自己解脱。起こってくるものをそのままにしておけば、それは、自動的に、ひとりでに、自然に、みずからを解脱する

受講者
「在る」を意識する日々が続いているのですが、今日はちんぷんかんぷんになってしまいました。
「在る」は在るのですが、それが急に信じられなくなってしまうのです。
信じられなくなり、これはマインドだと気がつくのですが、急に不安になりちょっと泣きたくなって
泣いたのですが、その後大きなハテナが頭に浮かんで、そしてそのあとで面白くて笑ってしまったりです(笑)



それは、在るから直接起こっていますね。


受講者
自分でも意味がわかりませんでした(笑)
その後はちょっと体を動かしたいなという気分になったので
ぷるぷる健康法(体を振動させる)をして少しスッキリしました。


日々「在る」を意識するのですが、愛というものがまだわかりません。
それを不安に感じているのかなと思います。



分かるときに分かりますから、大丈夫です。
分からないうちは、分からなくてもまったく問題ありません。
(在る=愛ですから、在るが分かっていれば、大丈夫です。)
「在る」の実践を繰り返しているうちに、適切なタイミングで自然に分かるようになってくるでしょう。
すべてには、適切な「とき」というものがあります。


受講者
出てくる感情などは抑えずに放ってしまってもよいのでしょうか?



出てくる感情、そして、それに対して起こってくる思考にも、ただ気づいて在りましょう。
(そして、横に置いておけるときは横に置いておき、戻せるときは、焦点を在るに戻しましょう。
参考までに。ゾクチェンの教えが書かれた本より:
【目に見える現象は多様なあらわれを持っているけれど、この多様さはもともと二元論の彼岸にある。
無限に多様なもののどれ一つとして、限りある概念のわくにおさまりきるものはない。

「これはこうだ」とか「それはああだ」と定義づけようとする罠から解き放たれるのだ。
そうすれば、すべての形あるあらわれは、形を持たない無限がしめすさまざまな表情にすぎないし、それから切り離すこともできないから、そのままで完全なものなのだということがわかる。

すべての始まりから、あらゆるものはそのままで完全だということがわかれば、あるがままの自然な状態にとどまっているだけで、不二の三昧が自然に生じ続ける。

ゾクチェンのレベルにおいては、すべての現象は空であり、実体がないということが、基本的前提になっている。
ゾクチェンにおいて「自己解脱」が意味しているのは、修行者の経験の領域に現れてくるものは、何であれすべて、善悪や美醜の判断抜きに、わき起こるままにさせておくということである。
もしも固着や執着がなければ、思考であれ、外的な出来事に見えるものであれ、生起するものはすべて、それらが生起したまさにその瞬間、努力することもなく、さらには、意思することすらなく、自動的に、ひとりでに、自然に、みずからを解脱するのである。
そうやって修行を続けていけば、二元論的ヴィジョンの毒の着の種子は、根を張り、育つどころか、間違っても芽を出すことはない。
修行者はふつうに生活していく。自分自身の知恵以外に、一切の規則はない。
わき起こってくるものは何であれ、自分の経験の一部として、みずからの本然の境地と統合し、そうやって、常に原初の統一状態にとどまるのである。


外見上、修行していることを示すものは何一つない。】

そのほか、無空庵の体験談の中のHIKOさんの体験談「どのようなふるまいをしていようが、その人のハートの奥にある何かしか感じ取れなくなってきているようです。」の中から、参考までに一部抜粋させて頂きます。

【> このところ、「ただ在る」こと以上に、
> 浄化が起きることはないなぁと感じています。

ただ在ること、ただ気づいていること(気づきで在ること)は、究極の浄化法です。
それは、もっともシンプルで、もっとも自然で、もっともトータルで、もっともパワフルです。

> ただ在る。それだけで、マインドの根っこが
> 落ちていっていることを実感するとともに、
> エネルギー的にも不必要なものが
> 浄化されていることに気づいています。

マインドの根っこ、ヴァーサナーと言われる潜在的傾向も、
ただ在ること、ただ気づいていることで、落ちていくということですね。
これ(ヴァーサナーを落とすこと)は、真我実現を目指した多くの先人達の
大きな課題でもあったところだと思います。

ただ在ること、ただ在り続けることで、「する」へとひっぱる傾向は弱まり、
クリアされていきます。

> マインドの根っこが落ちることで、
> マインドの部屋へ閉じ込めさせようと働く
> 引力みたいなものが、今、
> ほとんど働いていないことにも気づいています。

素晴らしいですね。
これは、現在、ただ在ること、ただ気づいていることを実践している多くの方々、
そして、真我実現を目指す多くの方々にとって朗報であり、
また、大きな励ましと勇気づけになりますね。

> そしてその気づいている存在でただ在ることに、
> 言葉で表せないような平安を感じます。
> それは、不安の対極にある平安ではありません。

それは絶対の平安であり、状況、状態等他からの影響をまったく受けず、
それ自体で自立し、完結していて、けっしてゆらぐことのないものです。】)

もしそれだけでは落ち着かず、ほかに何かしたいようなときには(落ち着かなくても、ほかに何かしたいという思いが起こってこなければ、落ち着いていないということに気づいてそのまま在りましょう)、呼吸を意識したり、書かれてある体を振動させるぷるぷる健康法などもいいかもしれませんね。
進んでくるにつれ、実践はよりシンプル(ただ在る、ただ気づく、気づいたら在るに戻る。)になっていきます。


受講者
負の感情が出そうなときはどこかでこれはいけないと思って押さえ込んでいる気がします。



それにもただ気づいて在りましょう。
徐々に変容していきます。


受講者
もう一つ質問なのですが、ハートの共鳴が今ひとつわからないのですが、
この時も「在る」を意識するだけで大丈夫でしょうか?



はい。


受講者
「そうじゃなきゃだめだ!」みたいなものが私の中にいるのを確認できました。



それに気づけたことはとてもよいことですね。

それは、多くの方が持っています。

気づくことで、変容していきます。

そして、より楽になっていきます。


受講者
ノーマインドはとっても難しいですが、日々意識できるようにリラックスしながら訓練していきます。



ノーマインドもさまざま意味で使われることがあると思いますが、思考が起きてこないことを目指さないようにしましょう。
マインドは、在るから自然に起きてきます。

フーマンの「恩寵の扉が開くまでⅡ」には、

それは、マインドではない、としか言えない。
それ(ノーマインド)だけが、言える。

とあります。

ノーマインドは、「マインドではないもの」、「在る」と理解されるとよろしいですね。

そして、在るは、マインドが起こってくる源ですから、在るとマインドが一緒にあることは普通です。

在るの実践、さらには、在るの実現において、マインドが起こっている、起こっていないは、まったく関係ありません。

それらにとらわれずに、ただ在りましょう。

気づいたら、在るを意識してみましょう。

在るそのものでありましょう。

感じられないときがあってもまったくかまいません。

意識を向けることが大切です。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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