それ(真我・在る・愛・全体)は、それ自身から起こるすべてを許している

受講者
今週のご報告で、無空さんと出会う前から思っていたことなどお話させていただきました。



子供の頃から、自分(真実・真の自己)を出すと嫌われてしまうという思いや、真実と現われの世界とのギャップにモヤモヤしたり、苦しんでいた部分などがずっとあったとのことでしたね。


受講者
長いお話を聞いてくださりありがとうございました。
無空さんにどうお話したらと、セッション前に思っていました位なので、お話の詳細は上手く書けません。
掻い摘んでしまいますが、お話のやりとりの中で、


シンプルであること



お話をお伺いしていて、マインドがぐるぐるしていた感じだったのと、

(クリアになってくると、マインドの動きなども含め、自然に以前よりも多くのものに気づいたり、多くのものが見えるようになってきます。
そのこと自体はよいのですが、まだ、マインドの成熟過程にある場合、その気づきのひとつひとつにマインドが反応(価値判断など)してしまい、混乱してしまうことがあります。
ですが、それもまたひとつのプロセスと言え、そのような混乱等を通して、マインドが成熟(成熟が加速)していきます。
夜明け前が一番暗いと言われますが、大きなマインドが落ちるとき、大きなシフトが起こる直前などには、かなり強いマインドの浮上や混乱が起こることがあります。)

ずっと抱えてきたモヤモヤを解消するための何か特別なもの(他の方の体験談を読まれるなどして、何か私からの具体的な指摘等)を“期待していた”ような感じがあったので、基本をお伝えしました。

(助けてほしいというマインドの自然な動きでもありますが、それに対し、一時的にバランスをとるために、何かお伝えすることが必要な場合もありますが、必ずしも、マインドが何か欲しがっているときに、マインドが欲しがっているものを差し出すことが真の助け、根本的な解決になるとは限りません。)

真我の態度はシンプルです。
どこに行っても、どんな状況でもすべてに通用する基本であり、普遍的な態度をしっかり身につけていきましょう。

それは、

ただ在ること。(本当の自分で在ること。愛そのもので在ること。)

起こってきたことに関しては、(執着せず)ただ気づいていること。

(気づいていることは真の愛です。必要であれば、そこから必要な言葉や行動が自然に起こります。言葉や行動が必要ないことが必要な時は(沈黙・無為が必要な時は)、そうなります。)

複雑になってきたと思ったら、そこ(シンプルで全体である愛)から(焦点・立ち位置が)離れていると気づいてください。


受講者
気づいていて、なおかつ気にしないこと



上にも書きましたが、
気づいていることは、基本です。
それは愛です。
ただ気づいていることで、必要なものは活性化、実現され、そうでないものは解消され、愛に帰っていき、また、アンバランス・不調和等は正されていきます。
そして、気づいたものに執着しないということも大切です。

(執着したり、その都度ひっかかるのはマインドです。)

あるもの、起こってきたものにただ気づいて、それで完結です。
そうしたら、気づきの焦点を外側の対象から気づきそのもの(気づきの主体である自分自身)へと戻しましょう。
(進んでくれば、自発的に戻るようになってきます。)
ただ在れば、必要なときには、必要なだけ、その時起こっている対象に焦点が当たるということが自然に起こりますので、何でもかんでも、焦点を当て続けるということを習慣化したり、公式化する必要はありません。

在ること以外の「する」の領域で何かを公式化し、それに一生懸命になりすぎると、「する」が強化され、「する」から「在る」へのシフト、「在る」に確立するためのプロセスが阻害されたり、滞ってしまう可能性があります。

また、「する」の領域の公式化は、今という未知の領域からの無限の可能性の自由な発露を制限してしまう可能性もあります。
さらに、その瞬間、瞬間の現われに対し、真の自然体からの即座の柔軟で適切な対応ができなくなってしまいますし、その現われをあるがままに楽しみ、味わうということも不十分になってしまう可能性があります。

今という未知の場における無限の可能性の出現への適切な対応、そして、現われて来たものをあるがまま自由に、無邪気に、素直に楽しみ、味わうには、制限なくクリアに開かれていること、そして、真の自然体が持つ無限の柔軟性、無限の柔らかさが必要です。

そのためには、無制限に開かれ、どこまでもクリアで、無限の柔軟性をもつ空(真我・愛)として、ただ在ることです。


受講者
受容



マインドが入ると純粋なものではなくなるということも気にされていましたね。
「真我が主体であること」の記事にはそのポイントを書きましたが、同時に、今現在の在るがままの状態で、どうしてもマインドが入ってしまう場合があったとしても、それはそれが今の在るがままであり、マインドが混ざって純粋なものではなくなることも、真我はすべて許しています。(それをまたマインドで利用するのはよろしくありませんが。)

気づいていながら今の在るがままのご自身を受容し、今の在るがままのご自身を体験すること、そして、その在り方を続けていくことで、より純粋な存在へとシフトしていきます。

さらには、下に書かれてあるように、誰もいない、それ(愛)だけが在るという視点に立てば、一見マインド混じりのようでも、それは大きな愛であることも分ります。

(真我とマインドを必要に応じて識別する知的な愛と、マインドもまた愛の現われであり、愛そのものである、すべてをひとつであるそれ自身としてみる愛の両方の視点を持たれているといいですね。)

また、その視点に立つことで、起こっていることの質的な変容も起こります。
愛の立ち位置に立てば、そこから起こることはすべて純粋な愛になり、今起こっていることも純粋な愛へと変容していきます。

今現在の在るがままを受容しつつ、真の自己は、愛そのものであるという自己理解をただただ進め、深めていくという在り方がいいですね。


受講者
それから、私が相手の方にお話しするときに傷つかないか心配することへのアドバイスで、「気づいている状態で、傷つくことさえも気にしないこと」
(ここは的確な表現でなければお許しください)



ここは、今回のあなたの話の流れから出てきた内容になります。
気づいていたとしても、どれだけ深く、どれだけトータルに気づきそのもの(愛そのもの)で在ることができるかは人それぞれですし、また、それぞれの方が持っているパターンなどもあります。
どんなときでも愛であり、そこからくる配慮、思いやりは当然必要です。

真実を話すなら、これも状況にもよりますが、基本的には、できるだけやさしく、やわらかく、甘い真実、あたたかい真実を話すのがいいですね。
必要なときには、それが相手の方にとっては厳しい言葉や表現になる場合もあるかもしれません。
でもそれも愛を持って、ハートから伝えましょう。

愛から愛、ハートからハートへの言葉は、たとえその場では快く受け取られなかったとしても、必ず届きます。

なぜなら、愛はひとつであり、ハートはひとつだからです。
それは相手の方が外側を閉ざしていたとしても、内側から届きます。

さらに言えば、ハートから言葉を放ったときすでにそれは完結しています。
なぜなら、自分(真我)がすべてだからです。
それが現われの領域の相手の方に届き、気づきが起こるまでには、それぞれのプロセスがあるというだけです。
その場で気づくかもしれませんし、数年後、数十年後、あるいは、何度かの転生の後に気づくかもしれません。
でも、それはまったく問題ではありません。

あなた自身がどう在ったか、愛で在ったか、それだけが問題です。

そしてもし、その瞬間、純粋に愛で在ることができなかったとしても、次の瞬間、愛で在れば、過去のすべてを愛の中に溶かしていくことができます。


愛はすべてであり、過去、現在、未来、すべての時を超え、すべてを変容させていくことができます。
過去を後悔したり、過去にひっかかっている必要はありません。
常に、今、今、今
今、どう在るか、それだけが大切です。

その在り方が、一瞬、一瞬、全体、すべての時空、すべての存在へ、気づき、そして、愛を放射していることになります。
そしてそれが、全体である自分自身(真の自己・大いなる自己・愛)への最大の贈り物となっています。


より愛が深く、広くなれば、より的確なタイミングで、的確な言葉が起こってくるようになるでしょうけれど、今は、今在ることができる在るがままの愛で在ればそれで充分です。

丁寧に、やさしく、その在り方を貫き、在るがままの愛で在り続けていくことで、愛の純度はより高まり、その愛はより深く、より広いものとなっていくでしょう。


今在ることができる在るがままの愛で在り続けることができれば、全体としては常に完全で、常に完璧です。
何ひとつ不足はありません。

すべての存在は、そのようにして全体を支え、そしてまた、全体である愛は、そのようにしてすべての存在を常に全体として完璧、完全であるようサポートしています。

全体と部分(本当は全体そのもの)、源と現われ(本当は源そのもの)はそのように互いをサポートし合っています。

それがただひとつの愛の中で起こっています。

愛(真我)は、全体であると同時に部分でもあり、源でもあると同時に現われでもあります。
愛(真我)は、無限の立ち位置、無限の視点を持っています。
そしてまた愛(真我)は、その立ち位置、視点を自由自在に変えることもできます。

全体は部分となり、部分は全体となります。
源は現われとなり、現われは源となります。
与える者は受け取る者となり、受け取る者は与える者となります。

ただひとつである愛(真我)は、そのようにしてそれ自身の中で相互作用し、無限に反響し、無限に共鳴を繰り返すことで、どこまでも深まり、どこまでも広がっていきます。

それがただひとつである愛の自分自身に対する愛であり、そのすべてが“ただ在る”という中に凝縮されています。


受講者
ここでの気づきが再認識となりました。
微細に私がありました。限りを作っていました。
現われも全て許されているという理解・実感が起こりました。



今回は、必要なタイミングで伝えられたこの指摘(現われも全て許されている)がとても響いたようでしたね。


受講者
セッション後気づいたのですが、そこには誰もいなくて現われが起こるだけでした。
やはり「自然に在る」ですね。



そうですね。
全体(愛)の絶対安心、絶対安全の中で、必要なことがただ起こっているだけです。
全体そのものは、それらすべてを体験し、かつ、何が起こっても全体は全体のまま変わることはありません。

ですから、全体の視点と共に、個の視点も楽しみながら、それには執着せず、全体(愛)そのものとして在るのがいいですね。


受講者
長い長い間、横に置いていたものがクリヤーになり、理解が起こったようです。
ただ在るが本来の自己ですね。



そうですね。
それ(真我・在る・愛・全体)は、それ自身から起こるすべてを許しています。
そして、真に存在するのは、それ(真我・在る・愛・全体)だけであるという深い理解が起これば、問題ははじめから存在すらしていなかった、夢・幻想だったと分ります。
すべての問題が一瞬にしてクリアになります。

子供の頃からずっと抱えていたものだったということでしたから、クリアになって本当によかったですね。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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