何ものでもないもの

受講者
自分が何であるかよくわからないといった感じです。
もちろん自分は気付きの意識であるのは、知識で理解しています。
時々、今ここで、こうして身体を動かしている実体は何?とか
こうやって思考を使って、声を出してしゃべっているのは私ではないの?とか
これもまた思考を使った変な疑問が湧いて来ます。

これも全部エゴの仕業だともわかるのですが。
何がなんだかわからなくなったというのが正直なところでしょうか。



はい、それはある意味、とても正しい感覚、認識であると言えます。
在るは、無限そのものでもあり、無限の顔、無限の側面を持っていると言えますが、
そのひとつに、「何ものでもないもの」という在り方があります。
(「未知そのもの」という在り方もあります。)
それは、定義不可能なものであり、特定の何ものでもありません。
それを限定、特定することは不可能です。
また、そのような点からも、それは、無として在り、同時に、すべてとして在る、
(すべてになれる、すべてそのものとしても在れる)ということが可能であるということが
お分かり頂けるかもしれません。

また、今回頂いた内容に関し、ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」から
関連するところを参考までにご紹介させて頂きます。

【私は光を見たり、声を聞いたり、神々に出会ったり、彼らと話をしたりという奇妙な体験を通り抜けてきた。
ひとたびグルが私に「あなたは至高の実在だ」と言ったとき以来、幻想や超越状態を体験することはなくなり、
とても静かに、そしてシンプルになった。
私は欲望をもつことや知ろうとすることがだんだんなくなっていき、最後にはまったくの驚きとともに、
「私は何も知らない。私は何も欲しくない」と言うまでに至ったのだ。】

【マインドが出来事をつくり出すのをやめたのだ。
遥かなる昔からの絶え間ない探求が終焉したのだ。
私は何も望まず、何も期待せず、何ひとつ私のものとして受けとらなかった。
そこに闘おうとする「私」は残っていなかった。
ただの「私は在る」さえも消え去ったのだ。
もうひとつ気づいたことは、すべての習慣的な確信を失ったということだ。
以前、私は多くのことに確信をもっていた。
今、私には何ひとつ確かなことはないのだ。
だが、知らないことで何かを失ったようには感じないのだ。
なぜなら、私のすべての知識が偽りだったからだ。
私が知らないということ自体、すべての知識が無知なるものだという事実の知識なのだ。
「私は知らない」だけが私にできる唯一の表明だ。】

【気づきがそれ自体に向かったとき、その感覚は「知らない」というものだ。
それが外側に向いたとき、知ることの可能なものが現われる。
「私は私自身を知っている」と言うことは言葉の上で矛盾がある。
なぜなら、「知られる」ことが「私自身」であることはできないからだ。】

【知られることは私、あるいは私のものではありえない、ということを知ること自体、充分な解放だ。
一式の記憶と習慣との自己同一化からの自由、存在の無限な広がりに対する驚愕、その無尽蔵の創造力と完全な超越、
意識のあらゆる状態が錯覚であり、一時的であることの認識から生まれた絶対的な恐れのなさ
━それらは深く、かぎりない源から湧き出るものだ。
源を源として、現れを現れとして知ること、自己を唯一の源として知ることが真我の実現なのだ。】

【実在のなかには、それ自体は暗いが、すべてを輝かす源があるだけだ。
知覚されないが、それは知覚をひき起こす原因であり、感じられないが、感覚をひき起こす原因だ。
非実在でありながら、それは存在に誕生を与える。
それは動きの不動なる背景なのだ。
ひとたびあなたがそこに在るなら、どこにいようと我が家のように感じるだろう。】


受講者
考えてもわからないので、考えなければよいのでしょうけれども。



そうですね。
それは考えて分かるものではありません。
でも、それで在ることは可能です。
ただ在りましょう。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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