真実

受講者
今朝はセッションありがとうございました。

今週もなかなかとキツイ一週間で、ちと愚痴を語ってしまいましたが(汗)
何というか、…理解ばっかり勝手に起こって行く、という…。

それにより落ち込んでクッタリして、ある意味で「浄化」ではありますが
どうもスッキリしないというか統合されていないと言いますか…。



統合は、基本(在るに戻ること、在るであること)と日常を丁寧に在ることを
重ねていくことで徐々に進んでいきます。


受講者
思考は浮かぶ、という事は誰しも経験している事なのですが
本当は、全ての思考が浮かんでいる、にもかかわらず、
それを「自分が」考えた・思った、と思い込んでいる、という事が起こっている。



ある意味、セットのようなものですね。


受講者
その理解から見れば、思考によって動いているこの「社会」というものそのものが
真我が「浮かばせた」思考によってできたもの、成り立つもので、つまり
全てが真我の表現で、だから全体性であり、全てが調和しているという

そんな理解が「ふと」、浮かんでしまうという…
それは「私」の努力でも理解でもなく

でもそれは、自分の作品のキャラが浮かぶときや、シナリオのネタが浮かぶときと同じで

つまりはずーーっと、そうだったしそうなのだな、と理解すると

「私」は何もしていないな…。と感じてクッタリしてしまうのです。



その「私」を超えていくと(含み超えていくと)、立ち位置のシフト、
あるいは、真我、真の自己の理解が進みます。

その前には、今回のようなグッタリ感や虚無感等が起こってくることがありますが、
さらに理解が進めば、「私」、自我も、真我に統合されていきます。


受講者
そしてふと気づくと、勝手に「見ること」「聞くこと」「感じること(触覚)」等が
常に自動的に起こっていて、それによって「思う」事も勝手に浮かんでくる。

すると「私」は一体どこにいるのだろう?となってしまう。



起こってくるもの。

在る・真我から起こってくるもの。

また、在る・真我(無・空・無限の可能性そのもの)として在り、そして、必要な時、あるいは、それが起こるのが自然なときには、
いつでも「私」として(あるいは、必要な姿かたちをとり)起こってこれるように常に待機しているもの、

とも言えるかもしれませんね。

在るは、今そのもの、満ち満ちた未知そのもの、(相対的なものではない)完全、完璧そのもの(不動絶対でありながら、進化、成長するそれ。

進化、成長しながら、ずっとそうであったそれ、はじめからそうであり、変わらずに在るそれ)、

準備万端そのもの。

そこからの自然な起こり(あるいは、それ自身の中での自然な起こり)、自然現象、

即座の反応、即座の対応(あるいは、それ自身における相互作用、ただひとつであるものの中での相互作用、循環、それ自身における無限の関係性)、

(全体における)その完璧さ、美しさ、

トータルな反応、トータルな対応、

自ら然りと、真に自発的なそれ、

その起こり(現象)は、ひとつとして(ひとつであるものとして)とても自然に起こっています。


受講者
ある意味で、漫画のキャラと一緒で
存在しない筈なのに、存在する、と感じる、思っている。
でもその凄さ、というか何というか



リアリティそのものが様々な姿かたちをとっていますから。


受講者
それが存在する、何かを成す自分が存在する、と思っている事、

本当はそれは幻想ではあるのだけれども
でもその幻想を体験出来ている、という素晴らしさ。



はい。


受講者
それは、私が作品を作る時に、キャラや作品世界に対して感じる
愛というか感動というか、と同じなのです、多分。



そうですね。

ただひとつであるもの(在る・愛・全体・真我・自らを自覚、認識、体験、理解できるそれ)だけがあります。

愛(在る・真我)が愛を体験できている。

愛が自分自身を体験し、愛が自分自身を認識し、愛が自分自身を知ることができる、

これは本当に凄いことであり、本当に素晴らしいことです。

普通、自然、当たり前でありながら奇跡とも言えることですね。


受講者
うーん、何だか訳の分からない文章になってしまいました(^^;

ただ、何だか分かりませんが今、浮かんできたのです。

でも。漫画のキャラ達もそうなのです。

キャラクターの立場になってみれば
キャラ自身が「自分が思った」と思うこと、感じることは、全て
作者がそのキャラに「思わせている」事であり、
物語全体にとって必要だからそうさせるのです。

その、作者によって与えられた「思考」によってキャラクターは
何かをしたり、何かを喋ったり、何かを作ったり、します。

そして時にそれは他人と協力して何かを成す事だったりします。
そうしてキャラクターが生きる「世界」、「社会」と、
そこで繰り広げられる「人生物語」が形成されているのです。

でも実際は別に「真我」に自己意志がある訳じゃ無いので(?)、
それは例えば風が吹いて雲が動くように、
自然の知性(?)で行われているのか何なのか…
…何だかよくわかりませんが



自然本性、また、書かれてあるように自然の知性と言ってもいいかもしれませんね。


受講者
キャラクター達は、「自分が自分の意志で頑張っているんだ!」と
それぞれの人生に情熱を燃やしたりします。
その生き様が、その喜怒哀楽が、その…生きる全てが、美しいんです。



はい。

それは本物、真実です。

けっして幻想ではありません。

それは、生命そのもの、美そのもの、真実そのもの、

真善美です。

在ること、存在すること、

あるいは、存在そのもの、そして、生命そのものが相対を含み超えた善であり、全。

ただひとつであるすべてです。

起こっては消えていくもの、変わっていくもの、現れを幻想である、本当は存在しないという視点がひとつありますが、

それもひとつの視点に過ぎません。(一つの真実の視点ではあります。本質から見た視点、本質から見た一つの真実。)

在るからの起こり(あるいは、在るの中での起こり)、自然現象は、

存在のゆらぎ、生命のゆらぎ、生命の躍動、いのちのほとばしり、いのちの爆発、存在のビッグバンとも言えるものです。

そして、同時に、在るのその在り方、その真実を打消し否定し排除することなく、

「本当は何も起こっていない」という真実、事実が在ります。


受講者
それがどのようであっても。
だから「思考は勝手に浮かんでる」なんて思わなくていいんです(^^;;;
それがわかってしまったら、ちょっと寂しくなるような気がするので。。。



個人(自我)の立ち位置、在る(真我)の立ち位置、それぞれの立ち位置により、それぞれ自然に感じられるものがあります。


受講者
私が共鳴の時に感じる寂寥感は、そこなのでしょう、多分…。



そうかもしれませんね。


受講者
ともかく自分が今までずっと当たり前にやってきた「作品作り」の構造が
上記のような理解に繋がるとは…

人それぞれ、自分がしている事を通して色んな観点から真我を「理解」していくのかなと。
それが、真我の無限の表現なのかなと。一つとして同じ理解がない、という…。

だからこその、自我、個性(キャラ設定)。

思考を通して、個々の「世界」が表現され、それが折り重なって
多層的、多面的、深みのある、味わい深い世界になる、みたいな…。



素晴らしい理解ですね。


受講者
とにかく、勝手に理解ばっかり浮かんで、
…そのお蔭で浄化も起きますし(というのは「私」の愚痴ですが。)

とりあえず私は私に浮かんだ思考の通りにしか生きれなく、
それこそが真我の表現であり望みなのだろうと思いますが

もっと真我を深く知りたいなぁ…と思います。



はい、それが真我の望みでもあります。

あなたは、現れた真我、そして、真我そのものでもあります。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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