真の自己に対する理解の深さ、その実現度合い等は、その現れた形だけでは分からない

受講者
セッションでもお話ししましたが、前回のセッションがあった日の夜、夫に対して、ものすごく激しくわがままが起こりました。

泣いたり、わめいたりしながら、わがままが起こり続けたのですが、特に激しく起こった瞬間があり、そのように起こったことに(自分でも)驚きながらも、その瞬間、よろこびのような感覚を感じました。

以前にもお話ししましたが、私は一人っ子なのですが、とても小さい頃に、ある人が母に言った「Kちゃんは一人っ子だから、わがままで過保護やろ。」という言葉を聞いて、「わがままであってはいけないんだ。」と、それ以来、その価値観を握って生きてきました。

それでも、結婚してからは、夫に対しては、ある程度、わがままを出せてはいましたが、今回は、本当に思いっきり、何ひとつ抑えることなく、わがままが出ていった、という感じでした。

そこには、純粋なわがままがただ在りました。

夫にしてみれば、大変な迷惑だったと思いますが、反省のような思いも何ひとつ起こりませんでした。



純粋な自然現象としてのそれでしたね。


受講者
翌朝は、(何かが解決したわけではなかったのですが、)何事もなかったかのように、いつも通りの朝がありました。

少し時間が経ってから、たくさんわがままを言わせてくれた夫に感謝の思いが起こりました。

あるがまま、起こるがまま、そのままであることのよろこびをまたより一層深く知ったような感じがします。



はい、素晴らしい体験でしたね。


受講者
存在の深い深い愛を感じます。



本当にそうですね。

存在は、様々な角度(あるいは、360度全方向、または、無限の角度、無限の視点、無限の立ち位置)から

ときに様々な要素、様々な側面を複合的に組み合わせ、様々な体験を通して、それ自身の素晴らしさを知っていきます。

また、今回の出来事(自然現象)は、真我が実現されると、現れた存在は皆聖人君子のようになる、

その言動、態度等もマインド的に見て、全てが素晴らしいものになる、完璧になる

というような認識を持たれている方にも参考になるのではないかと思います。

(現れる形も大事であるという側面もありますが、真の自己に対する理解の深さ、

その実現度合い等は、その現れた形だけでは分かりません。)

現れた形ではなく、その純度、そして、それを所有する者がいるかどうか等、

そのようなところの方がポイントですね。

(だからと言って、同じような自然現象が時と場所を選ばず、いつでもどこでも起こるのが自然かというとそうではありません。

成熟した存在から起こる純粋で無邪気な自然現象や反応は、適切なタイミング、適切な場所、許された時、許された環境、安全な環境の中で起こります。

そして、それは環境を純化することはありますが、その形跡を全く残しません。


━もともと在るものだけが残ります。━


それは、純粋に起こったそれ━現れ、形━は、もともと在るそれ━源、無、無形、空、愛、全体━と同じものだからです。


その他、真我が実現されたときの起こり方が現れた形だけでは分からないということに関して、

別の例、別の視点を挙げさせて頂きますと、

これまで何度か、「不完全の完全」、「不十分の十分」、「不適切の適切」等の表現で書かせて頂いたことがありますが、

真我の完全な実現は、現れにおいては、その時、その時点、その場において、そのときの環境においては、

不完全、不十分、不適切等として現れることがあります。

そのように現れることが適切であるときには、真我はそのような形で現れます。


━「何が幸いするか分からない」というような表現などもありますね。

また、それが全体の中で必要であれば、真我が実現された存在から「嫌われ役を買って出る」などということも起こるでしょう。━


それは、未熟、未成熟

━真我の完全な実現と現れの世界における技術的なもの、また、精神的なものでも経験の積み重ねにより養われていくもの等については、

イコールではないと理解されておくのがよいでしょう。━

、相対的な失敗、現れ的な不適切等としても現れることがあります。


━そのような視点からは、今現れているすべてがそうである、

それだけがあるもの、真我が、今もそのまま完全な姿で現れている、

これまでもずっとそうだった、

と言えますし、

実際にそうでありますが、

そこに真の理解があるかないかで、見え方、感じられ方、そして、そこから起こっていく質、純度等は全く違ってきます。

全く同じ現れでありながら、全体的な質等が全く違う、

そこにあるのは全く違った世界である、ということがあります。


※ただひとつであるものは、そのような在り方をしています。

それぞれの現れた存在の視点、立ち位置、理解等に応じて、無限の見え方、感じられ方が為されるような在り方をしています。

在る、真我、愛は、それほどに大きく、奥深く、また、やわらかく、そして、確かな確かさをもって実在している実在そのものです。


そして、そのような理解が深いレベルで全体に影響を与え、全体が徐々に徐々に変容、成熟していきます。━


また、現れたたくさんの存在がいる中で、その全体の中で、

真我を実現した存在は、その環境、その全体の中で、現れた形においてはその適切な配分の分だけ、

その分だけ働きます。

その分だけが世界に現れます。

現れにおいて多くのこと、大きなことを為すこと、為せることは、

本当に大きく、また素晴らしいエネルギー、パワー、愛があるからですが、それだけでは計れないものもあります。


━ただひとつであるもの、真の自己、真我、愛、全体についての深い理解がある存在においては、

目に見えないレベル、知覚されないレベルでの働き、そこからの全体への影響は甚大であり、計り知れないものがあります。

それは、全く知られないまま、全体を育んでいっています。

また、その深い理解は、全体を育むことの中にも含まれますが、

今全体としてはこうですよ、

というような現れも含めた今現在の全体の状況、在り方等を純粋に映し出す鏡の役割にも貢献しています。━


現れ的に必要分、適切分以上のことは為されない、

他の現れた存在の持ち分、可能性分まで侵さない、という在り方、現れ方、

それが、全体にとって適切、そして、その他現れた存在の成長、成熟、可能性の開花、必要な体験が与えられること、

その存在の素晴らしい真我の実現が十分に行われること等に必要であることがあります。


━現れにおいて必要分、全体における適切分以上を為すことが起こらないということは、

真の自己(全体、愛)に対する深い理解を持った存在のそれ自身の無限の可能性、

そして、その実現をセーブすることとは全く違います。

そのような存在においては、現れないレベルで常に多くのことが為されていますし、

また、その適切な現れ分も、全体の状況により無限に変化していきます。

必要であれば、それはどこまでも無限に現れていくでしょう。━


すべてを一人で為す潜在的な力がありながら


━物理的には不可能ですが、その潜在的なエネルギー、パワー、愛としてはそうであり、

また、これは現れたすべての存在に言えることであり、

また、在る、源の視点からは、全ての力を持つひとつの存在だけがあるということであり、

統合された視点からの表現で言えば、

全ての力を持つひとつであるものが現れたそれぞれの存在、

それぞれのようにも見え、それぞれのようにも感じられ、それぞれのようにも体験される存在には、

それぞれにすべての力がある、と言えます。━


自らを真に知るものは、自らの適切(ちょうどいい)を知っています。

毎瞬、毎瞬、無限に変化する自らの適切を知っています。

今を知っています。

今という未知(満ち、全体)を知っています。

そして、その適切さは、“ただ”であり、“自然”であり、“愛”です。)

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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