自分自身に気づくというのは、前を見ることではない

受講者
先週からの状況

あまり変化は無いのですが、
今ここという感覚だと、基本的には何も見えない。



気づいている意識である自分自身(在る・真我)に100%焦点が当たっているときは、
何も見えません。
その意識は、それ自身から起こる現象のすべてを見ることが可能であると言えますが、
自分自身と距離ゼロのそれ自身だけは見ることができません。
あるいは、どの対象にも焦点が当たっていないとき、
別の言い方をすれば、マインドが働いていないときは、
何も見えない、と言えます。

参考までに。
ラマナ・マハルシ「不滅の意識」より

【何が見えているのですか。
肉体の目ですか。
いいえ、それは心です。
心が目を通じて見ているとき、それは見えています。
心が引っ込むと、それは何も見ていません。】


受講者
でも、今ここと言う事は、
頭で考えると、すべてのものがそこにあるように思うのですが
どうなんでしょうか?

目の前のここは3次元です。
3次元も含めて、『今ここ』までの次元が有るわけですよね。
ですので『今ここ』の中に、全部の次元のものが有るような気がするんですが、
実際に『今ここ』に在ると言う感じで、内側から観る感覚で観ると
目を開いてない限り何も見えないと言う感覚です。
頭で考えると、本来はそこに全てが在るような気がするんですが。

『今ここ』は、現象化する前と言う事ですか。



はい。
参考までに、エックハルト・トール氏の本から抜粋し、ご紹介させて頂きます。

【ほとんどの人は、「いま、この瞬間」を「いま起こっている出来事」と錯覚しています。
でも、このふたつは別のものです。
「いま、この瞬間」は、そこで起こる出来事よりも、ずっと奥深いのです。
「いま、この瞬間」は、出来事が起きている空間なのです。
ですから、「いま、この瞬間」を、その内容と混同してはなりません。
「いま、この瞬間」は、その中で起こるどんな出来事よりも、深遠なのです。】

無空補足:正確に言えば、空間も現れですが、分かりやすく「空間」と表現されているのではないかと思われます。
他のところでは、「スペース」というような表現もあったかと思います。


受講者
現象化する前と言うか反対側、反対側っていうのはおかしいですか。
目を瞑って前を見ても、『今ここ』は現象化していないのだから何も見えないわけですか。



目を瞑って前を見ても何も見えないということは、マインドが静かな状態であると言えますね。
ただ、自分自身に気づくというのは、前を見ることではありません。
前を見ていたところから、注意を自分自身に向け直すということです。
「反対側」という表現をされてますが、注意、焦点の方向を反転させる、という言い方も
できるかもしれません。(方向はない、と捉えることもできますが。)


受講者
前に、『今ここ』の状態で観ていると、観え方が変わるとおっしゃっていました。
観え方が変わると言う事は、観えると言う事ですよね。



在るの立ち位置に在りながら、それ自身から起こる現象、世界を見ることは可能です。
源と現れが共にあるということはあります。

上に、「気づいている意識である自分自身(在る・真我)に100%焦点が当たっているときは、
何も見えません。」と書かせて頂きましたが、焦点、注意の配分が、例えば、自分自身に50%、
目の前にあるものに50%という具合であれば、自分自身(真我・在る)を自覚しながら、
目の前にあるものを見ることが可能です。
あるいは、気づいている意識の中に、源と現れの両方を含めることは可能です。

(在る・真我は、源であり、現れであり、また、その両方を含めた全体でもあります。)

そして、自己理解が深まれば、それは自然に適切に行われます。


受講者
感じ方が変わると言う事ですか。
私の場合は、以前と比べると
現実の世界が、前より客観的に観えるようになった感じがします。



マインドが静かになり、在るの立ち位置から観れば、そのように観えることがあります。
もうひとつは、セッションでもお話しさせて頂いたように、
すべてが自分自身と観えたり(感じられたり)、
あるいは、すべてがとても近しく、とても愛おしく観えること(感じられること)もあります。


受講者
最初スクリーンに映った感覚で観ると言う練習をしたせいも有るのかもしれません。



それまでどのような実践をされていて、どのような視点がより開いているか、活性化しているか、
どのような見方により馴染んでいるか等により、観え方、感じられ方も変わってきます。


受講者
現実の見え方が変わることは有っても、
『今ここ』と言う観方では、感じが変わることは有っても、見え方が変わることは無い
と言う事でしょうか。
『今ここ』は、現象化の前ですから、見えないので見え方が変わることは無いが、
感じ方が変わるかもしれないと言う事ですか!



はい、それ自身に関しましては、視覚的に直接見えることはありませんので、そのように言う事ができます。

ただ、無限に多様である現れの源でもあるそこにおいては、多様、そして、無限である様々な質は、
すべてイコールです。
あるいは、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚等がまだ未分化と言ってもいいかもしれません。
それそのものであるとき、それは視覚的に見えるわけではないですが、
自分自身を感じるとき、まさに「見る」、「見える」という表現がとても自然であり、
とても適切である場合もあります。

これは、現れの領域の言葉でなく、在る(真我)の領域の言葉であるという事ができます。

また、現象世界の見え方においては、在るの立ち位置から、観念、思い込み等を通さず見ることにより、
あるがままに見ることができるようになります。
そして、そのあるがまま度合いは、ご本人の自己理解の深さ、純度、成熟度合い等により、
それぞれであるという言い方ができます。


受講者
本質的には、『在る』は自分なわけですよね。
するとかろうじて変化が感じられるのは現実の3次元を観ている時なのでしょうか。
ずっとやっていて、変化が出るとすれば、現実の世界を観ている時に
なんかみた感じが変わるって言う感じなんですかね?



そうではありません。
真の自己、本当の自分である本質、その存在性、それが「在る」ということにおいては変わりませんが、
自分自身を感じる感じ方が広がり、深まるということがあります。
(これはまず、自分自身を自覚できるようになってからではありますが。)
それは、無限の可能性そのもの、未知そのものでもある在る自身の探求とも言えます。
真の自己、真我、本当の自分には無限の質、無限の側面があります。

フーマンの本より抜粋し、参考までにご紹介させて頂きます。


【自己理解とは、真実の私つまりキヨタカではない自己を理解する事であり、それには違った姿がある。
 時には「強烈な愛」として、時には「存在の神秘」として、時には「源泉での深い寛ぎ」として、そして時には「理由のない幸せ」として体験する。

しかしそれらは同じだ。
つまり同じものが違った顔つきをしているという事だ。】


【時には喜びに満ち溢れ、時にはとても深く静かに、時には愛情豊かに、時にはただ普通である事を感じる。
しかし、それらは全て同じものだ。】

まだ、開かれていない、まだ気づかれていない質が、開かれる、気づかれる、そして深まっていくという変化があります。


受講者
目で見ている訳ではないんですけど、
昔だったら霊とか、神様だったら光の球体を見ることが出来ました。
多分目では見ていないと思うんですけれど、そういうのが見えていました。

瞑想を続けていくと、3次元の物とか人を見た時に、
その本質が見えるようになると言う事は有るんですか?



必ずしも視覚的に見えるというわけではないですが、それを観る、あるいは、感じることができるようになる
場合があります。
ただし、瞑想も様々ですので、必ずしも本質が見えるようになるかどうかは何とも言えません。


受講者
見えると言っても目で見ている訳ではないんでしょうが。



そうですね。


受講者
私の場合は、神様を観る場合は目を瞑って観るんですよね。
目を開いていると逆に見えなくて、目を瞑ると光の球体が観える。
一回、ビックリしたのは、鬼子母神を観た時は、黒くて大きな玉に観えたのでビックリしました。
大体は、光の玉が観えるのですが。
でも、頭で翻訳して観ているんだと思います。
その形が見える訳ではなく、丸く観えるんですね。
基本的には、目では見ていないんです。
普通は大体白なんですよね。
鬼子母神だけ黒だったので逆にビックリした位です。

現象化した最初が白く観えると言う事ですか。



白光等言われたりもしますね。
共鳴中に見える方もときどきいらっしゃいます。


受講者
瞑想をやっている時に、瞑想用のBGMを聞きながらやると、
音の広がりが在るの広がりみたいに感じられてやり易いような気がしたんです。
音が広がるのと同時に、在るの空間が広がっていくようなイメージでやっています。
まだまだ、その辺までしか広がんないんですけど。

『今ここ』に在るの在るの空間を、
まずは自分のところから、自分の乗っている電車、日本、地球、全宇宙と広げていく練習もしていますが、
なかなか全宇宙に維持できないんです。



維持しようと頑張りすぎるとマインドが強くなる可能性がありますので、あまり頑張って維持しようとしなくても
いいかもしれませんね。
(自然に、維持しようが強く起こってくるなら、起こるがままに、という感じですが。)
また、在るを感じやすい、広がりそのものでもある在るを感じやすいということでしたら、
上記のような実践もよろしいと思います。
そして、実践が本質的であれば、そのようなイメージを使った実践から、徐々に作為的なものは落ちていき、
より自然で、よりシンプルなものになっていきます。


受講者
瞑想で目を瞑るとどうしても考えようとしてしまうんですね。
考えないのですが、執拗に考えようと一生懸命なんかジタバタするんです。
考えるまでは行かないんですが考えようとしてるなとは観ているんですが
それで瞑想になってるのかなと疑問に思っているんですが。



気づいているという点ではそれでよろしいと思います。
そして、起こっていること(対象)に気づいていると気づいたら、
気づいている主体の方に、注意を戻し、気づきそのものである自分自身に気づきましょう。


受講者
考えっていうのはなんで起こるんですかね?
種が有るから出るのかな?
最初のうちはたくさん考えが出て来ますよね。
だんだん慣れると考えが出るのが少なくなって来ますよね。
そういう意味では、何か考えの種が有って、それが表に出て行くとだんだん少なくなって行くのかな
と言う感じがしたんですけど。



在るは、すべての現れの種ということができます。
ただ、それは無限の可能性そのものでもあり、尽きることがありません。
成熟していくと、雑念や思考がぐるぐる回るということなどは少なくなっていきますが、
創造は、無限に続いていきます。(思考が尽きて、まったく起こってこなくなる、
ということはありません。)
それは、起こってくる思考が少なくなるということだけでは計ることはできません。


受講者
考えを作っているのは、自分なんですかね。

在る自体には意識は無い訳ですからね?有るの?



在るは、意識、あるいは、気づきそのものでありますが、
それ自体に、意図や思いはありません。
(そこから、様々な意図や思い、考えは起こってきますが、
在る自体は、それらを所有することもありませんし、
それらにとらわれることもありません。
そこからまったく自由です。
在るは、それ自身から起こるすべてに全責任を負っていると同時に、
それらからまったく自由です。)


受講者
考えは在るから生まれてくる?
在るから現象化して考えが出てくる。
在るが何かの考えを創ろうとかはないんですか?
不思議なもんですね!



そうですね。
それが、在るの本性、自然本性です。


受講者
でも、人によって考えは違いますからね。
それもまた不思議ですよね。



在るは無限であり、それが多様となって現れます。
多様として現れた人の考えが違うのは、とても自然なことです。


受講者
よく解りませんでした!



マインドでマインドを超えたものをすべて理解しようとするのは無理です。

よく解らないというのが、正解です。

ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」から、
参考までに抜粋し、ご紹介させて頂きます。

【私は光を見たり、声を聞いたり、神々に出会ったり、彼らと話をしたりという奇妙な体験を通り抜けてきた。
ひとたびグルが私に「あなたは至高の実在だ」と言ったとき以来、幻想や超越状態を体験することはなくなり、
とても静かに、そしてシンプルになった。私は欲望をもつことや知ろうとすることがだんだんなくなっていき、
最後にはまったくの驚きとともに、「私は何も知らない。私は何も欲しくない」と言うまでに至ったのだ。】

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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