個人である「私」という表現が起こってきた場合などに、違和感等を感じるということが起こることがある

受講者
共鳴の前に、思考が起こる前、とくに「私」や「僕」などの主語が出るときに、一瞬とまり、気づきがあり、言葉に出すのが遅れることをお話しいたしました。

全体性の視点からみると、「私」もわたしなのでしょうが、これまで、とっても長い時間、その区別さえ認識できず過ごしていたのですから、経過途上においては、そのような背景と実写、不動と動が一度分離される過程が、出てくる場合もあるのだと思われます。
(すべての方がそのようになるわけでもないと思います。)



そうですね。
分かりやすく表現すれば、広義には、すべては真我であり、それ以外何も存在しないという視点があり、狭義には、変わらない源を真我(あなたの今回の表現では「わたし」)、そして、そこから起こっていくものすべては「現われ」であるとし、その中に、自我(あなたの今回の表現では、「私」)も含まれるという視点がありますね。
また、経過途上という言葉で書かれてある様に、プロセスという視点から見て行っても、源(真我)と現われ(自我)、変わらないものと変わり続けるものの識別がまだはっきりとできておらず、現われ、変わり続けるものに巻き込まれている段階(同一化している段階)では、変わらないものに気づき、そして、現れては変わり続けていくもの、起こっては消えていくものとを識別できるようになるということは大切です。

そして、その実践を続け、あなたのように、変わらない真我をしっかりと知り、さらに、現れた真我(自我、その他自然現象)を含め、すべては真我であるという理解が存在全体に浸透してきている過程でも、それまでの習慣や関係性の中でのスムーズな流れのための必要性から、会話や、こうしてメールを書いたりする際などに、個人である「私」という表現がこれまでと同じように起こってくる場合があります。
そのとき、変わらない真我そのものであるという自覚、その立ち位置に在るために、あるいは、源であり、変わることのない真我とその現われである真我(自我を含めたすべての自然現象)の統合途上であるために、個人である「私」という表現が起こってきた場合などに、違和感等を感じるということが起こることがあります。

極端に言えば、まったく真我を知らない人と、真我を知り、自我を含め、その現われすべてを統合した人は、(見た目には)まったく変わりません。
本当に自然であり、普通です。
1周して元に戻った感じ、1巡した感じという言葉が聞かれることもありますね。
(その1周も深さ、濃さ等はそれぞれです。)
でも、すべてを統合した人の内側には、あるがままの平和があります。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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