在るの実践は、習慣を変えるための必要最小限の実践であり、実践するにしたがって、徐々に自然なものとなっていく

受講者
今回、不思議なこと?が起こったのでまずそれをご報告いたします。

無空庵に書かれている、ブログを読む機会が先週1週ぐらいでしょうか、ありませんでした。
また、無空さまから先週返答されている内容にであっても 、はじめ理解の深まりが起こりませんでした。



そのようなときはありますね。


受講者
その後です。
ある日、アジャシャンティの言葉に出会いました。
それは、あるの訓練をするということは、未来にあるという安定感、幸福感がどこかに存在するということを前提にしてしまっているということでした。
(メッセージを受けている、対象者によって、師が話す内容は自在に異なるので、注意が必要となることもありますが)。

その対象が、あるにとどまろうとすることであれ、その未来に何ろうとしている、その人は誰なのか、と...。
あるいは、その人は、遅かれ早かれ、あるに完全にはなれないことを知るのですとも語っているように思われました。

もし、この話を文字通りに受け取るなら、今の無空庵は、なんだったんだろうとなってしまうかもしれませんでした。



ブログ等では、その辺(在るの実践の際の注意点、在るを実践することの意味等)も随所に丁寧に書いてあります。

未来の目標等に向かっての実践にならないよう、すでにゴールに在るという理解、すでにそれであるという理解での実践で在るよう、

また、在るの実践は、それまでマインドに巻き込まれていた習慣を変えるための必要最小限の実践であること。
それは実践するにしたがって、徐々に自然なものとなっていくこと。

その過程で、不自然さが強まっていないかどうか、自身でも確認しながら、セッションでも確認し、必要があれば修正されていくこと。

また、在るの訓練という視点で見ていき、それを意識しながら、それが徐々に自然なものになっていくかどうかという点について、在るを本で読んだだけでまったく実感できていない状態から訓練していくのと、共鳴等で、在るをある程度実感してから、実践を継続していくのとではやはり違いがあります。
後者の方が、自然そのものであるそれ自身(在る自身)に正されるということも起こってきますし、やはり、実感しながらの実践は、より自然な在り方にシフトしていきやすいですね。

加えて、無空庵の場合は、定期的継続的な共鳴により、その自然な在るの在り方の共鳴伝授が直接的に行われていきます。

本当に準備ができた人であれば、ただ何もしない(無為)ということで、在るを実現できるかもしれませんが、多くの場合は、マインドに巻き込まれ、また、常に何かをするよう駆り立てられています。

マインドに巻き込まれている人がそのままあるがままでは、巻き込まれたままです。

その習慣、在り方を変えるため、それまでの習慣を最小限に使った在るの実践をして頂きます。

それまでのマインドの傾向を最小限の形で満足させながら(そういう意味で、これもブログに書いてありますが、在るに長い間“留まろう”とするのではなく、気づいたら“ただ”戻るの繰り返しと、基本的にはお伝えしています。その方がマインド的努力は少ないです。努力なしに自然に続くのはもちろんかまいません。ただそれに気づいている、覚醒している、明晰であるという状態です。)、在るの実感、在り方を何度も体験、そして、理解することで、努力するマインドが自然に落ちていくような実践です。

ひとりひとりタイプ、今在るステージ等も違いますから、その実践の過程での個別の確認、アドバイス等もあれば、よりいいですね。
個人セッションでは、その点もフォローしています。


受講者
それを統合的に、とらえることが、起こってきました。

思考がたくさんあり、苦しみ、痛み、恐れなどに捉われ、どこに安住の地が、平安が幸せがあるのであろうかと思うことは、日々人の常かも知れません。

外的な満足、繰り返しの毎日、戦いに勝利することもまた飽きることになって、掴むことでは満たされなくなると人は、内へと方向転換をすることがあります。

今度は、内なる天国を、同じ手段で望むようになるものです。

瞑想をしたり、覚者の意見を聞いたり、そのようなステップを踏む中で、場合によっては自我をはぐくむ方向へ、あるいは自我が薄まる方向に行くかもしれません。



そうですね。
両方の可能性があります。
実際、自我がより強まっているケースもかなりあるように思います。

(それはどうしても、それぞれの方のタイプや今在るステージ等もありますので、仕方ない部分もあります。
それを可能な限り、適切にサポートするとすれば、やはり個別の定期的継続的なセッション等の形になってくると思います。
また、それは個別のセッションの形でも、深い部分では全体へ影響があります。
一人の人が本当に深く在ること、自然で在ること、深い理解で自然に存在していることは、全体に対してとても大きな影響があります。
それは、個人セッションを受けていない方々の気づき、成熟等にも大きく貢献しています。)

そして、それがあまりに大きくなると、どこかでそれに気づかれるということも起こります。
そのほかにも、かっこの中にも書きましたが、全体からの影響等もありますね。


受講者
いずれにせよ、まずは、あるが対象としてあることに確立することを目指すことになるのです。



今在る位置(個人・マインド)からスタートしなければなりませんから、そうなりますね。

ですが、いずれその対象との距離は、ゼロであったということに気づきます。

個人・マインドの核には、常に在るがあります。

(離れて感じられることもありますが。)

目指している者が、目指しているもの(対象)、それそのものであったと気づきます。

無空庵でセッションを受けられている皆さんの感想等を読んで頂いていると、実践が進むにつれ、在るがより自然なものとなっていることが分かると思います。


受講者
そして、その対象にとどまることを、目指しすぎてしまうということで行き過ぎ、やりすぎということに気づきました。



まず実践してみて、そして、実感、体感としてそれが行きすぎ、やりすぎなのかが気づかれます。
そのような中で、自然な在り方は、徐々に“身に付いていく”ということになります。


受講者
一方で、その手前では、現れを超えた、あるいは支える、その源の安定感、至福、平安を感じることが起こってきました。



行き過ぎる手前では、それが実感できているということですね。


受講者
この源がベースになることが結晶化して初めて、その視点から現れを現れとして楽しむ、受容する、落ち着いていられるが出てくるものと思われます。



そのとおりです。


受講者
ですので、無空さまが書かれているように、

(海と波の例を出してみごとに説明されていました)。

波だけがあると、一喜一憂、翻弄、動揺が激しい世界で生きている。
海を知りましょう、海にいること、あることが体感され、理解されて、初めて波を楽しむこと、波とともに充実してあれること、波があってもなくても大丈夫であることなどの理解、生活につながっていくというようなことを話されていることが、深く理解されました。

これは、この文章の中でも比喩でたとえられそうです。
黒文字ばかりに目を奪われないで!!!
あるは、この白紙、この真に存在しているのです、と。
そしてまずそのことを理解、体感するのです。
そうこうしていると、黒文字の下にも同時に白紙も存在していることに気づくのです。



白紙の方が大きく、すべてを包含しています。
ラマナ・マハルシも、文字と白紙の例えを使っていましたね。
とてもよい例えだと思います。


受講者
さて、あることの努力、あることの訓練は、はたしてアジャシャンティがいうことであっているでしょうか?
答えは、イエスです。そして、それを包含していく理解、乗り越えていく理解があるというのもまたイエスでしょう。

また、あるの訓練は必要でしょうか?
答えはイエスです。そして、それをもまた包含していく理解、乗り越えていく理解があるというのもまたイエスでしょう。

この地点に立った時に、努力と無努力、意味と無意味、意識と無意識、そのような区分が溶けてなくなっていくのを感じました。



素晴らしいですね。
それが、マインドを超えたところ、ただただリアリティである在るです。


受講者
また、最後に、無空さまに与えてもらった、視点を全体から、個人から、個人も各人それぞれもてる視点ということに関しても、またこの視点をもつことも、一つの視点にすぎず、無空さまにお返しできることにも気づきました。



マインドを超えたところにただ在れば、まさにそのとおりです。
マインドの領域に触れたとき、無限の視点が持てる可能性が現れると理解されるとよろしいかもしれませんね。


受講者
一元性からは、個人の意見も正解です。
間違っていてもあっています。
それを治してあげたいと思うことも正解で、治さないでとどまって自然の理解が進んでくれればと願っていることも正解です。
沈黙でとどまることも正解で、自分の意見で教え諭すがでているのも正解です。
源も正解で、現れも正解、源を求めることも、現れにとらわれていることも、どこにあっても正解であるといえます。



そうですね。


受講者
これは、何をいっているのでしょうか?

はい、まったく何も言っていないということになります。
もしすべてが正解であるなら、正解という言葉は誤解や間違いという相対で成り立っているのですから、全く何にも言っていないのです。



何も起こっていない、すべてはただ起こっている、とブログで書いていることと同じですね。
また、一元性からの正解は、相対的正解ではなく、絶対的正解、対極のない正解、すべてを包括する正解とも言えますね。
それは、愛とも言われます。


受講者
視点を個別で持つこともあり、全体でもつこともありということは、究極的には、まったく何にも言っていないのです。
意味を超えていきます。
これは、これまでの理解のステップでさえ、さようならといえることでもあるのです。



真我から出てくる言葉は、ある意味、方便であり、その背後にある真実の力、トータル性が、理解が進んできた方を彼方へと運んでいきます。
意味を超え、ステップではなく、超越的なジャンプが起こります。


受講者
もう、ここで完結ですとも言えません。



無限ですから。
そして、そこは始まりがあり、終わりがあるところを超えていますから。
永遠とも言いますね。


受講者
意味として終わらないことのほうが、シンプルです。
終わること、終わらないことにも関与している一方で、関与していないのです。



よく理解されていますね。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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