今、そのままで真我(愛・全体)。なぜなら、本当はそれ以外何も存在していないから

受講者
水曜日のセッション後、リアル共鳴の影響もあるのか、かなり深いところからの、大きいものが上がってきていたようで、今日の午前中までけっこうマインドに囚われたままでいました。



それでも、何が起こっているのかの理解があるからいいですね。


受講者
在るに意識をむけてはいましたが、とても弱い感じがしていました。
それで、セッションの録音を聞き直していましたら、前半のお話しでの無空さんの笑い声が穏やかで、清らかで、とても明るく幸せな気持ちになりました。
もう一度いっしょに共鳴をしていきました。

すると、無空さんのいわれる「これは真我の真我による真我のためのセッションです」という言葉がとつぜん、うかんできました。
そうだった、すべては真我が真我自身を再認識、再発見するために起こってきてることだったのだと、全体の視点に戻ることができました。
身体を風が吹き抜けていくような感じがしました。



個人の視点から全体の視点にシフトすると、今あるもの、起こっていることの感じ方が一変しますね。

マインドに囚われているのは誰か?

しっかり注意を向けると、本当は誰もいないことが分るでしょう。

そして、起こっていたのは、自我を主人公にした、「私」はマインドに囚われているという物語だけだったと分ります。

ただ夢を見ていただけだと分ります。

本当は何も起こっていなかったと分ります。

自我は注意を向けると消えていきます。
それは、光を当てると消えてしまう影のようなものですね。

そして残るのは、実在(本質・光・真我・空・気づいている意識・愛)です。

また、光(真我)と影(自我)という視点からは、自我(真我の影・投影)は、状況、必要に応じて自然に起こってくるものという理解もできますね。
それは、ある角度で何か(関係性や状況等)に光(焦点)が当たると、光がさえぎられた所に必然的に生じてくる影のようなもの、実体はないけれど、状況に応じて自然発生してくるものと見ることもできます。

そして、実体のないもの(影・自我)に対して、一生懸命なんとかしようとする必要はありません。

ただ、本当の自分は影(自我・個人)ではないことを知ること。
そして、光そのもの(気づいている意識・覚醒意識・全体)であったことを思い出し、それそのものとして在ればいいだけですね。

状況に応じて、個人感覚は自動的に起こってきますが、真実の理解があれば何の問題もありません。
光(意識・焦点)が当たらない所・さえぎられた所・行き届かない所に影はできますが、本当の自分である光自体が、影に影響を受けることは一切ありません。

さらには、真実の理解があれば、個人をも軽やかに楽しむこともできますし、また、個人がまったくない(起こってきていない)完全な自由、絶対的な開放感等も、そのものとして味わうこともできますし、その両方を同時に楽しむことさえ可能です。

真我には無限の側面がありますので、ある意味、深化・拡大の方向も無限です。
トータルに深まり、広がりながらも、多様性を通して真我は無限方向へ無限に深まり、無限に広がっていきます。
絶対性・全体性・一元性の深まりと広がり、透明な個と全体の共存性の深まりと広がり、愛、喜び、自由、平和等、無限の質の無限の深まりと広がりがあります。

真我にとってすら未知であるその広大無辺の領域は、マインドでは想像することすら不可能です。
それは、ひとりひとりがそれそのもので在ることにより、ひとりひとりを通して知られていくものです。


受講者
そしてとても気持ちが悪かった感情や思考を、受け入れられると感じました。
清らかなもの、美しいものを受け入れるのはうれしく楽しいけれど、気持ちが悪いもの、受け入れがたいと思っていたものを受け入れるのもまた大きな喜びなのだと知りました。
そう思うと、気持ち悪さや違和感もありがたく、恩寵のように感じられました。



ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」より

【状況がいかなるものであれ、それを受け入れることが可能ならば、それは心地よく、受け入れがたければ、
苦しいのだ。】

【質問者 苦痛は受け入れがたいものです。

マハラジ どうしてかね?試したことがあるのかね?試してみなさい。
そうすれば苦痛には快楽が生み出すことのできない喜びがあることを見いだすだろう。
なぜなら、苦痛の受容には快楽よりもはるかに深いところへあなたを導くという純然たる理由があるからだ。
個人の自我はその本性からして絶えず快楽を求め、苦痛を避けている。
このパターンの終焉が自我の終焉なのだ。
自我と、その欲望と恐れの終焉は、幸福と平和の源であるあなたの真の本性に帰りつくことを可能にする。】


受講者
そのあと自転車で走っていましたら、無空さんがサイトやスカイプで使われている画像とそっくりな太陽が真正面に見えて、うれしくて一所懸命そっちにむかってペダルをこぎました。
交差点で、目の前をいきなり横切った自転車があり、恐怖と、恐怖からくる反応としての怒りが起こりました。
その後瞬時にそれを受け入れていました。
そして受け入れられたことがとてもうれしく感じました。



快楽を求め、苦痛を避けているという自我の本性・パターンを、ここでも超えて在ることができたということですね。

すべてを受容している在るそのもの、全体そのもの、愛そのものとして在ることができたということですね。

苦しみは、自我のパターンにはまっているというサインでもあり、その苦しみは、それを超えていくよう促している、真の自己(全体・愛・在る・真我)に気づき、それで在るように教えてくれているとも言えますね。

なぜ、苦しみはあるのか?

なぜ、病はあるのか?

なぜ、生まれてきたのか?

色々(マインドからの)質問を受けることがありますが、
そのときには、それなりにいくつかの視点からの補足説明のようなものも加えることはありますが、
いつも言っていることは、

「超えていきましょう」。

ということです。

真我の本性から起こってきているもの、
特定の理由、原因、意図なく起こってきていることに対して、なぜ?という質問は不適切です。

両者がかみ合うことは永遠にありません。

ですから、

「超えていきましょう」。

というのです。

ただそうである。という問答無用の領域へとシフトすることこそが、マインドからの質問、疑問に対する根本的な解決策になります。

真我(在る・愛・全体)の領域では、疑問は起こりません。

そこには、ただひとつのそれ(真我・在る・愛・全体)だけがあり、在るということだけが絶対的な真実として存在しています。

そのことに対して疑問の余地はありません。

真我(在る・愛・全体)が自らを疑うということはありません。

これでいいのか?

は、マインド(自我)です。

真我(在る・愛・全体)は、いつでも

これでいい。

です。


受講者
こうして、際限なく、許し、受容していく。それが学びのプロセス(マインド的な表現ですが)でもあり、真我の喜びでもあるのだと思いました。



そのとおりです。
マハラジが言っていることをそのまま体験を通して理解されましたね。


受講者
それをこうしてご報告できること、そこに在ってくださることを途方もなくありがたく思います。



それ(在る・真我)は喜びそのものであり、それについて話すことさえ喜びである。というようなことをマハラジも言っていますね。

喜んでいること、そして、ありがたく感じていることも、あなたとして現われている真我(愛・全体)がそのように感じているのです。

あなたは真我(愛・全体)そのもの、あなたはあなたのまま、そのまま真我(愛・全体)です。

今、真我(愛・全体)です。

今、そのままで真我(愛・全体)です。

1ミリも変えたり、動いたりする必要はありません。

理解がトータルなものとなれば、焦点をシフトさせる必要などまったくありません。

なぜなら、本当はそれ以外何も存在していないからです。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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