それはリアリティそのもの

受講者
最初に、日常があわただしくあっという間の一週間でしたということをお話ししました。

また、あまり言葉が出てこない状態であるということもお話ししました。



在るの立ち位置が主となるプロセスの中で、そのような状態になることもありますね。


受講者
ただそれは無気力という状態とは違うということをお伝えすると「せっかくなのでその違いをあじわいましょう」とのことでした。



この後の共鳴中の発見が、それですね。


受講者
思考が起こって、去った後にも意識がずっとあるのを強く感じるようになったということもお話ししました。



よりクリアになった証拠ですね。
よりクリアになると、意識はそれが持つ自然さと同時に、自ずとその存在感を増してきます。


受講者
共鳴に入り、どこかの共鳴で、「思考のリアリティのなさ」を感じました。
存在のリアリティがずっしり、どっしりという感じであり、そのリアリティに比べると、思考はなんて他愛ないものなんだろうと思いました。



確か、瞑想のときだったかもしれませんね。
そのような体験から、現われは幻想などと言われたりもします。
それは、存在が思考から離れ、思考にリアリティを与えていない状態とも言えます。
すべての現われの源である存在(純粋意識・真我・在る・愛)の方により焦点が当たり、そのリアリティを強く感じているときに、そこから離れているもの(より正確には、離れていると感じるもの)に現実感がないと感じられたり、他愛もないようなものと感じられることがあります。

すべてにリアリティを与えているのが、リアリティそのものである在る(存在・真我)です。
それは主としての立ち位置にあり、ただ在ること、ただすべてに気づいて在ることで、すべての現われに生き生きとしたリアリティ・生命を与えています。

源であるそれ自身の方により焦点が当たっているときは、前述したように、現われの方は他愛ないもの、リアリティに欠けたもの、幻想と感じられることもあります。
現われた何かに注意が向き、そこに意識(光・愛・生命・リアリティ)が注がれているときには、その注意が向けられた対象物は活性化し、リアリティ(生命)を持ちます。

(意識の方向だけが向いていても、主たるそれ自身の方にリアリティが留まっていることもあります。
また、主たる立ち位置にしっかり留まったまま、意識の光が当てられることで、雑念等が消えていく、あるいは、その姿形が還元され、リアリティそのものへと還っていくこともあります。)

すべての源である主たるそれとしてただ在り、現われ全体を包み込んでいるようなときには、すべてが同等で、すべてに生き生きとした生命の輝きがあり、すべてが愛おしく感じられたりすることもあります。

在るという主たる立ち位置に立ち、そこでの体験を重ね、源と現われ(存在の不変相と可変相)の両方の自己理解を進め、深めていきましょう。


受講者
また、「何もない」は同時に「もう少しで~しそう」というような、未知の可能性をはらみ、予感に満ちているということも発見しました。



はい、その「何もない」は空(くう)とも言われ、具体的にはまだ現われていませんが、生き生きとした無限の可能性に満ち満ちています。
それはリアリティそのもの。
すべてが生まれ、すべてが現われる直前の、ある意味、もっともエネルギーに満ち、エネルギーが高い状態とも言えます。

(未知の状態がもっとも満ちているとも言えますね。
それは、そこから現象がどんなに現われても現われ切ることはなく、常に余裕を持ち、それ自体は一切減じることなく、未知なる無限の可能性そのもの、リアリティそのものとして、非顕現、非具象のまま、実在としての地位に留まり、現われのすべてを支えています。)

そして、それが今(今に現れている現象、具体的な内容ではなく、今そのもの)であり、ずっと変わらずに在るもの。
在り続けているもの。
在りて在るもの。
時間、空間を超え、すべてを包み込んでいる唯一の実在です。

それは、現われのすべてを支え、育み、包んでいます。
そこから、すべての現われが起こって行き、そこをベースに、現われたすべての存在は、生き、学び、遊び、そしてまた、そこへ還っていきます。
そこは、すべての現われのホームグラウンド、マイホーム、ふるさととも言えるところです。

<現われという表現を使いますが、本質的な真実は(現象的真実に対してこう表現させて頂きます。)、本質、実質、実在である在る(真我・愛)はそこ、それ自身から(あるいは、その存在性、自己、純粋な主観性、もう少し現われ側へ向いた表現として「純粋なわたし感覚」から本質的には)一歩も出ていません。

ですから、源である実在から現われるということに関しましては、ひとつの言い方として、本質が意識でもあるがゆえに、その注意の焦点が「自己」という側面から、それ自身の“中”で展開される「現われ」という側面へと向いて(移って、または、単にそれて)、そこで感覚体験として、様々な旅、冒険をするという言い方ができるかもしれません。
(それは、夜寝ていて、夢を見ているようなものだとも言われることがありますね。)
そこは現われているようで、実際は源(実在)の“中”であり、自分自身(真我・在る・愛)の“中”です。
それゆえそこは、その本質において、絶対安心、絶対安全、絶対大丈夫であると言うことができます。>

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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