自己理解

受講者
セッション:今日は、ニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハルシ、アジズなどを読んでいて疑問があったため、最初に「真我」について質問しました。
結論としては、「目の奥の意識(感覚の受け手)=ラマナの言う『意識』=マハラジの言う『気づき』=真我」であり、アジズの主張(意識を超えた状態がある)とは異なり、「意識(=真我)以上のものはない」(最後のカッコは私の理解、解釈)とのことでした。
「意識=真我」と確認できて安心しました。



はい、(純粋)意識=真我 です。

それから、書かれてある内容でまずは一点。
(これは前にもお伝えした内容で、分かりやすくという意味で書かれたのかもしれませんが。)
あなたの感覚、あるいは、肉体側からみれば、目の奥の方に意識が感じられるということがあるかもしれません。
ただ、意識自体は遍在しており(現われの世界を含めた視点から見れば)、必ずしも目の奥の方にあるという感覚に限定されるものではないということ、そして、視点としては、現われている肉体側(個人)から見たものであるということを認識されていられるとよろしいと思います。

(源と現われという視点から見ていけば、意識の方が源であり、そちらが主になると言えます。
そちらの立ち位置にある場合、それは特定の位置や大きさを持たないとも言えますし、それ自身がすべて、それ自身が絶対的な位置そのものであるとも言えます。)

また、アジズの主張である「意識を超えた状態がある」ということに関して言えば、純粋な意識(真我)は、ひとつの視点からは、それ自身を更新していきますし、体験が深まる、状態(あるいは、境地)、その認識という点では、意識を超えた“状態”があるという言い方もできるとも言えます。

簡潔にまとめてみますと、実在するものとして、意識(=真我)以上のものはない。
(同じものではありますが、「意識」より「在る」の方がよりベーシックという言い方はしています。)

そして、その状態、境地、認識、体験においては、多種多様で無限の側面があり、また、それぞれの質、それぞれの側面、そして、トータルな理解(自己理解)においては、無限の深まり、広がりがあると理解されるとよろしいと思います。

(意識・真我自体が、定義できないもの、ここまでという枠、限界のない無限性そのもの、無限の可能性そのもの、現れるがけっして現われ切らず、常にその背後、ベースに、潜在性、非具象性、計り知れない可能性を有しているもの、既知(知っている)と未知(知らない)を同時に有する知そのもの(この表現も少しあまいですが、常に未知なる部分を有している、未知そのものでもあるということで。)でもあるので。)

フーマンも、真我には多様な側面があるということを「恩寵の扉が開くまで」で、

【本当のあなたは(それはノーマインドであるが)、例えば「純粋な気づき」に限定されるものではない。
「絶対の境地」であったり、「純粋な愛」であったり、様々な違った要素を持っている。

しかし、それらは同じものであり、同じエッセンスだ。
その事が分かるだろうか?
その事について、決して混乱してはならない。

今後どんなシフトや違ったレベルの体験を通り抜けて行こうとも、それは同じエッセンスの変化だ。】

【時には「強烈な愛」として、時には「存在の神秘」として、時には「源泉での深い寛ぎ」として、そして時には「理由のない幸せ」として体験する。



【悟りとは、たったひとつだ。
「これ」だ。
「これ」を超えるものは何もない。
「これ」の前後に、様々な悟りの境地があるわけではない。
「真実の自己」は、たった一つだ。】

しかしそれらは同じだ。
つまり同じものが違った顔つきをしているという事だ。】

と言っています。

また、今回のセッションでご質問があったことに関係するところも含め、フーマン「恩寵の扉が開くまでⅠ、Ⅱ」から参考までにいくつか抜粋させて頂き、ご紹介しましょう。

【たとえどんな素晴らしい境地に達しても、彼の探求者としてのマインドが変容されなければならない。
彼は、まだ様々な境地をいつも探し続けている。
彼はストップしなければならない。】

無空:真にストップできるのは、フーマンが言う「これ」、「ノーマインド(マインドではないもの)」であり、(純粋)意識(マインド・個人がミックスされている場合があるので、それと区別して、「純粋意識」と言った方がいいかもしれません。)そのもの、純粋な気づきそのもの、在るそのものであるときです。

【人がどんなに素晴らしい境地に到達しても、その人がそれに溶けて一つにならなければならない。】

無空:セッションで、「今どうですか」などと問いかけ、「静かです。」、「在るはあります。」などと応えて頂いたときに、「静かそのものですか?」、「在るそのものですか?」、「それを感じている誰かはいますか?」、「それに気づいている者(主体)と気づいているもの(気づいている対象)との距離はありますか?」、「今、個人はいますか?」などと聞くのは、個人が静けさや在るに溶けてひとつになっているかどうか、純粋な気づきそのものになっているかどうか、静かそのものがそれ自身に気づいている状態になっているかどうか、透明な個人が透明な真我に溶けて、透明そのものとなっているかどうかなどを確認するため、それを自覚、認識して頂き(そのものとなっていない場合も今の立ち位置を自覚、認識でき、その気づきが、自然にそのものとなる方向へと促していきます。)、自己理解を進め、深めて頂くためです。

【まず最初の要素は、あなたの瞑想の境地(states)だ。それはあなたのI AMという感覚でもある。

無空:(他の箇所で、フーマンは、【徐々にあなたのI AMはシフトして、「普遍のI AM」へともっともっと広がっていく。】と言っています。



また、別の箇所でも、【純粋なI AM、この純粋な主観は普遍のI AMであり、個人ではないからだ。】と言っていて、個人がミックスされた「I AM」と分けて表現しています。)

それからもうひとつの要素は、あなたの私(ME)でありそれが変容されねばならない。

大部分の人は、私(ME)とマインドはミックスされている。

最初は、ステート オブ プレゼンス等の境地にワークする必要がある。
次に、まさに私(ME)そのものがワークされ、「透明な私」へ変容されなければならない。
そして、この瞑想の境地(states)と透明な私(transparent me)が出逢うとき、全一性(wholeness)
とワンネスが生まれる。
そして、純粋な主観性へ広がって行き、真の自由がある。

スピリチュアリティの結果は、平和とワンネスそして透明性だ。】

無空:それ(純粋な気づき・純粋な意識等)そのものであることは、自己理解を進め、深めると同時に、透明な私へ変容するためのもっとも強力なワークになりますね。
あなたの文章で言えば、「感覚の受け手」がワークされる、純化されるとも言えますね。

【あなたのエッセンスに変わりはない。
しかしあなたのマインドと認識は、段階を追っていくにしたがいだんだんと違ったものとなる。】

無空:(以前、頂いた感想メールの中にも、
「共鳴を始めて以来、今までずっと、自分の認識が自然にどんどん変わってきたので、上の認識もまた変わっていくのだろうと思います。私はただその認識をただ眺めていこうと思います。」とありましたね。また、ここでフーマンがエッセンスと言っているのが、純粋意識・真我です。)

それから、今回セッション時にご質問があったところに直接関係するところが、ⅡのP122~139くらいまでのところにあります。再度読まれてみてください。

その中から、一部分ポイントだけを抜粋してご紹介させて頂きます。

アジズによれば、意識に先だって存在するものがあり、そこへシフトした境地をabsolute state〔絶対の境地〕と呼んでいる。
(前述しましたが、無空庵でも、同じものではありますが、意識よりも在るの方がよりベーシックであるという言い方はしています。)

~省略~

~「絶対の境地」はマインドを脇に置く。
だからそこから戻ると、またマインドが機能する。
ただ一時的に、平和と寛ぎにアクセスするに過ぎない。
それがあなたに変容をもたらす訳ではない。
それは単なる境地だ。

それは「本当のあなた」ではない。
あなたの「仏陀の本性」ではないのだ。
「絶対の境地」とは、瞑想の「境地」に過ぎない。
瞑想が非常に深まった境地の事だ。

仏陀は、ビーイングへの吸収(absorption/三昧、禅定)について、9段階に分けて話している。
「絶対の境地」は、その一つの段階だ。
しかし、仏陀の本性と瞑想の境地は同じではない。
その2つを繋げる必要はない。
解放は唯一、「これ」の中でのみ起こる。

無空:「これ」とは、純粋意識・真我です。

深く瞑想していない人々や、マインドの強い人々は、ステート オブ プレゼンスのワークや「絶対状態」へ入るワークをして、瞑想の境地を体験する必要がある。
しかし、それではマーヤからの目覚めは起きない。
マインドからの繋がりを絶つ事は出来ない。
あなたのマインドは、ただ一時停止状態になってまだそこにあり、戻るチャンスを伺っている。

それはサマーディ(三昧)に入っている人々を見るとよく解る。
どんなに深いサマーディに入っても、そこから出たとたんに、マインドがただちに戻ってくる。

~省略~

例えば10日とか21日間のリトリートをすると、マインドが脇に追いやられて一時停止状態になるので、素晴らしい体験をするだろう。
全てがクリヤーで、無心の境地を体験する。
しかしそれは、マインドの集中と一時停止による効果に過ぎない。

それは、「真実の自己」の目覚めではない。
そこには「自己に対する理解」がない。

~省略~

解放への究極の道は、「自己理解」にある。

無空:無空庵でも、もっとも大切にしているのが、「自己理解」であり、

ニサルガダッタ・マハラジも、

いかに高尚であっても、体験は実在のものではない。
体験はその本性からして、来ては去っていくものなのだ。
自己実現は獲得されるものではない。
それはもっと理解の本質に近いものだ。
ひとたびそれに到達すれば、けっして失われることはない。

真我の実現にとっては、理解が本質的なものだ。

と言っています。


~省略~

瞑想による内的境地は、必ずしも「自己理解」をもたらすものではない。
時には、それをもたらす場合もある。
しかし、大部分は、それが実際には起こってはいない。

マインドを脇に置いて、より深い部分に寛ぐ能力を得る事は出来る。
その事自体は、とても価値がある。

しかし今私が話している事は、それとは違う。
これは最終ゴールだ。
これが、究極の私(Ultimate Me)であり、本当のあなただ。

あなたが「絶対の境地」や、様々な瞑想の境地に対して知的に思い巡らす事は良くない。
あれこれ考える事で、再びマインドへと入り込む。
しかし「これ」は、「絶対の境地」をも含んでいる。

無空:境地には無限の深さがあり、その先、その次、さらに先というようにありますが、実在(リアリティ)である「これ」・純粋意識・真我は、それら無限の深さ、無限の境地をすべて含んでいます。

~省略~

ビーイングへの吸収にはたくさんの境地があるが、私はもうこれに名前をつけたくはない。
名前をつけると、直ぐに人々は質問する。
「私は今、どの境地なのでしょうか?」と・・・・・・。
質問することで、マインドは永続しようとする。
人々はあれやこれや本を読みあさり、瞑想の境地を追い求め続ける。

無空:ここが一番問題ですね。
結局、どこまで深まっても、マインドが真に落ち着くことはできません。

~省略~

マインドから抜け出すために瞑想体験は必要なプロセスだ。
しかし、本の読み過ぎ、考え過ぎ、解釈のし過ぎは良くない。

悟りも一つ。
幻想も一つ。

~省略~

悟りに段階はない。
この悟り、次にこの悟り、最終的にこの悟りといったものはない。

瞑想はとても重要だ。
自分自身に寛いで、平和に満たされる様になる。
それから気づきの働きによって、マインドに巻き込まれなくなる。
しかし「これ」は、突然の目覚めを引き起こす。

「絶対の境地」は、既にあなたの中にある。
それについて、あれこれ考える必要はない。
ただ深い瞑想の深い境地だと思えばそれでいい。
自分自身に深く寛いでいる状態の事だ。

~省略~

目の開け閉めとは関係なくあなたとして既に在るもの、これは境地ではなく、
マインドには理解出来ない。
それがノーマインドだ。

ノーマインドは境地を超え、マインドを超えている。
それが、本当のあなただ。
それが、真実の自己だ。
理解できる?

~省略~

「自己理解」あるいは「悟り」とは、境地ではない。
それは境地を超えている。
あなたは夢から抜け出す。
境地はまだマインドに属している。
吸収のレベルは瞑想に属している。

━ 「これ」は意識を超えているのですか?
フーマン イエス、意識を超えている。
あるいは、純粋意識と言っても良い。
全ての源泉だ。
それは、あなたを超えている事を感じられるかな?

~省略~

マインドはいつでも、境地や答えを求め続ける。
得たものがなんであれ、それはただのマインドだ。

悟りとはそれを超えている。

~省略~

この事について考え過ぎると、再びマインドに落ちる。
「これ」が成長するにつれて、変容が起こる。

既に述べた様に、時にハートが広がると、これをBelovedと感じる。
時にはとてつもない深さを体験し、これを源泉と感じる。
時には意識が広がり、これを純粋な意識であると感じる。

すべて同じ事を、違った名前で呼んでいるに過ぎない。
しかしそれを構成しているものは、リアルだ。
マインドを超えている。

~省略~

マインドには、それを把握できない。
それはマインドではない、としか言えない。
それ(ノーマインド)だけが、言える。

無空:ノーマインドをマインドが起こっていない“状態”ではなく、
マインドでは把握できないもの。
マインドを超えているもの。
マインドではないもの。と理解されるといいかもしれませんね。

~省略~

フーマン それは変化する?

━ 変化しません。

フーマン なぜ、変化しないのだろう?
なぜなら、リアルなものは変化しないから・・・・・。

それから、もうひとつありました質問で(あるヨガを習いはじめてから特に敏感になられたということでしたが。)、勉強等をし続けると、ナーディ(だったでしょうか?)が詰まってきて、体が苦しくなり、半年くらいで継続できなくなるので、どうしたらよいでしょうか?ということでしたが、

ブログの初めの方に書いてありますが、すべての問題はマインド(個人である私)の中にあります。
(事実は事実、状況は状況で在るがままに存在していますが、それを問題と捉え、問題にするのはマインドであり、そこからマインド的な苦しみ等が生まれます。)
セッション時にお伝えしましたが、すべてはただ起こっている、勉強がただ起こっているという立ち位置に立たれ、勉強を個人である私が主体となって行っている、自分が行っている、私が行っているという感覚から離れられるとよいと思います。
「(個人である)私が」があると、そこに余計な力や不自然さが加わり、流れが滞ります。
必要以上に疲れたりします。
「私が」勉強しているのではなく、ただ「勉強」が起こっている。という立ち位置に立たれ、起こっている行為を所有しないようにされるとよろしいと思います。

もうひとつは、「勉強そのもの」になる、「勉強そのもの」として在る、という在り方も、勉強している主体である私(個人)がいなくなり、流れが全体的で自然なものになり、スムーズになります。
すぐに完全に個人がいなくなる状態の継続は難しいかもしれませんが、何度もその在り方、立ち位置、その認識の仕方に立ち返り、実践していくことで、私がどんどん透明になっていきます。
その分、詰まりがなくなり、流れもよくなっていくと思いますので、実践してみてください。

スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

初めてご訪問頂いた方へ
悟り|無空庵
お知らせ
公開・週一合同ゼロ意識共鳴
ご案内
浄化のときにはこちらへどうぞ
最新記事
最新コメント
カテゴリ
月別アーカイブ
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

リンク
検索フォーム
QRコード
QR
RSSリンクの表示