真我のそれ自身を正し、回復させる力、自然治癒力

受講者
「物事には、それが収束し、回復する運命がある」 という事実を直知しました。



思考、感情も含め、起こってくることにはそれ自体の運命がある、と私が時々書いていることも同じです。(消えていく思考、感情で言えば、空に回復すると見ることもできますね。)

覚者も、世界のことは、世界を創った神に任せておけばいい、世界の面倒を見るのは神の役目(仕事)だというようなことを言ってます。

昨年、私は被災地の真っただ中に在り、その力(愛)が働くということを絶対的に知っているという状態でただ在りました。(必要な活動は、そこから自然に起こりました。)

どんなに大変な状況でも、どんなに時間がかかったとしても、その大いなる力(愛)が様々な存在を通して働き、その事態、状況を収束させていき、そして、また、そこから、復興、回復、再生、新たな誕生が起こってきます。

それは自然の摂理であり、存在の自然な営みです。

また、昨年5月に発行されたスターピープル37号の中で、被災地に在った私が、質問に対して答えた中にも、関係する内容が含まれています。

参考までに、その部分を、字数制限等で編集になる前のものから抜粋してあげておきましょう。(質問の方の表現も多少違っています。)

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━無空さんも被災されたこのたびの大震災について、
言いたいこと(被災者に対して、また日本・世界の人に向けて)がありましたらお願いします。

まず大前提として、真我の視点からは何も起こっていません。
あるいは、全ては自然現象としてただ起こっているだけで、そこに意味をつけるのは、それぞれの立場のマインドであるということが言えます。
真我はあらゆる現れの源、存在の本質、形のない空であり、生死を超え、時間のなかで変化するものではありません。

そして、そこからのメッセージは、大地震の時も、晴れの日も、雨の日も、また、被災した方々へも、被災した方々から見て災いをもたらした側へも、また、災害とは直接関係なかった方々へも変わりません。

その変わらない唯一のメッセージとは“愛”です。

それは、あらゆる時空を超え、全ての存在に対する真我からの唯一普遍のメッセージ。
沈黙のメッセージです。

真我の態度・在り方は、どんな状況であろうとも変わることはありません。
それが、真我の普遍的な在り方であり、森羅万象・万物に対する愛です。
それが、全てを支え、全てを育み、全てを包んでいる存在の愛です。
そこから全ては生まれ、そこに全ては還っていきます。

そのようなことを踏まえ、基本的にお伝えしていることは、状況にかかわらず、常に自分自身がどう在るか、どういう意識であるかが大事であるということです。

自然現象として、起こることは起こります(人の言動も含め。)。
大事なのは、何が起こったか、どのような状況にあるかということよりも、その中で、自分自身がどう在るかということです。

その点で、今回は震災をきっかけに、一人一人の方が個を超え、今、日本、そして、世界がひとつになっているのを感じます。

真我の視点から見れば、多くの人を通して、今、全体(存在の愛)が働いています。
今、真我がそのように現れています。

本当の自分とは個人ではなく、全体(存在の愛)そのものです。

みんなのためにと、見返りを求めず無心で働くとき、個人(エゴ)は退き、そこに本当の自分が現れます。

覚えておいて頂きたいのは、その感覚です。

そして、理解して頂きたいのは、それが本当の自分であるということです。

それは、日常の中でも、何か大変なことが起きたとき、あるいは大切なことが起きたときなどに、よりはっきりと現れてきます。              

そこには、マインドを超えた本来の姿が在ります。

今回は、それが大規模なレベルで起こっています。

それはいつもあなたを見守り、必要な時には必ず現れてきます。

いま、それが、あなたである個人を通し、そして、多くの方を通して現れています。

それはそれぞれの方が持っているというものではなく、それぞれの方の本質として、すべての存在に浸透し、遍在しているただひとつの実在、全体そのもの、すべてのすべてです。

それが本当のあなたです。

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受講者
「大いなる、自然治癒力がどこにでも働いている」 ということです。



すべてがそれ(愛・自然)ですから、その力はすべてに行き渡っています。


受講者
それは、ミクロからマクロの世界まで、すべてを含んでいます。
いいかえれば、「自然の摂理」といえるかもしれません。

切り傷が自然に治るように、森の木を伐採しても、また森が誕生するように…

それは、自然界だけでなく、すべての物事にあてはまります。

この事実は天地がひっくり返るほど、衝撃的です。

私たちの意志や意図など、大海に浮かぶ一枚の葉のようなものです。



そうですね。
その力は大きく、そして、絶対的であり、かつ、とても寛容ですから、ある意味、人が中心から外れることも大きな愛で見守っています。
ですが、ある地点までくると、自動的に絶対的な力が働きだし、また中心へ戻そうという動きが、個人の思い、意志を超えて働き出します。
これは誰にも止めることができません。

以前の記事で、なぜ、病は起こるか?という質問に対してのコメントの中に、そのことを少し書いたところがあります。
今回頂いた感想とは、少し視点、角度が違いますが、関連していますので、その部分も、途中からですが、参考までに抜粋して、あげておきましょう。

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そして、この意識が自分自身に気づくという動き、ループを、不動の意識の中の「ゆらぎ」と見ることもできます。

(ここでようやく、今回の質問、なぜ、病は起こるのか?ということに関して、「ゆらぎ」という視点、側面から見ていきたいと思います。)

そして、その「ゆらぎ」が発生したことにより、上に書いたように、時空(宇宙・森羅万象)が生まれたと見ることができます。

本来の不動のものの中に、動が生まれたこと、「ゆらぎ」が生まれ、時空が生まれたことで、中心とそうでないところ、両極、対極、限界点、臨界点、許容量、許容範囲等の視点も生まれました。

今回は、この「ゆらぎ」という視点から、なぜ、病気は起こるのか?というところを見ていってみましょう。

(「ゆらぎ」という視点も無限にある視点の中のひとつでしかなく、そして、その「ゆらぎ」というひとつの視点から見ていくときにも、そこからまたさらに無限の視点があります。)

不動の中で起こった、自分自身に気づくという「ゆらぎ」(その他には、「ゆれ」、「波・波動」、「あそび」、「躍動」等とも見ることができます。)、それにより、上に書いたように、中心とそうでないところ、両極、対極、限界点、臨界点、許容量、許容範囲等の視点が生まれました。

中心という視点から見れば、そうでないところは、中心から外れている、ずれている、または、「ぶれ」ている(ゆらぎ自体を「ぶれ」と見ることもできますが。)と見ることができます。

宇宙が創造され、多様性が生まれ、森羅万象様々な存在が現われ、そして、その時空の中で、中心であること(真我・愛に即している、真我・愛に立脚していること。または、全体に即していること。全体に立脚していること。)も許されていますし、中心から外れることも許されています。

この中心から外れることは、「ゆらぎ」、創造が起こることにより、ある意味、必然、自然に生まれてくるものとも言えます。
空(真我・源)から起こってくる想念も、必ず実現されるものばかりではなく、ただ消えていく雑念等もありますね。
それは、火を起こせば、自然に煙が立つようなものだとも言えます。

そして、その雑念に巻き込まれ、自然な流れ(ループの中心)から外れたり、停滞してしまうこともあります。
また、その局所だけを見たら、現れのレベルでは失敗や間違いに見えるようなことも起こるわけです。

でも、変わらない真実は不滅であり、完璧です。
そして、それがそのまま現われていますので、全体として、そして、大きな流れとしては完璧であり、調和そのものです。

また、真実が見える人にとっては、一見間違いや失敗のように見える局所にも、全体が見え、それが完璧である、あるいは、ただそうであることが分ります。
そこにも、美があり、愛があることが分ります。
さらには、その一見失敗に見えるようなこと、間違いに見えるようなこと(病等も含めて)も、やはり、愛(真我・気づき)の中にあり、それらの経験が気づきとなり、さらなる成長を強く促し、存在により深みと広がりを与えます。

ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」より。

「苦しみは探求への呼びかけだ。」

「苦しみは根本的に、注意を求める呼びかけだ。
それ自体が愛の動きなのだ。
幸福よりも、愛は意識の広がりと深まりにおける成長を求める。
何であれ成長を妨げるものは苦痛の原因となる。」

ある意味、「ぶれ」の両側が両極とも言えます。
中心(あるいは、両極を含む全体)から、ぶれていくと(全体からぶれるというのは、部分にだけ焦点が当たっている、固執している、こだわっているときなど)、不快感や、痛み、苦しさが増してきたりします。

(敏感な人は早く気づきます。鈍くなっている人、麻痺している人、あるいは気づいていても、集合的な影響、状況、環境などにより、中心からずれていくのを止められない人などは極までいき、場合によっては、大きな出来事や病気などが起こるかもしれません。)

それ(不快感や、痛み、苦しさ)は、愛が、中心、あるいは、全体から外れている(局所的になっている)ということを知らせてくれる合図とも言えます。
また、ぶれが極、限界点までくると、強制的に大きな愛の力、中心に戻す力、自然の回復する力、自然治癒力が働き出し、時にそれが、様々な出来事、現象、そして、病という形として現われることで、ぶれや行き過ぎが解消、回復させられることがあるという見方ができます。

繰り返しますが、中心からの、または、全体からのずれが、極、限界点まで達すると、強制的に、問答無用で、大きな愛の力、全体の力が働き、中心へと押し戻されます。
それはまさに、現われをも含めた全体である真我(空・純粋意識・愛)のそれ自身を正し、回復させる力、自然治癒力とも言えます。

それが強制的に働き出すことで、それまで中心、あるいは全体から外れていた歪みが正されます。
その過程で、東洋医学(漢方)で言えば好転反応、あるいは浄化という視点で見ることもできると思いますが、様々な出来事、現象、時に病という形で現われることがあると見ることができます。

食事、睡眠(休息)、日中の活動など様々な点から体のバランスを崩すような生活、あるいは、心の持ち方、意識の在り方、さらには集合的な影響もありますが、ぶれ、アンバランスが極限まで達した時、自然治癒力が発動し、それが病気という形となって現われることもあるということです。

(以前、整体関係の冊子で、病気は、体が、それまで潜在的にたまっていたアンバランス、不調和、あるいは疲労等を解消しようとして表に現わしている、浮上させている現象だということを読んだことがあります。
ただ、そのアンバランスの解消、消失というものが、必ずしも、人としての生命を維持した形でのものになるかどうかは、また別のようにも見える場合がありますね。
ここは、現われの視点だけでは納得のいかないところだと思います。
生死を超えた永遠不滅の視点からも見る必要が出てきますね。)

ですから、早い段階でぶれに気づけるよう、クリアになっていること、あるいは、できるだけぶれないように、中心にしっかり在れるようになっていること(中心そのものとして在れるようになっていること)、あるいは、両極も含めたすべてを包括し、すべてをあるがまま、おこるがままに、ただそうであると肯定できるようになっていること、全体的(愛)になっていることが望ましいと言えますね。


また、視点を本質に戻すと、このぶれも、本当は均質であるただひとつの愛の中で起こっていることであり、現象としては様々に見えるようなことであっても、本当はすべてが愛であることが分ります。
そして、そのすべてが愛であるという真実から見れば、その本質においては、本当は何も、誰も、まったくぶれていないということが分ります。


真実が見える人には、すべてが愛であることが分ります。

愛しか存在していないことが分ります。

そして、その視点、その理解が、現象に対して大きな力を発揮し、気づき、変容を促していきます。

真実を深く知り、真実の視点を持ちましょう。

真実そのものとして在りましょう。

愛そのものとして在りましょう。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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