真の自己に覚醒している者は、あるがまま、起こるがまま

受講者
最後のニュートラルの共鳴の時に

本当の楽を感じていました


この世で出会う人の前で

このままのわたしで居られるという幸せを味わっていました

またそれは

この世で本当にしたかったことです

同時に本当に心のそこから安心してそのままでいることを

許されているのだと言う感じもありました



はい、真我(在る・無限の愛)は、いつもそのまま、あるがままでいることを許しています。

そして、それはけっして誰かに対してではなく、自分自身に対してそう在ります。

なぜなら、存在するすべては真我(在る・無限の愛)であり、それ以外何も存在しないからです。


受講者
いつも通り一週間のことをお尋ねいただきました

泣いて友人の引越しのことを話していました

またふたたび家族のことでつまずいていることも少し話していました

それを話しながら泣いていましたが

自分が自分らしく当たり前に在りたいという願いから泣いていたのです



ここまでセッションを続けさせていただいて

実生活が思うようにいかないことで

共鳴に対する不満が出てきます

実生活の改善などを期待する思いが強いのだと思います



そうかもしれませんね。

出てきている不満を自分のものにしているのは誰か?

その主体がクリアされる必要がありますね。


受講者
ただ「在る」ということは

すでにここにそのままに「在る」ということですが


心のそこから

リラックスして

あの最後のニュートラルの共鳴のようにいつも在りたいです

と書いていて・・・

そのニュートラルはどこにも行かないし

それを味わい楽しむことがセッションなのかな?と思いました



セッションには無限の側面があります。

それは、無限そのものである在る(真我)の共鳴だからとも言えますね。


受講者
セッションで

味わう様々な体験はそのまま実生活もそのようでありたいと強く思うのですが



そう思われるのは自然なマインドですが、様々な体験を重ね、真の自己を深く理解し、受け容れていくことが大切です。

そして、現われである体験、そして、実生活においても、自然にとらわれがよりなくなってくるといいですね。


受講者
それはやはり過ぎ去る体験なのでしょうか



はい、体験のすべてが過ぎ去っていきます。

そして、あらゆる体験に気づいている主体(純粋意識・真の自己・真我)のみが変わらずに在り続けます。


受講者
変わらないもの

常にあり続けるものに気づいている

その気づいているそのものに意識がシフトしていくことが自然に起こっていくプロセスが

このセッションだと思うのですが・・



それを促し、サポートしています。

そのプロセスはひとそれぞれですね。

変わらずに在り続けるものに注意を向け続け、そして、それそのものであることにより、自己理解と受け容れをより深めていきましょう。

「不満」や「こうありたい」に巻き込まれ、それらを自分のものにしているとき、主体は個人です。

起こってきている「不満」や「こうありたい」にただ気づいているそのとき、主体は在る・真我です。


受講者
最初の共鳴では

自分自身に深く没中していきました



いいですね。


受講者
アイコンタクトでは

1年前受けだしたころのような感触を思い出していました

上から神聖さが降り注いでいました


瞑想では

地球の奥深くに深く深く沈みながら

グランディングをしているようでした


ハートの共鳴では無空さんは真っ白でどこにもいない

すべてが「空」に消え去っていました



はじめから、すべては「空」(在る・真我・無限の愛・全体)ですね。

その「空」が、起こっては消えていくを繰り返しています。


受講者
立場をかえては

無音ですが

美しい鐘の音が鳴っているのを聞いているかのようでした



無音はとても美しい音ですね。


受講者
立場なし・ニュートラルでは

遠慮なく私はそのままにここに居ることがしたかったのだと

思いました

そしてそれは



神聖な愛でした



それに溶け、それそのものとして在りましょう。

そのままに居たいところそのものして在りましょう。

本当は誰しも、そうでしか在り得ません。

そのことをより深く再認識し、それを受け容れていきましょう。


受講者
最初のお話の部分からのつづきですが

すいません

私の理解を助けていただけますか?

さまざまなお話をしながら聞きたかったことは

その理解なのです



理解したいマインドをサポートすることで、マインド(私・個人)の落ち着きを促すことができます。

そして、そこからさらに進んで、その理解したいマインド(私・個人)自体から自由になるということが大切です。


受講者
この変わらない部分からの理解が深まれば

この肉体を持っている部分でのことは

その一部であって

全体から見てみれば(魂というものがあってもしそちらの視点から見ることができれば)

たといこの肉体を離れようとも

(死んで離ればなれになろうとも)まったく嘆き悲しみ続けることからは

離れていることも出来るということです

あるいはそのことの理解が深まれば

どこにも誰とも離ればなれになったことは一度も無かったという理解です


そのなかで

私自身が生きてきて

出会い(プレム氏との出会いやその周りの同士たちとの深いつながりからの理解です)

また感じできたことでありましたが・・・


それこそが覚醒とまで思っておりましたが

覚醒者でもそのことからはなかなか離れることが出来ないとおっしゃりましたか?

少しまたその部分をどのように理解すればいいのでしょうか



状況により、自然に嘆き悲しむということは起こります。

起こることは起こります。

真の自己に覚醒している者は、あるがまま、起こるがままです。

起こることを起こるがままにしておくことができます。

そして、起こったものはいずれ消えていきます。

そのままにしておけば、それ自身の現われとしての運命とともに、自然に消えていきます。

そこに執着し、嘆き悲しみをいつまでも持ち続けているのがマインドです。

そのマインドから自由になりましょう。

またさらには、嘆き悲しむということがもし続いているのなら、それもそのままにしておけるのが真我・在るです。

成熟した覚醒者(悟後の修行が進んだ覚醒者)が、嘆き悲しみから離れているかどうかと言えば、それと共に在り、そして、離れているという言い方がよろしいかもしれません。

真我そのものとしては、嘆き悲しみそのものとしても在り、それと共に在るものとしても在り、そして、それと絶対的に離れているものとしても在ります。

真我は、同時に無限の立ち位置に在ります。

そして、覚醒者(覚醒した人)は、真我そのものとしての立ち位置に立つことができます。


受講者
こうあらねばならないということはどこにもありません

私の理解がすべてではありません

各々ひとりひとり転生や来世への理解と同じように

そのものが(わたしが)思う視点で在ればいいのだとも思いますが


最初にお話を聞いていただき

友人のお母さんの(霊能者)のご主人の亡くなったことの話ですとか

(私自身母親も亡くなっておりますがこの宇宙この心のうちでひとつです。。その安心感は

この世で肉体を持って出会う親兄弟よりも濃い出会いから得た理解に繋がるものです)


またもう少し説明していただけると幸いですが

セッション時間で無空さんのリアクションからは

まあ私自身の思い込みの強さが浮き彫りだったようにも思います。。。



単なる思い込みで

間違った理解なのでしょうか?

^^




すいません

どうぞよろしくお願いいたします



知人からのメールにあった臨済のお話を参考までにご紹介します。


臨済のマスターが亡くなった

そのマスターは有名な人だった

が、臨済はそのマスターよりまだ有名だった

というのも、そのマスターは静かな人で

実際のところ彼は臨済を通して非常に著名になったのだった



で、そのマスターが死んだ

そして臨済もまた明悟の人として知られていた

何千もの参列者が

彼らの敬意を表し、最後の別れを告げるためにつめかけた

と、彼らは

あの臨済が泣きわめき嘆き悲しみ

その顔にはまるで

母を失った幼な児のように涙が流れ落ちているのを見た

みんながわが目を信じることができなかった

悟りに達した人だと思っていたのに

その彼が小さな子供のように泣き叫んでいる

その人が無知ならこれも構わない

しかし、その人が目覚め

その人自身、内奥無比の不死不滅だ

それは決して死なないと説いているとき

こはいかに?



臨済とごくごく近しい何人かの人たちが

彼のところに来て話をした

「それはまずい

人々があなたのことをどう思います?

もうすでに噂が立っています

みんなはあなたのことを悟った人だと考えていたのが間違いだっ

たと思っています

あなたの地位そのものが危うくなっているのですよ

泣くのをやめなさい

それにあなたのような人がなく必要はないでしょう?」



臨済曰く

「しかし、わたしにどうすることができる?

涙は出て来る

それはそのダルマだ

それを私がどうする?

私は受け容れているのでも拒絶しているのでもない

私は私自身の内にとどまっているのだ

いま、涙が流れている

それはどうしようもない

地位が危ういのならそれでいい

たとえ人々がわたしのことを悟っていないと思おうと

それは彼ら自身の商売だ

が、私に何ができる?

私はもうずっと前にやり手を離れた

もうどこにもやり手はいない

それはただ起こっているにすぎない

この目はひとりでに泣き、悲しんでいるのだ

この目にはもうあのお師匠さんは二度と見れまいし

あの人はこの目にとってはこやしだったのだから―

この目はそれを糧にしていた

魂が永遠なのはよく知っている

誰ひとり決して死にはしない

だが、この目にどうやってそれを教える?

何を言って聞かせる?

こいつらは聞きやしない

こいつらは耳などもってない

どうやってこの目に、泣くな悲しむな

生命は永遠だと教える?

それに、私は何様か?

それはこいつらの仕事だ

こいつらが泣きたかったら泣くがいい」


受講者
どこにも誰にも依ることなく

在れるというのは

どこからも誰からも離れたことは無かったからで

その理解が深まれば

動じることなどどこにも起こらないのは

たとい動じてもその起こらないほうにどれだけシフトしているのかということでもあると思っていますが・・・



そうですね。

そうなると、動じても自然に戻れるようになっていきます。

起こらない方に在り、そこから起こっていくすべての動をあるがままに受容できるといいですね。

存在全体は、源と現われでひとつであるとも言えます。

その源の部分は変わらず、その現われの部分は無限に変化していきます。

動じない部分と動じる部分のその両方があります。

統合された存在、成熟した存在は、それをひとつのものとして見、両方を受容し、そして、とらわれません。


受講者
死に別れのような寂しさで苦しんでいました

今もなお時々発作のなごりのように起こります

そこからスッキリと抜け出てくるのに

このことに今着目しているのだと思います。。



苦しいときは、そこに注意が向きますね。

それは自然なことです。

理解したいというマインドが起こることは自然ですが、そのマインドにもただ気づいていてください。

(マインドはマインドとして、ただ働くままにさせてあげてください。)

そして、戻れるときにはまた、在る(真我・無限の愛・全体・ニュートラル・純粋な気づき)に戻ってください。

そこが、根本的な解決が起こる場所です。

何度も何度もそこ、それに戻り続けてください。

それが、あなたの存在のすべてに浸透するようになるまで。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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