誰でもないもの

受講者
今週も在るそのもの、気づきそのものについての話をしたセッションでした。


先週からの間に

普段に誰もいない、現れとしての形のない場を感じているときは

誰もいない(在るだけが在る)のだから個人性はないと同じことではないのかな?

ということが疑問として起こりました。

その感じている主体が私という個人なのかという点では

誰もいない=自分もいないので、

「誰もいない、現れとしての形のない場(=在る)だけがある」

という内言が起こっている感じです。



感じている主体を直接認識したときに、それは「誰でもないもの」

「純粋な気づきそのもの」、「純粋な主観性」、「純粋性そのもの」等、

認識されるようになるといいですね。

(ただ、日常生活の中では、個人感覚・透明な個人も自然に起こってきます。)


受講者
どうも

今どこまで主体が純化されているのか、

どんな立ち位置で日常が過ぎているのか

あまり分かっていないのです。



セッションで確認を続けていきましょう。


受講者
在るをベースに役割としての個人の生活が続いているのを

両方同時に感じられているようでもあり、

無為、受容とは遠い、より良くしようとする個人が

ひたすら努力を続けているようでもあります。



そのものであるかどうかにここのところ引っかかっているのも

マインドで、浄化の一環のような感じもあり、

それに気づいてマインドを離れるだけでいいような気もすれば、

でも在るに意識を向けるのに本質的、直接的な理解という点では

そのものについて理解するのはとても大事な点のようにも感じられます。



そうですね。

それはとても大事です。


受講者
またもうひとつ疑問なのは、

共鳴中、どこまでの個人の努力が適当なのかということです。



この応えは、今ある立ち位置、理解度、「個人」、「努力」等を

どのように認識されているかなどによって、(微妙に)違ってきます。


受講者
例えば、

> 多くの場合は、はじめ、気づいている主体は、個人とミックスされています。

> そこから、何度も気づいている主体に気づく、

> 気づいている主体に焦点を当てること、

> 注意の焦点をそれ自身に戻す、自分自身に戻すこと

ということを実際共鳴中に試みるとします。


共鳴開始時に~するぞと意識して後は忘れるのがいいのか

共鳴中を通して、意識的にただ試みつづけるのがいいのか



共鳴中でも、日常でも、気づいたら戻る、が基本です。

戻れるときは、何度でも戻りましょう。

(一度しか戻れないときなどもあるかも知れません。

それはそれでOKです。)

そして、気づいている主体、真の自己、自分自身を感じましょう。

それをより(自己として)認識できるようになっていきましょう。


受講者
いずれも違うのか

習慣化して自然なものとなるまでは穏やかな努力を続けるということなのでしょうか。



はい、穏やかな努力を続けてください。

(穏やかな努力が起こっている、という立ち位置にも在れれば、なおよろしいですね。)

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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