在るの視点からは、なぜはなく、ただそうである

受講者
最近読んでいますクリシュナムルティの本の中で

"少しでも自由な時間があるといつでも、私たちのほとんどが何らかの形の楽しみを求めます。まじめな書物や小説、雑誌を手にします。アメリカにいるのなら、ラジオやテレビをつけたり、絶えまないおしゃべりに耽ります。おもしろがったり、楽しんだり、われを忘れたいという絶えまない要求があるのです。私たちはひとりになることを恐れ、友人もなく、どのような気晴らしもなしでいることを恐れています。私たちのほとんどは、野原や森を歩き、話したり、歌を歌ったりせずに、ただ静かに歩き、自分のまわりと自分の中のものを観察することがありません。私たちのほとんどはとても退屈しているため、めったにそうしませんね"

とありましたが
確かに思い返せば、共鳴を知り、始めるまでは私自身
己を切り離して内面を観察する、ただ在るでいる、ということは
なかなかなかったように思いました。

クリシュナムルティはこれを

"自分ひとりでいることに怯えているからです。どんな形の気晴らしもなく、ひとりでいてごらんなさい。どんなにすぐにわれを忘れ、ありのままの自分を忘れたくなるのか、わかるでしょう"

と述べており、また

"さびしさとはどういうことか、知っていますか。その言葉になじんでいない人もいるかもしれませんが、その感情はよくよく知っているのです。外へひとり散歩に出かけたり、本もなく、話相手もなしでいてみると、どんなにすぐ退屈するのか、気づくでしょう。その感情は充分に知っています。しかし、なぜ退屈するのかは知らないし、それを探究したことがありません"

とも述べており
なるほど、私はなぜ、ただ在ることを
今までなかなかしてこなかったのかとも思いました。
そういうことを知ることがなかった、教わることがなかった
気づくことがなかった、習慣がなかった
また、退屈やさびしさという、人としての感情、感覚が
知らぬうちに蓋をしていた…のかもしれません。
考えればきりがなさそうです。



そうですね。
在るの視点からは、なぜはなく、ただそうである、です。
また、プロセスという体験の連続、積み重ね、時間的な流れの視点から見てシンプルに言えば、
「する」というプロセスがあり、その「プロセス」が成熟してくると、
「在る」という在り方へとシフトしてくるという言い方もできます。
(「在る」という在り方になっても、何もしなくなるわけではなく、
「在る」から「する」が起こっていくようになります。
あるいは、そのような理解の立ち位置に在るようになります。)

マインドの性質から見た視点では、エックハルト・トール氏が、
「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」等で、クリシュナムルティとはまた違った表現でも書いています。
機会があれば読んでみてください。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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