ただそれ自身に落ち着くこと。ただそれ自身に安らぐこと

受講者
最近思うことが三つ。幻影論(すべては幻影である)の発展形。

1.無観念説:誰も、何の考え・観念・思想も持っていない。聞かれたら答えるし、話すときに口から出るが、

そうでないときはどんな観念も考えも、存在しない。考えはどこからか降ってきて、私を通って出てくる。閃きと同じだ。



とてもよい視点ですね。

覚者方は、ひとつの視点からは、書かれてあるような「誰も、何の考え・観念・思想も持っていない。」をさらに進めて、

誰も存在しない。世界はない。と言っていますね。

変わらない本質という視点、立ち位置からは、そのように見、感じることができます。

また、書かれてある内容から抜粋させて頂きますと、「聞かれたら答える」、「話す」、「口から出る」、

「考えはどこからか降ってくる」、「私を通って出てくる」、「閃き」、これらはすべて現象、起こってくるものです。

この現象という視点から見れば、シンプルには、すべては変わらない源である在る(真我・空)から起こってくるということが言えます。

別の言い方をすれば、考え・観念・思想だけでなく、考え・観念・思想をもっているように見える私(自我・個人)、

あるいは、あなたが「考えはどこからか降ってきて、私を通って出てくる。」と書かれているところの「私」は、

その都度、在るから起こってきている、

一瞬、一瞬創造されている、

それが時間的に連続しているように感じられている、

あるいは、そのように感じられ、創られているのがこの現れの世界、

それは、在るの本性による自然な創造、在るの自然な在り方、あるがままの在り方、

と言うこともできるかもしれませんね。

そして、変わらない本質とそこから起こってくる現象、変化し続ける現象、起こっては消えていき、

そしてまた起こってくるを繰り返している現象、

これは、まったく別もののようにも感じられるかもしれませんが、

色即是空、空即是色 という言葉があるように、

空と色、源と現れは、ただひとつであるもののふたつの様相、在り様、在り方ということができます。

そしてまた、即それである、そのままでそれである、というところも大事です。

現象として現れているときにも、それはそのまま源でもあります。

色はそのまま空でもあります。

空はそのままで色になります。

書かれてある「考えはどこからか降ってきて、私を通って出てくる。閃きと同じだ。」という視点は、

まさに観念ではなく、考えを受け取り、それが表現されるところにある「私」としての立ち位置での実感ですね。

その「私」に対する理解と、純化をさらに進めていきましょう。

それもまた、起こってきているものとも言えますし、同時に、変わらずにある真の自己、真我、在るであるとも言えますが、

現段階では、変わらない純粋な本質部分と起こってきている現象部分(記憶・観念・自己イメージ・思考等)が

クリアに認識、識別、実感されておらず、ミックスされている状態と言うことができるかもしれません。

また、識別力から、ある意味、さらに進み、起こってきているものをそのまま真我であると見る力(理解、知っているという在るの視点、本質的視点)、

そのまま真我であると自ずと見える視点、立ち位置にまだ開かれていない、ということもできるかもしれません。

(よりクリアで本質的な認識、そして、奥深い理解により、識別と、一元性の両方の視点を持てるようになるといいですね。)

また、在るからの直接的な気づき(在るであること、在るを直接感じていることからの気づき)、感覚、認識等が

起こったとき、感じられたとき、あるいは、それが在るとき、

それをそれまでの思考パターン、マインドのフィルター、マインドの思考傾向を通して、

本当はマインドを超えているものをマインドの範疇におさめ、

(理解しやすいように、理解したいように)理解しようとすること、

もともと土俵が違うものを、マインドの土俵に持ってきて、そこで理解しようとすること、

マインドでつかもうとすることも多くの方の中で起こります。

それはマインドの自然な傾向であり、また、そのときのあるがままの存在全体としてとても自然なことであり、

そのような自然なプロセスを経ながら、マインド、そして、存在全体はより成熟していくとも言えますが、

今のあなたの場合も、そのようなところもあるかもしれませんね。

また、立ち位置に関しましても、在るは、ただひとつの立ち位置にあり、ひとつの視点からしか見ることができないのではなく、

様々な立ち位置にあり、それ自身を様々な視点から見、経験、体験し、知ることができます。

すべては、それ自身である在るから起こっていくという源からの視点と、

「聞かれたら答えるし、話すときに口から出るが、 そうでないときはどんな観念も考えも、存在しない。

考えはどこからか降ってきて、私を通って出てくる。閃きと同じだ。」

と表現されるところ(通って出ていくところ、ある意味、仲介者、媒介者)では、

見え方、捉え方、その立ち位置に対応して起こる言葉等も違ってきます。

すべては在るであるという視点からは、在るはその両方であり、また、その他のすべてであるということができます。

在るは与える者であり、受け取る者である、さらには、その中心に位置し、

━あるいは、「その間に位置する」という視点からみれば、仲介者、媒介者と見ることもできますが。━

全体に気づいている者、あるいは、全体そのものと言うこともできます。

それは、始まりであり、終わりであり、その中間のすべてである。

それはアルファであり、オメガである。

それは、最も大きなものよりも大きく、最も小さなものよりも小さい。

それは、深遠で、微妙なものであり、宇宙万物創生の本源であるが、名づけられるものではないので、

私は仮に「道(タオ)」と呼ぶのだが・・・

等、その在り方等が様々に表現されています。

書かれてある「考えはどこからか降ってきて、私を通って出てくる。閃きと同じだ。」という立ち位置は、

中心であり、また、仲介者、媒介者という言い方もできるでしょう。

そこは、ある意味、源の立ち位置ではないため、現れた在るでもある私(自我・個人)とも言えますし、

また同時に、その核にあるもの、あるいは背景、または、私として現れているもののすべてのそのエッセンス自体は、

純粋な気づきそのもの、真我、在るそのものと言うこともできます。

色即是空、空即是色という言葉からも分かるように、それは、本当は分けることができないもの、切っても切り離せないものとも言えますが、

源と現れ、空と色がミックスされている「私」がさらに純化され、その認識、識別がより出来るようになってくると、

あるいは、さらに進み、真の自己理解、色即是空、空即是色の理解

(真の自己理解のある意味、一側面、一要素として色即是空、空即是色を見ることもできますし、

色即是空、空即是色の中に、すべての理解があるとも言えます━空の理解、色の理解、そして、全体の理解━)

が、存在全体を真に貫かれることにより、

視点、立ち位置のある意味、混濁、あいまいさ等もより整理され、

全体の見え方がもっとクリアになり、よりすっきりしてくるでしょう。

本質、エッセンス(源)と、ある意味、それに付随し、セットで自動的に起こってくる現象、考え等も、

よりクリアに分かるようになってくるでしょう。


すべては在るであり、在るのその玄妙な在り方により、本当は、すべては在るの中で起こっている、

起こることのない中で起こっていることなのですが、様々な立ち位置を持てる在るの在り方により、

考え、閃き等様々な現象が、どこからかやってくる、あるいは、源からその外へと起こっていく等の

感じ方ができます。あるいは、そのように感じられ、体験されます。

ひとつの視点からは、ただひとつであるものである在る(真我・空・純粋意識)は、

その本質においては均質であり、

その中で起こることは、どれだけのことが起ころうとも、まったく何も起こっていない、

幻想、幻影であるということができます。

ただ、在るそのものがリアリティそのもの(まさに、「在る」なのですが。)でもあり、

在るの中で起こる現象、動き、作用は、


(その中には、気づく、ということも含まれます。

それは、ただひとつのものであり、均質で、時間ゼロ、時間がない中で起こっていることであり、

また、気づくということは本質的なことで、気づきそのものの本性、機能とも言うべき側面でもあります。

ある意味、本体としては、不動の気づきそのものとして、

そこから起こるすべての起こり、現象、動きに気づいているものであるため、

気づきそのもの、気づいている意識は、源であるという言い方が許されるかもしれません。

ただ、時間がない中での話なので、マインド的には矛盾する話にもなるかもしれませんが、

気づきそのものがそれ自身に気づく前は、それは何ものでもありません。

それは純粋にただ在るもの、在りて在るもの、純粋な存在です。

実在、実存、それ等言われるものです。

━そういう意味で、意識と在るは同じですが、在るの方がよりベーシックであるという言い方をすることがありますし、

在るが分かるのであれば、意識よりも在るの方をより意識してください。という言い方もしています。

ただ、在るが意識でなければ、それ自身が存在していることにも気づくことができません。

在るを在るたらしめているのは、意識であるということもでき、両者を分けることはできません。

ただひとつであるものを、真に分けることは不可能です。

そしてまた、その分けることのできない在ると意識の関係性、

さらには、意識・気づきそのものと、それ自身に備わる“気づく”という機能、作用、本性の関係性は、

前述した空と色、源と現れ、本質と現象、または、幻想と言われるものとの関係性にも、

その対応、関連等を見ることができるかもしれませんね。━

それが、それ自身に気づくことができるから、それは意識であると分かります。

それを意識であるということができます。

気づいていないところから、気づくという話になり、これは時間がありそうな話になりますが、

これが、ゼロ時間、あるいは、永遠の中で起こっていることです。

━それは、永遠の気づきそのものであり、永遠に気づき続けているそれ自身を

自らの自在な視点、あるいは、意図なき本性(そこから意図や意図を持つ個人等は起こってはいきますが)、機能、作用により、

気づいていないところから、気づく、というように見ることができる、体験できる、

ひとつのプロセスとして体験することができる、

それ自身を体験的に知ることができる、

ということができます。━)


かっこ書きの部分が長くなりましたので、

少し前のところから、再掲させていただきます。

ひとつの視点からは、ただひとつであるものである在る(真我・空・純粋意識)は、

その本質においては均質であり、

その中で起こることは、どれだけのことが起ころうとも、まったく何も起こっていない、

幻想、幻影であるということができます。

ただ、在るそのものがリアリティそのもの(まさに、「在る」なのですが。)でもあり、

在るの中で起こる現象、動き、作用は、

その具体的な内容、現れの世界における意味づけ、名前、形、概念等の点においては、

起こっては消えていく幻想(あなたが言われる幻影論━すべては幻影である━)とも言えますが、

現象、起こることそのものは、まさにリアリティそのものでもある、ということができます。

現象、起こっているというリアリティ(実感)、それが過ぎ去ったあとに残る「空」というリアリティ(実感)。

姿かたちは変わっても、それだけは変わらずに在ります。

(「リアリティ」のほか、別の角度からは、「今」、「気づいているということ、あるいは、気づきそのもの」

そして「在る」ということは、起こっていること、現象、幻想、幻影の内容、

そして、それが起こっている、いないにかかわらず、変わらずに在る、ということができます。)

まだまだ言葉が足りなく、不十分であるとも言えますが、また、機を見て、様々な角度から存在を刺激し、

理解の何らかの助けになればと思います。


受講者
2.マインド無能力説:マインド(・知性・知的思考・私)は、何が真理で何が非真理か、何が真実で何がそうでないかを判別する能力を持っていない。

ただ、「能力を持っていない」と断定する能力も持っていないから、この考えも真理かどうか私には分からない。



セッションでもお話ししましたが、相対的なこと、現れの世界に関することでは、マインドの働きが必要であり、

(もちろん、在る・真我のトータルな実現の中でも、変容、成熟したマインドが必要に応じて働きますが。)

相対的な正しさ、状況、事情、それぞれの都合による正しさ等を判別する能力、あるいは、正当化する能力はあると言えますね。

相対を超えた真理は、それ自身により、直接知られ、確認され、再認識されます。

そしてそれが、現れにも反映、投影され、マインド領域にも、分かった、というように自然に現れてきます。

(在るそのものによる直知が、マインド的にも翻訳される、あるいは、マインド等現れ領域にも浸透してくるという言い方もできるかもしれません。)

マインドが分かる、マインドで分かるという視点もありますが、

別の視点からは、在るそれ自身による直知が、現れに反映、投影される、

分かったというマインドが起こってくる、という見方ができます。

またさらには、その現れてきたものを通し、その深奥にある本質を、在る・真我がさらに再認識する、

存在全体で知る。

源から現れ、そしてまた源へと存在全体を一巡りして、トータルに知る。

あるいは、すべてはどこへも現れず、すべてはそれ自身の中で起こっているという視点からは、

ただひとつであるものそれ自身の中において“永遠に気づき続けている”というところからくる無限の振動、

(それ自身に気づいているという点からは、距離ゼロのゼロ振動)

それ自身の中において無限の立ち位置、視点等を持てるというところ等からくる無限の反響性、

例えて言えば、無限の角度を持つ無限枚の合わせ鏡によるそれ自身の中における無限の反響性等により、

自分自身を無限に知っていく。

そのように見ることもできます。


受講者
3.誰がかまうもんか(悟りなどどうでもよい):ラメッシは、「誰がかまうもんか(悟りなどどうでもよい)」と思ったら、

それが悟りの一歩手前、だと言っていますが、今の私にとって、悟りの重要性はどんどん低下しています。



自分自身を知ること、真の自己(真我・在る・愛)を知ることは、重要だとは言えますが、

(それにより、真に落ち着き、真に安らぐことができます。そしてまた、そこからすべては自然にあるがままに

ただ起こっているということが分かるようになっていきます。

ただひとつであるものの中で、すべては起こっている、ということが分かるようになっていきます。)

それに対するとらわれや、過度な期待等がなくなってきたということであればよいことですね。


受講者
悟りなんか本当はないんじゃないか、とも思っていますし。



何を悟りというか、また思うかは、それぞれであるとも言えますが、

それ(在る・真我・愛)自身の再認識、自己理解(直知)ということでしたら、在ります。

言葉で表すと、とても不十分で下手な翻訳にしかなりませんが、

これが本当の自分である、というそれ自身の自覚、再認識、自己理解(直知)、

それを覚醒(自分自身、真の自己、真我にそれ自身が覚醒する、気づく、目覚める)ということができるでしょうし、

その直接的な理解が、マインド等現れのすべてに浸透し、存在全体にその理解が行き渡り、

まさにその存在が、理解そのもの、知っているそのものとなったとき、

あるいは、真の在るがままとなったとき、

(恒常的に)真我が実現されたといってもいいでしょう。

(真の理解は、ゆらがず、減ったり、無くなったりしませんので。)

あるいは、実現された真我がそこに在る、という表現の方がよりよいかもしれませんね。

覚醒(何を覚醒というかもまたそれぞれとも言えますが。)、あるいは、悟りの一瞥体験、

または、一時的な真我の実現を悟りと言っている場合もあるかもしれませんが、

ある意味、定義などはどうでもよく、そこが問題ではありません。

直知された本質的な理解が存在全体に行き渡り、それが実現されているかどうか、

真の平和、平安、幸せ、愛などが実現されているかどうか、というところが大切であると言えます。

それ(悟り)は、誰かに認められたり、証明したり、してもらったりするようなものではありません。

それは、ただそれ自身により分かるもの。

(自然にそれが起こった場合、自然にそうなった場合、誰かにそれがそうだと指摘されたり、

確認される必要がある場合はありますが。)

ただそれ自身に落ち着くこと。

ただそれ自身に安らぐこと。

それ自身が証明となります。

それはとても明らかです。

それは、明らかそのものです。


受講者
これが悟りの一歩手前なのか、単に堕落したのかは分かりませんが、悟りはもういいかなと思っています。

共鳴セッションを始めた3年前の悟りへの欲求を100だとすれば、今は15~25くらいか。



セッションでも話されていたいまだある漠然とした苦しみ、その解消がひとつの鍵となるかもしれませんね。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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