無空庵の実践は、実践即実現

受講者
瞑想は一日何分、何回とかありますか?



一切ありません。

日常の中で、無理のない範囲で、気づいたら、在る、または、意識に戻ってください。

それに注意を向けてください。

可能であれば、それそのものとして在ってください。

そのことを自覚してください。

戻るのはほんの一瞬でもかまいません。

頑張って留まろうとしなくても結構です。

(頑張りすぎるとマインドが強くなることがあります。

また、自然に留まろうが起これば、そのままにしてください。)

お忙しいときは、1日1回でも、数回でもかまいません。

また、何十回、何百回戻ってもかまいません。

意識を向けても感じられないときは、それでもかまいません。

起こってくる思考、感情等が強く、なかなか戻れないときは、

無理をせず、ただそのままでいてください。

起こっている思考、感情に、ただ(判断等せず。もし判断が起こったのなら

それもそのままにして。そこにさらに判断を加えることなく。)気づいていてください。


受講者
瞑想は、具体的にどのように行えばよいですか?

今のところ、

自分の意識に意識する、

自分のハートに意識を集中する

をやってみてはいるのですが…何だか記憶がおぼろげになってきていて申し訳ありません。

もう一度詳しく教えてください。



意識を意識する、です。

ハートに関しては、意識・在る・真我=ハートとご理解ください。

ただ、身体的なハートの部分で、意識・在るが感じやすいということでしたら、

そこからスタートでもかまいません。

(「在る」に関しては、意識を意識することを実践しながら、また確認していきましょう。)

また、これまで様々な実践がされてこられてきて、習慣になっているかもしれませんので

補足させて頂きますと、

“ただ”意識を意識する。

“ただ”意識することが大切です。

自然な思いや期待、目標はあってもかまいませんが、

実践のときは、そこから離れ、それを忘れ、ただ実践することが大切です。

さらには、すでにそうである(本当の自分・真我・愛そのもの・幸せそのもの・平和そのものである)という感じで

実践されるのもよろしいですね。

なぜなら、真実はそうですから。

無空庵の実践は、実践即実現です。

1回1回、毎回毎回が完結していて、かつ、それらが積み重なっていき、より大きな変容、シフトを促していきます。

ただ一瞬一瞬の実現を、シンプルに何度も繰り返していくだけです。

その繰り返しにより、自己理解も深まり(本当の自分は在るである。愛そのもの、幸せそのもの、平和そのものである等の

理解。)、日常も、より穏やかなものとなっていくでしょう。

より自然で、よりシンプルで、より軽やかで、より楽なものとなっていくでしょう。

幸せであること、平和であることがより恒常的なものとなっていくでしょう。


受講者
ほかの瞑想などは、やる必要がなくなりますか?それとも他の事もやれば、さらに相乗効果がありますか?



どのような瞑想をされていらっしゃるか、すべてお伺いしたわけではありませんので、また次回確認しましょう。

ただ無理なくできるのであれば、できるだけ実践もシンプルであった方がいいですね。

(なかなかひとつのことだけをシンプルにできない場合は、いろいろやってみて、徐々にシンプルになっていく、

というプロセスもあります。)

様々な実践方法や瞑想等があると思いますが、在るに戻る、意識を意識することは、

もっとも直接的で、もっともトータルで、最も自然で無理のない真我(変わらない幸せ・平和・無限の愛)実現の方法です。

(ただ、現れ的に具体的なひとつの問題を解決するには、それに特化したより適切で具体的な方法というのはありますので、

何か現れ的に具体的な問題を解決したい場合は、現れレベルで考えたり、対処したりすることは大切ですし、必要です。)

参考までに、ラマナ・マハルシの本から、真我(意識・在る)に直接意識を向ける方法と、瞑想等に関して書かれてある箇所を

いくつか抜粋し、ご紹介させて頂きます。

(無空庵の実践を瞑想と呼んで頂いてもかまいませんが、それは、基本的には、真我を見つけるため、真我に辿りつくための瞑想法ではなく

真我に直接意識を向けるものであるということをご理解ください。)


【彼は伝統的瞑想法やヨーガが、瞑想する主体と瞑想の対象である客体の存在を必要とすること、

そしてそのような主体ー客体の関係性が「私」という想念を消し去るどころか力づけてしまうことを指摘した。

彼の見解では、そのような修練は心を効果的に静かにさせ、至福の体験さえもたらすかもしれないが、

けっして真我の実現の成就をもたらすことはない。

なぜなら、「私」という想念は分離もされず、そのアイデンティティは奪われてもいないからだ。】


【ヴィチャーラ(探求)においては対象がなく、主体だけがある。ヴィチャーラと瞑想が異なるのはこのためである。

ディヤーナは対象への集中である。それは思考を脇道にそらさず、ひとつの想念に固定させるという目的を果たす。

そのひとつの想念さえも真我の前には消え去らなければならない。

努力なしに、私は在るにとどまることがヴィチャーラであり、それが自然で自発的になったときが、真我の実現なのである。】

無空補足:ディヤーナというのが瞑想です(瞑想にも様々あると思います。ここでは、伝統的な瞑想について述べられています。)
無空庵の実践は、在るに戻る、在るそのものである、意識を意識する、意識そのものであるということで、対象=主体、対象が主体であり、
主体だけがあるという実践方法です。
(はじめは、個人が在るを意識するという感じになる場合もありますが、個人が在るを意識することにより、在るとつながり、
在るそのものとひとつになっていきます。
「する」が「在る」へとシフトしていきます。
真の主体だけが残ります。)

【瞑想する者と真我探求する者の目的は同じである。ひとりは瞑想を通して静寂に到達し、もうひとりは探求を通して到達する。

ひとりは何かに到達しようと努力する。もうひとりは到達しようと努力しているその人を見だそうとする。

前者はより時間がかかる。それでも、最終的には真我に到達するのである。】

その他、フーマンの本から参考までに。

【瞑想による内的境地は、必ずしも「自己理解」をもたらすものではない。

時には、それをもたらす場合もある。

しかし大部分は、それが実際には起こっていない。 】

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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