それが語る言葉は、すべてがそれになる
受講者
ラマナ・マハルシの「世界は幻想である。ブラフマンだけがリアリティである。世界はブラフマンである。」
今週は、このことがよく浮かびました。
マインド
源からの現われとも言われ、幻想とも呼ばれる。
視点の違いや立ち位置で言葉の使われ方が違うときもありますが、在るの質を現す言葉が溶けて、例えば「更新」も「クリアー」もただ在ると同じく思えます。
師
はい、そこではすべての言葉が同じです。
あるいは、すべての言葉が意味を持ちません。
ただ在るだけです。
受講者
その深まりからなのか、マインドと愛の区別が微細なところですが、更になくなってきているように感じています。
師
とてもいいですね。
本質的には、愛しか存在していません。
受講者
そして再認識が起こりつづけると、これが 真我が真我を知る=これは自己の再認識のことなのではないかと。
師
そうです。
受講者
観るものと観られるものが同じということが何となくこういうことではないかと理解し始めているような気がします。
師
よい感じですね。
受講者
静かな理解です。
そして思考からの理解でないようで、自然に手放しているような感じがします。
師
それが真の理解です。
そこに理解している個人はなく、理解そのものだけがあります。
そして、それ自体は無限に自由で、すべてから解放されています。
受講者
変わらない在る・意識に。ただ在るに留まっている。後は流れていきます。
絶無・絶妙な感じです。在るの質は、必要な時に起こります。
師
とても精妙な感じですね。
受講者
未知なる・未知であることへ溶け合うような感じでの日常です。
今の段階での理解です。
師
とてもいいですね。
常に理解は今の段階の理解です。
それが無限に開かれ行く未知を知っているものの言葉であり、態度、在り方です。
そこには、謙虚さと、そしてさらに奥深くには絶対的なものがあります。
それは絶対知、知そのものとも言えます。
それにとっては、未知も、無知も、既知もすべてが同じです。
そして、それ自身は具体的には何も知りませんが、それは全く問題ではありません。
それはただそれ自身で在ることで満ちています。
そして、そこからすべての未知や、無知、既知が生まれていきます。
未知と既知は同時に生まれていきます。
それは、全くはじめて知ると同時に、すでにそれを知っていたという感覚です。
同様なものについて挙げれば、
すべてはただ起こっているというのと、実は何も起こっていない。
運命はすべて決まっているというのと、無限の自由がある。
などもそうですね。
ただひとつのものからは、そのように起こっていきます。
一つの視点からは、ただひとつであるすべては、それだけの幅と厚みと奥行きと深さを持ち、無限に大きなものであるということも言えますね。
そして、この辺りに来ると、言葉はまったくの自由です。
何を言おうと、どんな言葉を使おうとそれは真実になります。
「あ」でも、「い」でも、「う」でも、それは絶対的な真実で在ります。
そのように自由で在りますが、自然にそれは適切に使われ、的確に真実を指し示し、表現されていきます。
それは自動的、自発的、自然発生的です。
自ら然り。
それはまったくの自然です。
そのとき、それ自身がそれを語っています。
それが語る言葉は、すべてがそれになります。
ですから、何を語るか、何を為すかよりも、どう在るか、それが大事であると言うのです。
どう在るかにより、そこから起こって行くクオリティが決定します。
ラマナ・マハルシの「世界は幻想である。ブラフマンだけがリアリティである。世界はブラフマンである。」
今週は、このことがよく浮かびました。
マインド
源からの現われとも言われ、幻想とも呼ばれる。
視点の違いや立ち位置で言葉の使われ方が違うときもありますが、在るの質を現す言葉が溶けて、例えば「更新」も「クリアー」もただ在ると同じく思えます。
師
はい、そこではすべての言葉が同じです。
あるいは、すべての言葉が意味を持ちません。
ただ在るだけです。
受講者
その深まりからなのか、マインドと愛の区別が微細なところですが、更になくなってきているように感じています。
師
とてもいいですね。
本質的には、愛しか存在していません。
受講者
そして再認識が起こりつづけると、これが 真我が真我を知る=これは自己の再認識のことなのではないかと。
師
そうです。
受講者
観るものと観られるものが同じということが何となくこういうことではないかと理解し始めているような気がします。
師
よい感じですね。
受講者
静かな理解です。
そして思考からの理解でないようで、自然に手放しているような感じがします。
師
それが真の理解です。
そこに理解している個人はなく、理解そのものだけがあります。
そして、それ自体は無限に自由で、すべてから解放されています。
受講者
変わらない在る・意識に。ただ在るに留まっている。後は流れていきます。
絶無・絶妙な感じです。在るの質は、必要な時に起こります。
師
とても精妙な感じですね。
受講者
未知なる・未知であることへ溶け合うような感じでの日常です。
今の段階での理解です。
師
とてもいいですね。
常に理解は今の段階の理解です。
それが無限に開かれ行く未知を知っているものの言葉であり、態度、在り方です。
そこには、謙虚さと、そしてさらに奥深くには絶対的なものがあります。
それは絶対知、知そのものとも言えます。
それにとっては、未知も、無知も、既知もすべてが同じです。
そして、それ自身は具体的には何も知りませんが、それは全く問題ではありません。
それはただそれ自身で在ることで満ちています。
そして、そこからすべての未知や、無知、既知が生まれていきます。
未知と既知は同時に生まれていきます。
それは、全くはじめて知ると同時に、すでにそれを知っていたという感覚です。
同様なものについて挙げれば、
すべてはただ起こっているというのと、実は何も起こっていない。
運命はすべて決まっているというのと、無限の自由がある。
などもそうですね。
ただひとつのものからは、そのように起こっていきます。
一つの視点からは、ただひとつであるすべては、それだけの幅と厚みと奥行きと深さを持ち、無限に大きなものであるということも言えますね。
そして、この辺りに来ると、言葉はまったくの自由です。
何を言おうと、どんな言葉を使おうとそれは真実になります。
「あ」でも、「い」でも、「う」でも、それは絶対的な真実で在ります。
そのように自由で在りますが、自然にそれは適切に使われ、的確に真実を指し示し、表現されていきます。
それは自動的、自発的、自然発生的です。
自ら然り。
それはまったくの自然です。
そのとき、それ自身がそれを語っています。
それが語る言葉は、すべてがそれになります。
ですから、何を語るか、何を為すかよりも、どう在るか、それが大事であると言うのです。
どう在るかにより、そこから起こって行くクオリティが決定します。
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