粋な気づきです。

それが、在るであり、真我であり、真の愛です。

それは、森羅万象、あらゆるものが起こっていく源。

そして、自らから起こっていくそれら創造現象からまったく影響を受けずに、

変わらずに在るもの。

ただ気づいていることにより、すべてを正すもの。


(これは、マインド的に正すということではありません。

絶対的な意味での「正す」です。

絶対的なレベルの正しさは、「在る」というところに在ります。


━すべての存在は、在るというところ

すでに存在しているということで、

絶対的に正しく、

何も間違っていません。


(相対レベル、現われレベルの正しさに関しては、そのときどき、時代、地域、

それぞれの視点、立ち位置等により様々です。

それはまさに多様です。

ひとつの理解としては、

多様な現われは、絶対的な正しさ(在る・真我・愛)がそのまま現われたもの、

丸ごと開かれたものである。

一瞬、一瞬の今に、そして、無限のスパンがある時空の中に、

あるいは、森羅万象を含む時空そのものとして、

絶対的な正しさそのもの(在る・真我・愛)がまるごとひとつであるものとして

多様に現われたもの、開かれたものである。

ということ。

その多様性の違いや個人の都合等に焦点を当てると、正しさはそれぞれ違ってきますが、

多様である全体を見たとき、

全体というところに焦点を当てたときには、

そこに絶対的な正しさ、普遍的な正しさを見つけることができるでしょう。

そして、その全体的な視点から見れば、各部分部分もまた

それぞれに等しく正しい、

あるがままで正しい、

違いがあって自然であるという見方ができるでしょう。

また、その他に多様な現われの中に絶対的な正しさ、

普遍的な正しさを見つけられるポイントとしては、

あること、起こることすべては、

ひとつの体験であり、何かを味わい、感じ、知ることができる、

絶対レベルだけでは知ることのできない在るの無限の側面や、無限の深さや厚み等を

体験し、味わい、感じ、知ることができる、

真の自分自身を様々に体験し、味わい、感じ、知ることができる、

ひとつひとつの体験を通し、あるいは、いくつもの体験を通し、そのひとつの流れを見ること、

また、それら体験のすべてが最終的にはどのようなところに導いてくれるのかを知ることにより、

ひとつのひとつの現われにも、ゆらぐことのない絶対的な正しさ、普遍的な正しさを

見つけることができるでしょう。

今、今という一瞬において、

そして、その一瞬が連なり、無限に展開されていく、永遠というスパンにおいて


(永遠は時間を超えていて、時間的なものではありませんが、

ここでは時間も「永遠(在る・真我)」から無限に創造される、

創造は絶え間なく起こっていくという視点から

時間的な意味で「永遠」という言葉を使わせて頂くということが起こっています。)


それが必ず収まるところに収まっていく

ひとつの状態からある状態までの一部分を切り取って見た時、

それは(マインド的には)どうしても正しいと思えないこともあるかもしれませんが、

それを永遠というスパンで見るならば、

その状態がどのように変化し、どのような状態に収まっていくのか、

すべての存在は、その流れの中で、何を体験し、何を学んでいくのか、

そして、存在全体としてどのように成熟していくのか、

どのように統合されていくのか、

どのようにより自然なものとなっていくのか、

ということを永遠というスパンで見ることができるならば、

それを知っているならば、

必ず、愛、平安、自然というところに収まるということを知っているならば、

在る・真我は、愛そのもの、平安そのもの、自然そのものであり、

現われはそれがまるごとそのまま現われたもの、

森羅万象全てを含む、時空そのものとして現われたものであるということを

知っているならば、

また、本質的には、すでにそうである、

すでに、愛そのもの、平安そのもの、自然そのものである

ということを知っているならば、

たとえ具体的にはどのように展開されていくかということは分からずとも、

そこに絶対的な、普遍的な正しさを見つけることができるでしょう。

ただそれは、時間を超えたところにある絶対的な正しさという種が、

時間(時空)という流れの中に、あるいは、時間(時空)という流れそのものとして開かれ、

展開されたものであると知っているなら、

局所的には(マインド的に)そうは思えないようなものでも、

永遠という視点からの正しさ、

今この瞬間のあるがままの正しさも、そこに見つけることができるでしょう。

また、その正しさを見ることができたなら、その場その場で、もしそのときに必要であれば、

必要な行動、必要な対処が、自然に起こるでしょう。)


(注)ここで相対レベル、現われレベルにも絶対的な、普遍的な正しさを見る視点

に関しての記述終わりです。

括弧が長くなったため、その前の━のところから再掲します。


━すべての存在は、在るというところ

すでに存在しているということで、

絶対的に正しく、

何も間違っていません。

在るということで、絶対的な存在価値があります。

存在している、在るというその奇跡、

在るというその真実、

在るという絶対的な善、

在るという究極の美、

真・善・美。

すべての存在は、ただ在るということで、

自分自身を含め、世界、全体に最大限に貢献しています。

その存在価値は他の何ものにも代えることができません。

それは、驚嘆すべきものです。

すべての存在は、在るということで、最大に賞賛されるべきであり、

すべての存在は、在るということで、最大に敬われるべきであり、

すべての存在は、在るということで、絶対的に愛されるべきです。

そしてまた、すべての存在は、在るということで、すでに絶対的に愛されています。

すでに、在るというそれ自身、真の自分自身から、最大に賞賛され、最大に敬われています。

だから、在るのです。

だから、今、在るのです。

相対を超えて、絶対的に在るのです。

相対をも含み、全体的に在るのです。━


(注)━のところが長くなりましたので、その前のところから再掲します。


真の主体は、個人である私(自我)や思考、感情、その他様々な事象、現象が

起こっていることに気づいている意識です。

それは個人色のまったくない純粋な意識、純粋な気づきです。

それが、在るであり、真我であり、真の愛です。

それは、森羅万象、あらゆるものが起こっていく源。

そして、自らから起こっていくそれら創造現象からまったく影響を受けずに、

変わらずに在るもの。

ただ気づいていることにより、すべてを正すもの。


(これは、マインド的に正すということではありません。

絶対的な意味での「正す」です。

絶対的なレベルの正しさは、「在る」というところに在ります。

それは、在るがまま(自然・全体・愛)ということでもあり、

真の在るがままへと導くということでもあります。

あるいは、ただそうであると知っていること

すべては、在るという点において、

その存在において、

あるいは、在るがままで

一瞬、一瞬の今において

絶対的に正しい

全体的に正しい

と知っていること(トータルな叡智、トータルな愛)

絶対的レベルと

全体的な視点からは、

その今、今の一瞬、一瞬において

真に正される必要があるものなど何もない

これでいい

ちょうどいい

ただそうである

と知っていること(トータルな叡智、トータルな愛)によって

夏の暑さ、冬の寒さが正される必要がないよう

(ただ必要な対処が起こるだけ)

四季の移り変わりのように、自然が自然のままに変化、変容し、姿形を変えていくよう

川が上流から下流へ流れていき、海へと辿り着くように

それはただ自然に収まるべきところに収まり

自然に変化・シフトすべき方向へと変化していくこと、

シフトしていくことを“知っていること”によって

“ただ知っていること”によって

それを促す
 
ということでもあります。

ただ在ること

ただ気づいていること

ただ知っていること

普通に知っていること

その力は、とても自然で、

とてもトータルで、

とても大きく

愛に満ち、

とてもやさしく、

とてもやわらかく、

とても謙虚で、

とても慎ましく

かつ、絶大です

それは、絶対的な力

絶対的な真実

絶対的な愛です。)


(注)括弧内が長くなったため、再度、その前のところから再掲します。


真の主体は、個人である私(自我)や思考、感情、その他様々な事象、現象が

起こっていることに気づいている意識です。

それは個人色のまったくない純粋な意識、純粋な気づきです。

それが、在るであり、真我であり、真の愛です。

それは、森羅万象、あらゆるものが起こっていく源。

そして、自らから起こっていくそれら創造現象からまったく影響を受けずに、

変わらずに在るもの。

ただ気づいていることにより、すべてを正すもの。

自らは変わらずにただ在りながら、

真には、正される必要があるものなど何もないということを

ただ知っていることによって、

すべての変容、シフトを促すもの。

変容していく方、起こっては変化したり、消えたり、また起こったりするものは、

真の主体にはなり得ません。

マインド物語の中の主体である個人が、その物語の中で抱えているものに取り組むことにより、

一時的には軽くなっていくかもしれませんが、

主体である個人そのものは、そのままか、もしくは、対象に“取り組む”

ということで、ますますマインド物語が強固になっていく可能性もあります。

一見、軽くなったり、楽になったり、光が増しているように感じながら、

(実際、一時的にそうなりますが。)

物語はより強固になっていくというプロセスです。

これは、個人というマインド物語の中の主体が抱える(自分のものとして所有する)

対象に対するワークであり、個人物語の中で行われるものです。

(個人が抱えるものが軽くなり、真我に気づきやすくなる、真我に意識を向けやすくなる

ということはあります。)

フーマンも「私(ME)そのものがワークされる必要がある」と言っていますが、

個人、マインドからの解放、真の解放には、主体自体がワークされる必要があります。

主体自体のワークは、真の主体が、個人ではなく、真我・在る・愛であることに気づくこと。

そして、それそのものであること、

ただ在ること、

何度もそうあること

で、直接為されます。


在ることで為されます。

無為により、為されます。

何もしないこと、何にも“取り組まないこと”により、為されます。


主体自体のワークにより、誤解、無知の雲が取り払われ、

主体、そして、存在全体が純化されていきます。

ひとつひとつを観ていく方法は、それがクリアされ、実際とても軽くなり、

そのときは光が増しますので、それを継続していけば、

相対的によりよくなっていきそうで(一時的にはそうなります。)、

また、いつかはすべてがクリアになりそうに思ってしまいますが、

(具体的な個々の問題をクリアしたいときはそのような方法もひとつですが、

それも極端に言えば、一時しのぎに過ぎないとも言えます。

解放に取り組んでいる“感じ”はありますが、やはりマインドの物語の中のままであると言えます。

ただ、セッションでもお伝えすることがありますが、具体的にひとつのものを見る、

ひとつのものに取り組むということが、在る・真我・愛から自然に“起こる”ということはあります。

ですが、これを公式化し、決まった方法にして、“個人として”取り組んでしまい、

そしてまたそれを習慣にしてしまうと違ったものになっていきます。


以前、セッションを受けられている方の感想への返信の部分から一部抜粋して参考までに。

【今回、実践されていた内容をお聞きして、以前読んだチベット密教のゾクチェンの教えを思い出しました。

関連しそうなところを、以前読んだ本から抜粋します。

ご参考までに。

○ゾクチェンにおいては重要なのは、「心」と「明知」の根本的区別である。
心と明知-心の本性と呼ばれることもある-の関係は、鏡に映し出される像と鏡そのものにたとえられる。
心というのは、様々な思考や感情のたえざる運動を指す。
これに対して、明知というのは、そういった様々に変幻してやまない心の現象を映し出す鏡のようなものだ。
顕教の分析的瞑想であれ、本尊を観想したり、真言を唱える密教の瞑想であれ、意識による作為がはたらいている。
それに対して、ゾクチェンの「自己解脱の道」は、無為、無作為である。
すべてを透明に映し出す「明知」の鏡の境地にとどまりつづける。
煩悩や思考が生じてきても、抑えたり、浄化したり、変化させたり、善や悪と判断したりせず、ただ放置する。

(無空:ここは無空庵のスタイルと同じですね。)

そうすれば、怒りであれ、貪欲であれ、すべての煩悩は、瞬時に解放され、跡形もなく消え去り、知恵となる。

(無空補足:起こってくるものに関しては、瞬時に消えないものもあります。
それはひとつには、トータルにクリアになってくればそれまで瞬時に消えなかったようなものも消えるようになってくることがありますが、その前の段階、クリアになっていくプロセスの途中では、起こってくるものが消えるまでに時間がかかる場合もあるということ。
その場合、それはそのまま、あるがままにしておきましょう。
また、起こってくるものには、それ自体の運命があるので、瞬時に消えていくものばかりではないということも理解しておきましょう。)

○理性のはたらきなしに、自らの明知によって、この大いなる真実を直接に悟り、自らの明知において明らかにすべきである。

○「これはこうだ」とか「それはああだ」と定義づけようとする罠から解き放たれるのだ。
そうすれば、すべての形あるあらわれは、形を持たない無限がしめすさまざまな表情にすぎないし、それから切り離すこともできないから、そのままで完全なものなのだということがわかる。

○すべての始まりから、あらゆるものはそのままで完全だということがわかれば、あるがままの自然な状態にとどまっているだけで、不二の三昧が自然に生じ続ける。

○ゾクチェンのレベルにおいては、すべての現象は空であり、実体がないということが、基本的前提になっている。
ゾクチェンにおいて「自己解脱」が意味しているのは、修行者の経験の領域に現れてくるものは、何であれすべて、善悪や美醜の判断抜きに、わき起こるままにさせておくということである。
もしも固着や執着がなければ、思考であれ、外的な出来事に見えるものであれ、生起するものはすべて、それらが生起したまさにその瞬間、努力することもなく、さらには、意思することすらなく、自動的に、ひとりでに、自然に、みずからを解脱するのである。
そうやって修行を続けていけば、二元論的ヴィジョンの毒の着の種子は、根を張り、育つどころか、間違っても芽を出すことはない。
修行者はふつうに生活していく。自分自身の知恵以外に、一切の規則はない。
わき起こってくるものは何であれ、自分の経験の一部として、みずからの本然の境地と統合し、そうやって、常に原初の統一状態にとどまるのである。

外見上、修行していることを示すものは何一つない。

(無空:普通の生活の中で、誰にも気づかれずに(笑)それは実践可能ということですね。真我はいつでも一番身近な自分自身、自分の核、自分のベース、純粋な意識、純粋な気づき、在るという感覚として在りますので、それが可能ですね。)

○空性は、たとえて言えば、鏡の持つ根源的な清浄さと、透明さのようなものだ。
鏡そのものは、自分にうつしだされるものを、美しいとも醜いとも判断しない。どんな像がうつっても、鏡は不変のままだし、それによって鏡の反射能力がそこなわれることはない。
心の空性は、鏡と同じ本質を持ち、清浄で透明な輝きにみちている。

○何がそこに生じようとも、空である心の本性は決して失われたり、そこなわれたり、あるいは曇らされたりすることはないのである。

(無空:どんな思いや感情が起こってこようと、真我・本当の自分・純粋な意識は、純粋なままです。何の問題もありません。それをよい思い、よい感情、悪い思い、悪い感情などとする必要は全くありません。二元性の世界に入り込む必要はないということです。一元性、全体のまま、あるがまま、愛、平和、幸せそのもののまま在るのがいいですね。)
 
○ゾクチェンの修行そのものは、三昧の修行である。
三昧は、概念のレベルの意識活動を越え、自らを解脱し続ける不二の境地であり、しかも、「通常の」意識、ないし合理的思考と呼ばれるものもふくんでいる。この三昧の状態にとどまり続けるのである。

○ゾクチェンの三昧においては、思考が生じていない寂静な瞬間と、思考の動きがある瞬間を、ともに統合することができる。
何の努力もなしに、すべてを完全に知覚する覚醒の境地にとどまるのである。

(無空:マインドが起こっていようといまいと、関係ないということですね。)】


取り組んでいる者(個人)がいる限り、個人からの解放、マインド物語からの解放、

真の解放はありません。

(ただ気づいているものは、個人ではなく、純粋意識・在る・真我です。)

そのことにどこかで気づく必要があります。

パラダイムシフトとも言うべき、主たる立ち位置の大きなシフト、

個人から在る(真我・純粋意識・愛)へのシフトが必要です。


受講者
○○しよう=“する”ということは、まったくもって悪いことではありませんし

いわゆる“良し”“善い”と言われることでもあり

この現われの世界では、個人=マインドの一番の性質であるがゆえに

“する”=個人=マインドであると、自身で気づくのは

とても難しいことなのだと思いました。



そうですね。

現われの世界は、“する”が自然な世界でもあります。

(覚者は、「世界には行為だけがあり、行為者はいない」と言っていますが。)

クリアになるために、自分(個人)の中のこれまで見ていなかったところをしっかり見て行こう。

逃げていたところから逃げない等は、とても素晴らしく、賞賛されることでもあります。

個人として。

(そのように“起こっている”、ということでしたら、マインド物語の外です。)

無空庵では、「ただそれに気づいていてください。」

とお伝えしています。

ここに違いがあります。

(私が)“する”は、個人が主体となっていて、物語の中です。

“する”が“起こっている”と気づいているのは、物語の外です。

ただ気づいているのは、個人ではなく、真我(在る・純粋意識・愛・全体)です。

また、無空庵でお伝えしている実践のひとつに、

「在るに意識を向けてください。」というのがあります。

これを最小限の“する”というように表現する場合もありますが、

意識を向ける対象が、真の主体である在る(純粋意識・真我)の場合は、

“する”が“在る”に変わります。

意識を向ける主体と意識を向ける対象の距離、そして、時間もゼロとなります。

本来、

在るために、距離はいりません。

本来、

在るために、時間はいりません。

本来、

在るために、“する”はいりません。

本来、

在るために、個人はいりません。

本来、

在るために、努力、作為、意図はいりません。

在るから、距離、時間、する、個人、努力、作為、意図等すべてのものが生まれていきます。

在るはすべての源であり、すべてを超えている第一のものです。

あらゆるものを超えて、すでにそうであるものです。

ただそれを忘れてしまっている。

ただそこに焦点が当てられなくなっている。

そして、その真の価値、その無限の価値をまだ知らない、

感じ取れないだけです。

それはすでにそこにあります。

もっとも近い自分自身として在ります。

「在るに意識を向けてください。」というのは、

(気づいている)自分自身(純粋な気づき・真我・在る・愛)に意識を向けてください。

自分自身に気づいてください。

ただ自分自身であってください。

ただ在ってください。

ということでもあります。

“する”という習慣から、“在る”という習慣にシフトしていくために、

最小限の“する”を実践して頂きます。

そして、徐々に“する”が落ちていき、“在る”がより自然なものとなっていきます。

そしてもし可能なら、最小限の“する”の実践の際にも、私(自我)という個人が行うのではなく、

実践が起こっている、“在る”に意識を向ける、向けようとすることが起こっている、

という認識(理解)があれば、なおよろしいですね。

リアルタイムでなくても結構です。

実践の後、「今、そのように起こっていた」でも十分です。

その度にまた、在るの立ち位置に立つことができます。

主体自体がワークされていきます。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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