真我実現のためには、焦点を思考、感情に当てるのではなく、真我へ。距離ゼロの自分自身へ

受講者
真我に立って自分にどんなマインドが起こってくるのかを眺める練習を始めました。
日々そんな感じで過ごそうと思いながら、練習中であることも忘れて、普通にマインドとしてやってしまうのですが。。



たまに確認の意味でトライしてみるのはよろしいと思いますが、セッションでおっしゃられていたように、まだすぐに巻き込まれてしまうと思います。
どんなマインドが起こってくるのかと、ある意味、現われを遊べるようになるのは、真我に確立してからです。
それまでは、より優先すべきことは、注意を起こってくるマインドや感情に向けるのではなく、真我・気づいている意識・在るに向けること、すべての現象が起こっていく源であり、あらゆる現象の体験者でもある自分自身(真我・意識・在る)に焦点を当てること、それそのもので在ることです。

(真我に確立していく過程で、よりクリアになっていくと、眺めよう、気づこうとしなくても、勝手に気づかれるようになってきます。)

自分自身がまだ真我にしっかり確立していない状態で、起こってくる思考や感情を見ようとばかりしていると
場合によっては、その見るということが強まり、マインドの強化につながってしまうことがあります。
セッションを受けられる前に、そのようなことを実践されていて、くせがついている方などもいらっしゃいます。

“見る”習慣がついている方や、ビジョン的によく見えるタイプの方は、自然に“見えてくる”、あるいは意識という鏡に“映る”分にはまったく問題ないですが、いつのまにか、それ(真我)で在ることより、“見る”方により意識が行っていたり、ビジョンを追うようになっていないか気をつける必要があります。
さらには、それを理解しようとしている微細なマインドが働いてきていないかどうか。にも注意した方がいいですね。
理解は起こるときに起こります。
それは、開かれる時に開かれます。

それは、ハプニングです。
思ってもいないようなときに、突然やってきます。

そういう意味で、真に思っていないこと、何ものにもとらわれず、まっさらで在ること、開かれていることなどが大事ですね。

参考までに。ラマナ・マハルシ

【真我の内に確立された人にとっては、一瞬でさえその没我状態から動いてはならないことが重要である。
真我の本性からそれると、彼は燦然と輝く光を見たり、霊妙な音を聞いたり、彼の内面、あるいは外面に現れる神々の幻想を実在だと見なしたりしてしまう。彼はけっしてこのようなことに惑わされて自己を見失ったりしてはならない。】

真我の本質であるその反映が見えたり、感じられたりするのは自然なことですが、それを追っていかないということが大切ですね。

以前、セッションを受けられていた方で、セッションをスタートされる前に内側を見るということをかなりストイックにされていた方がいらしゃいました。
セッションを受け始められ、どんどんクリアになり、真我の素晴らしい側面が次々と開かれていきました。
ただ、セッション中、やはり、その開かれてくるものを少し見に行っている(“感じよう”としている)ようなところがあったように思います。
日常でも、やはりマインドもよく見え、そして、意識的にも見ようとされて見ていることもありました。
かなり真我に確立されてきて、巻き込まれることもない状態でしたので、そのまま見守っていました。
その後、ご事情により、セッションを継続できなくなり、数ヶ月後、それまでになかったような大きな浄化が起こり、かなり深く長く巻きこまれていらっしゃったようです。(今は、バランスを取り戻されているようです。)

(相当クリアになり、真我にかなり確立してきている段階でも、人それぞれ、ノーマークのところ、無意識のうちに例外としているところ、見てみぬふりをしているところなどが残っているケースはよくあります。
そのようなものは、いずれなんらかの形で浮上してきます。・・・共鳴の場合は、気づかないうちに消えていく場合や、一人でその浄化を経過させるより、サポートがある分、負担が少なく解消できるというところはあります。)

その状況を知って思ったのは、真我にかなり確立されていても、思考、感情を見る(見に行く)習慣、あるいは、内側との対話、内なる声を聞くなどの習慣、原因を探す、分析するなどの習慣がそれなりに強く残っている方は、

(内側と言っても、源である真我からすれば、すでに現われたもの、対象として認識できるものは、思考であれ、感情であれ、ビジョンであれ、ある意味、すべて外側ということができます。
それは、大きな意味で言えば、それまでの(体の)外側の対象に注意を向けていたのとなんら変わりはないということになります。
時にインスピレーションが起こってくるようなことはありますし、原因が知られるということが自然に起こってくることはありますが、それを意識的に習慣にしていく必要はありません。
必要な時にはそれが自然に起こります。
それを習慣にしていると、マインド習慣から抜け出せず、時には逆にそれを強めてしまい、いつまでたっても二元性から解放されることはありません。
真我確立、真我実現へ向かいながら、マインドと対話しているということは、大きく見れば、ある意味、アクセルを踏みながら、同時にブレーキを踏んでいるようなものです。
指導者が適切で、かつ、定期的に丁寧にサポートできたりする場合は、場合によっては、かなり軽くなり、よいところまで進むこともあるかもしれませんが、ラマナ・マハルシの見解が「あるがままに」で、以下のように紹介されています。

【しばしば彼は伝統的瞑想法やヨーガが、瞑想する主体と瞑想の対象である客体の存在を必要とすること、そしてそのような主体ー客体の関係性が、「私」という想念を消し去るどころか力づけてしまうことを指摘した。
彼の見解では、そのような修練は心を効果的に静かにさせ、至福の体験さえもたらすかもしれないが、けっして真我の実現の成就をもたらすことはない。
なぜなら、「私」という想念は分離もされず、そのアイデンティティを奪われてもいないからである。】 

マインドと話す、内なる声を聞く、何か外側の対象を知覚するということもすべて、二元性です。
自然に起こっている二元性は問題ありませんが、一元性へと向かいたいときに、意識的にそれ(二元性)を強める必要はありません。
瞑想なども、どのような理解を持って行うかが大事ですね。
「私が瞑想をする」、「何か目的を持ってする」ではなく、瞑想はすでにそこにある、あるいは、ただ起こってくる。ただする、という感じがよろしいですね。)・・・長い括弧終わりです。括弧が長かったので、前の文章を再掲します。

その状況を知って思ったのは、真我にかなり確立されていても、思考、感情を見る(見に行く)習慣、あるいは、内側との対話、内なる声を聞くなどの習慣、原因を探す、分析するなどの習慣がそれなりに強く残っている方は、

通常の起こってくる思考、感情やビジョン等はまったく問題ありませんが、相当大きなものが起こってきたときには、思考、感情等を見る(見に行く)という習慣(くせ)があまりない方に比べ、やはり(場合によっては、深く長く)巻き込まれてしまう可能性が強くなるのかもしれないということでした。

意識や在るに焦点を当てていても、必要な思考や感情は、必要な分だけ気づかれますので大丈夫です。

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No title

のびのびさま

毎日、すばらしい学びを、ありがとうございます。
そして、質問させていただくたびに的確なコメントをいただき、
本当にありがとうございます。


今日の記事を読んで、ひとつ疑問に思ったことがあるので
質問させてください。


インナーチャイルド、ということが言われます。
少しニュアンスが違いますが、
ホオポノポのでは、ウニヒピリ、といった言い方もすると思います。

そのようなものと自分を分離してしまっていることから問題が起きており、
それを癒してあげる、それと仲良くなることを通して本当の自分を見出す
インナーチャイルドヒーリング、というようなことも聞いたことがあります。

今日のお話ですと、そのようなことすらも、真我実現への妨げになる、ということでしょうか?


愛への不足感がある場合、
トラウマ、と呼ばれるようなことがあったと思っている場合なども、

ただ在るにあることで、自然とそれが満たされる、浄化される。

インナーチャイルドだ、ウニヒピリだ、と焦点を当てていると、
かえって、
本質から遠ざかる、ということでしょうか?


うまく質問できているかわからないのですが。。。
そして、結局何度もおなじことを確認したくて、
質問させていただいているだけなのかもしれませんが。。。

コメントいただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。

Re: No title

koyukiさん

コメントありがとうございます。

> のびのびさま
>
> 毎日、すばらしい学びを、ありがとうございます。
> そして、質問させていただくたびに的確なコメントをいただき、
> 本当にありがとうございます。
>
>
> 今日の記事を読んで、ひとつ疑問に思ったことがあるので
> 質問させてください。
>
>
> インナーチャイルド、ということが言われます。
> 少しニュアンスが違いますが、
> ホオポノポのでは、ウニヒピリ、といった言い方もすると思います。
>
> そのようなものと自分を分離してしまっていることから問題が起きており、
> それを癒してあげる、それと仲良くなることを通して本当の自分を見出す
> インナーチャイルドヒーリング、というようなことも聞いたことがあります。
>
> 今日のお話ですと、そのようなことすらも、真我実現への妨げになる、ということでしょうか?

こちらのブログで学んでいることは、
すべてはひとつである。
存在するのは、真我(在る・愛)だけである。
ということです。

真我の視点からは、マインド(思考・感情)もただ起こっているだけで、誰のものでもありません。
マインドを自分のものとして所有しているのは、個人(自我・エゴ)です。

個人の視点で、マインドを何とかしようとして、マインドを取り扱うのであれば、そこには、浄化する者(個人)と浄化されるもの(マインド)という分離(二元性)があります。
真我(一元性)を実現するということは、二元性を超えていくということです。

それには、真我(在る)に意識を向ける、さらには、それそのもので在ることがもっとも直接的で効果的な実践です。

真我の視点からは、ひとつひとつのマインドに丁寧に取り組む必要はありません。
真我(在る・全体)であれば、全体にとって必要なことが起こります。
自然に気づかれるものは気づかれ、浄化されるものは浄化されます。
マインドの内容を分析することが必要であれば、それも自然に起こります。
自分を個人だと思い込んでいたときの記憶(幻想)に個人の視点で、ひとつひとつ取り組むのではなく、真実(真我・在る・全体・愛)そのものとして在るだけです。
真実は幻想を消していきます。

インナーチャイルドやウニヒピリの癒しについては詳しくは分かりませんが、それが、個人が過去の記憶(マインド)を何とかしよう(浄化しよう)とするものではなく、愛の視点から許し、受け入れが自然と起こる(浄化が起こる)ようなものであれば、真我(在る)の立ち位置に立っているのと同じだと思います。

> 愛への不足感がある場合、
> トラウマ、と呼ばれるようなことがあったと思っている場合なども、
>
> ただ在るにあることで、自然とそれが満たされる、浄化される。

愛への不足感というのも幻想です。
すべては愛です。愛しか存在していません。

トラウマ、と呼ばれるようなことがあったと思っていることも、幻想です。
マインド物語です。

個人はいません。
個人はマインドが作った幻想です。
ただひとつの愛が在るだけです。

それを深く理解し、自分が真我(愛そのもの)で在ることを深く受け入れれば、いつも愛に満たされて在ることができます。

すべての問題は個人(マインド)が作り出しています。
個人(マインド)を超えれば、問題は消滅します。
ただ在るということは、個人(マインド)を超えているということです。

必要なのは、在るに意識を向ける、さらには、在るそのもので在る、気づいたら在るに戻るという実践だけです。
様々な体験を重ねながら、徐々にマインドが浄化されていき、真実の理解が深まっていきます。

>
> インナーチャイルドだ、ウニヒピリだ、と焦点を当てていると、
> かえって、
> 本質から遠ざかる、ということでしょうか?

上に書いたとおりです。
真我(在る・本質)に確立するには、真我(在る・本質)に焦点を当てる、真我(在る・本質)そのものとして在ることがもっとも直接的です。

>
>
> うまく質問できているかわからないのですが。。。
> そして、結局何度もおなじことを確認したくて、
> 質問させていただいているだけなのかもしれませんが。。。
>
> コメントいただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。

何度も同じことを確認したくなるのはとてもよくわかります。
そうやって、マインドが納得することも大事ですね。

ただ在ること。
それがすべてです。



No title

のびのびさま

お返事ありがとうございます。
内側が揺さぶられるような感じがします。


個人はいない。個人はマインドが作った幻想。
ただひとつの愛が在るだけ。 。。


その深い理解がないために、

また自分が真我、愛そのもので在ると深く受け入れていないため、

愛に満たされていないという幻想を抱いているのですね。 。。


ただ在る。 これにも

これで、いいのだろうか、
在れているのだろうか?などとマインドが騒ぎ、

あぁまた全然できてないじゃないか、ずっと忘れていた、
とマインドが批判をし。。。


なかなか「成果」がない、と感じるのもまたマインド。


でもそういうときも、ただ気づいたら在るに戻る、
を実践する。

それをしているうちに、自然と、理解が深まっていく。

それまではひたすらもくもくと実践、

そしてきっとそれ以降ももくもくと実践。

それが、自然なことになっていく、ということかもしれない、
焦っても仕方ないと、

今は感じています。

。。。私の中に、何か、本当に大きな焦りがあるのですね。

焦って何かが早まるわけでもないのに。。。

そして、この焦りを感じながらも、

それをどうこうするのではなく、

ただ、在るを意識する。

そういう実践でいいということですね。


のびのびさま、
何度も確認をさせていただき、

真我のことばを聞かせていただき、

本当に
ありがとうございます。

Re: No title

koyukiさん

> のびのびさま
>
> お返事ありがとうございます。
> 内側が揺さぶられるような感じがします。

本当のkoyukiさんに響いているのですね。

>
>
> 個人はいない。個人はマインドが作った幻想。
> ただひとつの愛が在るだけ。 。。
>
>
> その深い理解がないために、
>
> また自分が真我、愛そのもので在ると深く受け入れていないため、
>
> 愛に満たされていないという幻想を抱いているのですね。 。。

その幻想を抱いているのは、幻想である個人(マインド)ですね。

>
>
> ただ在る。 これにも
>
> これで、いいのだろうか、
> 在れているのだろうか?などとマインドが騒ぎ、
>
> あぁまた全然できてないじゃないか、ずっと忘れていた、
> とマインドが批判をし。。。
>
>
> なかなか「成果」がない、と感じるのもまたマインド。

マインドの動きによく気づかれていますね。

>
>
> でもそういうときも、ただ気づいたら在るに戻る、
> を実践する。

そうです。

>
> それをしているうちに、自然と、理解が深まっていく。

そうです。

>
> それまではひたすらもくもくと実践、

そのとおりです。

>
> そしてきっとそれ以降ももくもくと実践。
>
> それが、自然なことになっていく、ということかもしれない、

そうですね。
在ることが徐々に自然なものとなってきます。
意識せずとも、深い理解の力が働くようになってきます。

> 焦っても仕方ないと、
>
> 今は感じています。
>
> 。。。私の中に、何か、本当に大きな焦りがあるのですね。
>
> 焦って何かが早まるわけでもないのに。。。
>
> そして、この焦りを感じながらも、
>
> それをどうこうするのではなく、
>
> ただ、在るを意識する。
>
> そういう実践でいいということですね。

そうです。
焦りが起こっていることに気づいていながら、焦りには注意を向けずに、在るに注意を戻す、在るそのもので在ることです。
起こっていること(幻想)は気にせずに、真実そのもので在るということです。

焦りに注意を向けると、それ(焦り)にパワーを与えてしまいます。
焦りは放っておいて、ただ在ることで、焦りは徐々に落ちていきます。

ただ在ることで、本当の自分は、在る(真我・愛・真実)であるということが、徐々に実感を伴って分かってきます。
本当の自分で在ることで、本当の自分が理解できるのですね。

>
>
> のびのびさま、
> 何度も確認をさせていただき、
>
> 真我のことばを聞かせていただき、
>
> 本当に
> ありがとうございます。

ありがとうございます。

プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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