現れの世界で実現される無限性

受講者
今回お返事頂きました文章の中で、
「器」に関して以下のように、ご説明を頂きました。

>>> どんどん努力し、器を広げて行ってください。
>>> 個人が努力し、器を広げて行くという体験も、
>>> とても貴重で尊い体験です。
>>> それもまた比類なきものと言うことができます。
>>> そして、最終的に、個人である自分自身を超えると、
>>>器自体がなくなり、無限そのものとなります。
>>>器がなくなるので、
>>> 計れないもの、計り知れないものとなります。

>> 器がなくなる、というのは、自分にはまだよくわかっていないと思います。
>> 無限に広がっていく感覚を、素晴らしい高揚感や感動とともに感じていた時はありますが、一時的なことで、今の自分にはないです。



一時的な体験を、
器無きそれ自身として重ねていくことで、
自己理解が深まっていきます。
(ここでの器とは、輪郭、個人を定義付けるもの、また、
ニサルガダッタ・マハラジも個人に関してそのように
表現しているように、
「制限と限定」というような意味で使っています。)
そうすると、
真の自己(真我・在る・意識・愛)とは、器無きものである
ということが、
理解、認識の上で(事実としては、すでにそうであります。)
揺らぎ無きもの、絶対的なものとなっていきます。
(日常生活を送っていく上で、自然で必要で適切な
肉体等現れレベルの限界に関しての認識、習慣等も残ります。)

在る(意識・真我・愛)は
もともと器無きものでありますが、
それそのものとしてある体験を重ねていくことにより、
自己理解としてのそれが確かなものとなっていきます。

━主たる立ち位置が
個人から在る(意識・真我・愛)へとシフトしていく
という言い方もできます━。
また、それは、
在る(意識・真我・愛)のそれ自身の再認識、
「自分は器無きものであった」という再認識
と言うこともできます。

ときどき例えで、
自己理解がある状態、自己理解が深い状態を、
「自分は人間である
という認識は誰でも当たり前に持っています。
それと同様に、
自分自身は“在る”である(器無きものである)
という認識が当たり前にある
という状態です。」
というように説明することがあります。
いつもその自覚が無くても
(人は、いつも自分が人間であるということに
焦点を当てているわけではありませんね。)、
その認識、理解は、
常に背景に、絶対的なもの、当たり前なものとして在る
という状態です。
その理解が、
常にその存在全体を背景で支え、
在り方、言動等の中でも働いていくようになります。

(もちろん器が無いという点だけではなく、
器が働くことが自然な場面では、器が自然に働く
ということ等も含め、
在るについてのトータルな理解が働いていきます。
そのような視点からは、
在るは、
すべての器━限界・限定・個別性━を含む、
器無きもの━無限・無制限・無条件・全体━
と言うことができます。)

ですから、他の方の体験談にもありますように、
プロセスの中で、
「私(個人である私)」という言葉を発するのに、
違和感が出てきたり、また、
「私」という言葉が出てくることが以前よりも少なくなってきたり、
ということも起こるわけです。

(自己理解が深まった段階でも、
自然な必要性から「私」という言葉は起こってきますが、
そこには自然で微細な気づきがあります。
または、それが起こることの許し、愛、
あるいは、大きくトータルな自然さがあります。)

参考:フーマン「恩寵の扉が開くまで」より

『もしあなたが
「数ヶ月前と比べて自分をあまり認識しなくなった」
と感じ始めたら、
それが自分に変容が起こり始めたと知る時だ。』

無空補足:
ここでいう自分とは、個人である自分のことですね。

上記部分を含む前後も参考までに。

『なぜならその深さを体験する「主体そのもの」が
ワークされなければならないからだ。
その深さそのものは、体験者の周りにすでに存在している。
しかし
それを認識する主体がワークされて、開かれる必要がある
ということだ。

もしあなたが
「数ヶ月前と比べて自分をあまり認識しなくなった」
と感じ始めたら、
それが自分に変容が起こり始めたと知る時だ。

マインドを超えるという事。
マインドの領域に留まっていては、変容は起こらない。』

無空補足:
認識する主体(気づいている意識、
いつも「わたし」と思っている「わたし」部分、
いつも「自分」と思っている「自分」部分)
は、ほとんどの場合、
在る(真我)と
個人(自我・マインド)がミックスされています。
在る(気づいている意識)に意識を向けること、
在るそのものであることで、
認識する主体が純化されていきます。
意識を向けることは光を当てることであり、
光が当たれば、
ある意味、真我の影とも言える自我は
消えていきます。
そして、そこに残るのは、真我のみとなります。
(関係性等の中で、
必要性により自我はまた自然に起こってきますが、
意識を向けることを繰り返していくことにより、
自我はどんどん透明なものとなっていきます。
真我がそのまま反映されるようなものと
なっていきます。)

わたしがセッション中、
そこに個人はいますか?それは個人ですか?
などとお聞きしますが、
認識している主体(気づいている意識)が、個人ではない
ということの認識、自覚、
そして、
それが純粋な意識、真我であることの自覚、認識
を持って頂くために
そのようにお聞きしています。
そしてそれは、
無空庵で大切にしている自己理解
(本当の自分は在るである。)
に直接つながっていきます。


受講者
>個人でないときは、その状態であると言えますね。
>また、それは、何ものでもないもの、何の定義もできないもの
>とも言えます。
>
>(定義をひとつの器と考えることができますね。
>自分自身を何ものでもないもの、何の定義もできないもの
>として理解していれば
>━存在全体での自己理解、
>それがそのまま生きられるレベル、実現されるレベル━、
>それは器なきものである
>と言うことができます。
>━それでも、それまでの習慣等から、社会的常識等は自然に働きます━)


以上の「器」に関する部分について、お返事の内容を熟読し、
自分の感じますことを、言葉にしてみました。


「器」と言う言葉を、普通どのような意味で使うか、と考えますと、
たとえば「人間としての器量」とか「度量」とか・・・。
「器がなくなる」というのは、自分にはまだ良く分らない、



そうですね。
書かれてある「“人間として”の器量」
という言葉から分かるように、
そこには、前提として、
“人間として”、というものがあります。
ここが、この言葉が発せられたときの立ち位置です。
もちろん、「たとえば」ということで書かれてありますので、
たとえでの立ち位置ということになりますが、
他の方の参考にもなりますので、そのまま書かせて頂きます。

これも他の何人かの方の体験談にも出てきますように、
本当の自己(真我・意識・在る・愛)は、
人間ではない、
人間以前のものである
という立ち位置、実感、認識、理解があります。
トータルな視点からは、
それは人間そのものとしても現れていると言えますが、
存在全体の中の核とも言える変わらない部分
・真我(意識・在る・愛)は、
人、人間ではありません。
(その真我も含め、人間である
という言い方もできると思いますが、
純粋に気づいている意識・真我そのものであるときは、
人間という感覚はありません。
そのときに、
誰もいない。それだけがある。世界はない。
すべては幻想である。
などという言葉が起こってくることがあります。
そして、その真我から
すべての現れが自然に起こっていきます。
真我は、
人も含めすべての自然現象が現れていく
変わらない源です。)
あるいは、人、人間には限定されません。
なぜなら、人間以外のもの、
鉱物、植物、動物、作られた物、空、大地、海、
大自然、大宇宙にあるすべてものは、
“在る”からです。
すべては、在る(真我・意識・愛)です。
その在るが大前提としてあり、
その上で、人として現れていれば、
物理的な限界等があります。
立ち位置、あるいは、前提が、
在るであるか、人であるかにより、
認識、理解等は変わってきます。


受講者
と申しますのは、自分にはいろいろ限界がある、と思うからです。



その限界こそが、人を人たらしめているところとも言えますね。
そして、その限界感、限界認識により、
個人としての自分の度量や器量が増していく
などの成長体験等を含めた素晴らしい体験や味わいが
可能にもなっています。

それは、
器無き限界無きもの(在る・真我・愛)が自らに与えた
素晴らしい贈り物と言うこともできますね。


受講者
限界をこえればイライラしますし、思考力や判断力、理解力、忍耐力etc、
自分の限界には、日頃しょっちゅう直面しています。

でも、そういう「自我の限界」、
あるいは「個人としての」能力の限界etc…に対して、
それは「自己」ではない、本当の「わたし」とは「個人」ではない、
というのが、きっと無空さんのおっしゃっていることなのでしょうね。



どの段階にある方にお話しするか、
また、どのようなタイプの方にどのような場面でお話しするか
(限界があるためにそれを問題として苦しんでいる方、
その限界を超えたいと思っている方などには、
あなたが書かれたような
言い方が起こって来ることがありますね。)
等で違ってくるとも言えますが、
大きく言うならば、個人は、「変わらない自己」ではない
と言うことができます。
本当の自分という意味を
「変わらない本質部分・変わらない自己・変わらない純粋な主観性そのもの」と、
ある意味、狭義で使用する場面では、そのように言います。
そして、トータルな視点からは、
自我(個人)を含めたすべてが真の自己(真我・在る・愛)である
と言います。

必要に応じて、自然に様々に表現される
というその質の
理解の助けのひとつとして、
それ自身の前に来るものによって
映し出されるものが違ってくる鏡を想像して頂けると
よろしいかもしれません。

鏡は、ある意味、何ものでもなく、何の属性もなく、ニュートラルで、
それ自身の前にあるものすべてをあるがままに映し出します。
それは、何がその前に来るか、何がその前にあるかで
まったく違ってきます。

そして、鏡と同じように、
真我(在る・意識・愛)の
現れていない変わらない源としてのその在り方もまた、
ある意味、何の属性もなく、ニュートラルです。

それは、透明で、ニュートラルで、
何ものでもないもの、特定の何ものでもないもの、
であると言うことができます。

それは、何のこだわりも無く、
そこに映ったすべてを
あるがままそのままに映し出す鏡としての質、在り方です。

そしてまたもうひとつ、そこからの現れ方として、
真我(在る・意識・愛)は、それ自身としてただ在ることで、
そこから自然にその場に応じた適切な反応、表現、対処、対応等が
自然に起こってくるものである
ということができます。

それは、
真我はそれ自身からすべてが現れていく源であるだけでなく、
その現れていった現れでもあるということ、
全体そのもの、ひとつであるすべて、
すべてのすべてである
という点からも理解することができます。
(ただひとつのそれ自身の中で、
自ずと適切さが行われる、バランス等がとられていく
ということ。
自然な展開等が起こっていくということ。)

真我の、
目の前にあるものをあるがままそのままに映し出すという質、
そして、
その場に応じて自然に起こる適切な反応、表現、対処、対応等は、
適切という点でそれ自身でもある知性を伴いながらも、
ただただ自然に無邪気に素直に柔らかく起こっていきます。

(適切という点に関しましては、
一点だけを一側面からみる限定された視点からは、
必ずしも適切とは見えないということもありますが、
プロセス等も含めた大きな視点、
多次元的な視点、全体的な視点、
または、相対的なマインドを超えた視点からは、
そうであると言うことができます。)


受講者
>>> どんどん努力し、器を広げて行ってください。
>>> 個人が努力し、器を広げて行くという体験も、
>>> とても貴重で尊い体験です。

ですよね。
きっと、みんなそれぞれの生きる状況の中で、
限界に直面しながら、少しずつ乗り越えたり成長したりしている、
そういうプロセスは尊いですよね。



本当にそうですね。


受講者
それは、たとえば
分らなかった他者の心や立場に対する理解力が大きくなったり、
うろたえていたものが、動じなくなったり、
一杯々々だったものが、余裕が出てきたり・・・。
そういう器の成長のことですよね。



はい。


受講者
でもそれは、理解力・思考力の器や、感情的な器であり、
思考も感情も、「現れの世界」のもの、
つまり「自我(マインド)」の領域のものだから・・・。



現れの世界の中にも、現れを超えたものが浸透しているとも言えます。


受講者
「自我(マインド)」をこえた自己に、自分の位置をシフトすると、
思考や感情の「自我の器」はそのままあっても、
それは「自己」ではない・・・「自己」に器はない、
そういう意味かと思います。



悟りの一瞥の体験などで、
一時的に強烈にそれそのものであるときなどは、
思考や感情などの自我の器が一時的になくなることがあります。
その後、また自我と自我の器
(器自体が自我とも言えますので、同じものでもありますが。)
がほとんどの場合は戻ってきます。
そこから、
さらに在るそのものであること、在るの位置に在ることを
繰り返していくことで
自我、あるいは、自我の器が変容していきます。
より制限のないもの、とらわれないものになっていきます。
現れの領域に源の質が浸透していき、
現れの領域にも無限性が現れてくるようになります。

ただ、無限性はありながら、
現れレベルの適切さ、自然さ、または、多様性
というものはありますので、そこには、
現れの視点から見れば、限界があるというように見えるものも
もちろん存在します。
さらに言えば、現れそのものが限界のことである、
限界があってはじめて現れることができる
とも言えます。
無限(真我・在る・愛)は、
無限のままでは自分自身を無限と感じることができません。
現れなければ、限界を体験しなければ、知覚できなければ、
真の自分自身を知ることができません。
無限は、限界の中で、それ自身の無限性を知ることができます。
現れの体験を通し、自分自身をトータルに知ることができます。

そういう点で、無限(真我・在る・愛)とは、
その中に限界を含んだすべてである
と言うことができます。

無限が、現れの世界を通し、限界を知る
という体験があります。
無限が、
現れの世界にありながら、無限そのものである自分自身に気づき、
そして、その立ち位置をシフトし、
限界がある現れの世界の中で、その無限性を実現していく、
その栄光そのものを実現していく、
という体験があります。

無限の中に、無限の限界が含まれています。
そしてまた、
無限にある限界、無限に多様な限界のすべての中に、
無限性が浸透しています。
すべての限界の構成要素は、無限(真我・在る・愛)です。
限界は、無限で作られています。
限界は、無限から現れます。
それは、無限のひとつのバリエーション、現れです。

そして、それを頭ではなく、存在全体で知ることができます。
それを実現し、それを生きることで知ることができます。
物理的な限界等を感じながら、
同時にそこに無限性を見、感じることができます。
限界とは、無限そのものです。
それを実感することが可能です。

(「限界とは、無限そのものである」、「限界の中に、無限性がある」
ということの理解の助けとして、似たような表現では、
「動中静あり」などがあります。)

ある意味、無限とは、
限界をどんどん広げていった延長線上にあるものではなく、
ある地点で起こるパラダイムシフトとも言うことができます。

すべての限界は、無限(真我・在る・愛)からできていた。
すべての限界は、無限(真我・在る・愛)そのものであった。
と存在全体で知ることです。

そして、その理解(自己理解)が深まっていけば、
現れレベルの限界もより広がっていくでしょう。
そしてまた、自然の自然たるところ、妙なるところは、
自己理解の深まりにおいて、
万人がすべての側面、思考、感情、肉体等において、
同じように同じようなペースで必ずしもそうなるわけではない
という点にあります。
そのことにより、
個性や多様性の素晴らしさがさらに輝き出します。
それは全体の中で、とても適切です。

ときには、怒り等の感情が起こること、
相手の立場を理解できないこと、
思考がうまく働かないことが、
全体にとって自然で適切で必要な場合もあります。

雨が降るのと同じように、悲しみや悦びが起こり、涙も流れます。
嵐が起こるのと同じように、感情が乱れることもあるでしょう。
雷が鳴ったり、火山が噴火するのと同じように
怒りが起こることもあるでしょう。

それらはすべて自然現象です。
(現れたものには、それなりの臨界点があります。
人間、そこから起こる思考、感情、自我も
自然現象のひとつと言えますが、
大地や空、火、水、木等との違いを見るのであれば、
そこに自我があるかないか
と言うことができます。
現れで不確かなものである自我は、
それ自身を確かなものにするために、自身を定義し、
在るから自然現象として起こってきたものを
自分のものとして所有する性質があります。
━その自我自体も
前述させて頂きましたように、
在るから起こってくる自然現象であり、
それが個人体験を可能なものとしています。━)

ただ、全体的な傾向としては、
自己理解が深まってくれば、
より捉われなくなり、ゆらがなくなってきます。
許容量は増していきます。
そして、それまでのパターン
(気にしていたパターン、捉われていたパターン等)からは
より自由になっていくということは確実に言えます。


受講者
肉体は物理的な「器」です。
運動能力や体力には「限界」が存在し、スポーツ選手などは、
日々、自分の器を自覚しながら、それを広げる努力をしています。
同様に、自我(マインド)にも、感情にも「器」があり、
そこに「限界」が存在するのは当然のことでしょう・・・。



そうですね。
前述させて頂いたように、現れ自体が限界、
ある意味では、無限を区切って、知覚、認識可能となったものと言うこともできます。


受講者
でも、「肉体」も「感情」も「思考」も、「自己」ではない、
それは、「全体でひとつ」として存在しているものの
ひとつの現れに過ぎず、
その「限界あるもの」が「自己(わたし)」ではない、
自己には器がない、器無きもの、定義できないものだ、
ということであれば、それは分る気がします。



そのような視点がひとつありますね。
トータルな視点からは、
限界あるものすべても含めたすべてのすべてが
自己であると言うこともできます。

ひとつの言い方をすれば、
限界あるものを除外するより、
それをも含むものの方が大きい、全体的である、無限性が高い
とも言えます。

限界あるものと無限を識別するのは、
限界に苦しんでいる者、
あるいは、それを超えて行こうとしている者への愛だ
と言うことができます。
そして、その識別のプロセスからスタートし、
無限を知り、
その立ち位置に立つことができるようになって、
自己理解が深まってくれば、
また見える景色が違ったものになってきます。
識別していたふたつがひとつであったことに気づきます。
限界の中に、無限を見出せるようになって来ます。


受講者
「気付き」そのものは、現れではなく、カタチもない、
現れを映し出しているもの、すべてを成り立たせているものだ、
というのは、感覚として分るものがあります。


ただ自分の場合、
現実に、ナメられたり差別されたりすれば、頭にきますし、
許容量をこえれば、うろたえたり、あせったり、パニクったり・・・、
そんな風に、「自己をかき乱されうる自分」を自覚しています。
そういう自分の「器」を、しょっちゅう感じています。



それは、多くの人が自然に感じているものですね。
それを定義している“自分の”器として見るのもよろしいと思いますし、
別の見方としては、
それは多様な自然現象として現れている存在それぞれの臨界点であり、
それを越えることにより、バランスを崩すなど、
現れ、表現に変化が起こる、
そして、それもまた自然現象なので、一定期間過ぎれば、
自ずとおさまっていく、と見ることもできます。


受講者
器(キャパシティ)とは、「バランス領域」と言えるのではないか、
と思います。



器を、
前回の返信やこれまでお話しして来た
「定義」や「輪郭」、「限界」等の他に、
キャパシティと捉えることもできますね。


受講者
何事も、キャパを超えてバランスを崩すと、
自然界(現れの世界)の存在も物事も、調和を失い、
崩壊してゆきます。



そうですね。
そして、また再生、新生、または、回復、修復等が自然に起こります。
また、大きな視点から見れば、
バランスの崩れは、大きなバランスの中にある、
不調和、崩壊もまた、そのように見ることも可能です。
(個人レベルでも、ある地点でバランスを崩すことにより、
さらにそれを超えて行こうとする努力が起こり、
限界の更新がなされると見ることもできます。)

現れと同一化し、それだけが自分だと思っているときには、
それをバランスの崩れ、不調和、崩壊としか見れませんが、
源と現れを含む全体の視点もあれば、
それもまた大きな調和の中で起きているもの、
と見ることが可能になります。
そして、自我なく、崩れそのものとなれば、それは崩れてはいません。
不調和そのものであれば、それ自身は、完全に調和の中にあります。
あらゆる変化の中で、あるがままそのままであることができれば、
常に大きなバランスの中にあることができます。
あるいは、バランスそのものとしてあることができます。


受講者
自分の場合、肉体(健康)も、気力も、感情も、思考力や意志力も、
そんなバランス領域の上に成り立っている、と思うのです。
そのバランス領域を超えてしまう時、動ぜず、揺るがずに
自己やアウェアネスを保ち続けることは、なかなかできません。



そうですね。
自然界では、臨界点を越えればそうなるのが自然です。
そこで、無空庵で大事にしているのが自己理解、
そして、その深まりです。
それは、マインドも含めた存在全体によるもの
と言うことができますが、
その核となるところは、マインドレベルではなく、
在るという存在レベルに在ります。
その自己理解が深ければ深いほど、
現れレベルのバランスも崩れにくくなるとも言えますし、
また、崩れることが全体として自然な場合には、
見事にただ崩れ、崩れそのものとなります。
そしてまた、自然そのものと同じように、自然回復します。
それがもしかしたら、
ひとりの存在のひとつの人生では回復しきらない場合も
あるかもしれません。
でも、それはいつか必ず回復します。
回復の仕方もまたそれぞれであり、
それは個人的な視点を超えた回復もあるでしょう。
それでも、それは全体として回復します。
自然の働き、自然の愛、自然現象は、計り知れなく、
個人単位で見る視点では捉えきれないこともあります。


受講者
そういう、自分が安定してアウェアネスやバランスを保っていられる
領域(許容量)のことを、自分の「器」と考えます。



自己理解が深ければ深いほど、許容量が大きくなり、
バランスを保っていられるようになる“傾向”があると言えます。
ただ、普段は許容量が大きい場合でも、
ある場面では、全体として、アンバランスが起こることが必要な場合、
それが自然で適切な場合は、
“なぜか”一時的に、許容量が狭くなり、
現れ的にはバランスを崩すということが起こる場合があります。
普段はそうではないのに、なぜかそのときはそうだった、
そうなってしまった、
ということは多くの方が体験されているのではないでしょうか。

個人(自我が思っている自分)は
起こることの真の主体ではありません。

(ただ、個人の核には気づきである真我があり、
その気づきが、全体をバランスさせたり、正したり、
器の成長ということにも働いていきます。
その段階では、自我と真我はミックスされていて、
起こったことを自分のものにしている
という点で、
主体は自我であると言うことができるでしょう。
そして、変容を起こしている主体は、
真我であるということができます。
自我は、それを自分の手柄とします。
━その自分の手柄とするという自我の働きもまた、
真我の
個人体験を可能とする本性である愛から
起こってくるものであり、
とても自然なものです。━)

そのようなことも含め、真の自己理解が深まっていけば、
よりあるがままで在れるようになるでしょう。
起こっていることをしっかり認識し、体験しながらも、
よりそれにとらわれなくなって行くでしょう。


受講者
自分が、バランスのとれたところにいられるとき、
自分は安定して、おだやかで、ゆとりもあり、
自分なりの自然な気づきもあります。
しかし、そのバランスをとれる許容量を超えて、
それが崩れたり、弱点を突かれたり、かき乱されれば、
パニクッたり、うろたえたり、イラついたり・・・。
そういう「器」、限界領域がどのあたりか、ということを見極めることが、
仕事でも人間関係でも大事で、
責任能力とか、物事の対応能力とか、信頼される力、受容能力、
包容力とかリーダーの器とか、
いろんなものを形づくっていると思います。



そうですね。
前述させて頂いたように、限界という器そのものが、
現れの世界の様々なものを形づくっていますね。


受講者
「器」がない、ということは、
そういう「現象界の器」がどんな目にあっても、
つまり現象界のあらゆる出来事への反応に対して、
影響されず、動じないアウェアネス、
ということなのでしょうか・・・?



『>>> どんどん努力し、器を広げて行ってください。
>>> 個人が努力し、器を広げて行くという体験も、
>>> とても貴重で尊い体験です。
>>> それもまた比類なきものと言うことができます。
>>> そして、最終的に、個人である自分自身を超えると、
>>>器自体がなくなり、無限そのものとなります。
>>>器がなくなるので、
>>> 計れないもの、計り知れないものとなります。』

と返信させて頂きましたが、
これは、前々回書いて頂いたことに対応して、
ひとつの流れとしてコンパクトに起こってきたものであり、
その詳細に関しては、これまで挙げさせて頂いたとおりとなります。
在るから起こることは、その必要性に応じてあるがままです。
今回、また「器」ということに関しまして
ピックアップして書いて頂いたことにより、
その必要性から、前々回書かせて頂いた内容が、
さらに詳しく開かれるということが起こりました。
これが在るの在り方、(創造の)起こり方、現れ方です。

これまでの返信部分等も長くなっていますので、
確認の意味で、ひとつの流れ、プロセスを見ながら、
再度、書き直させて頂きましょう。

はじめに、
個人である自分自身がすべてであるという認識、観念の状態から、
その個人に気づいている在る(真我)に気づきます。
在る自身はただ在るだけで、
ナメられたり差別されても、頭にきたりしません。
(それが全体、あるいは、関係性の中で必要であれば、
在るから頭にくるということが起こる場合はあります。
それでも在る自体が頭にきているわけではありません。
在るは、
それ自身から起こったものに最終的な責任を持っているのと同時に、
それ自身から起こったものから完全に自由です。)

ただ、この段階では、
在るは、現れの世界で何が起こっても影響を受けないものである
とそれなりに知ることはできても、
主体がまだ個人であることが多く、
頭にくることに巻き込まれる
ということが起こります。

そこから、立ち位置が在る(真我)の方にシフト、
あるいは、認識の主体が純化されていくことにより、
徐々に、
まずは頭にくるという反応は起こるけれど、
それを長く引きずらなくなる。
そして、
頭にくるという変化が起こる臨界点、
許容できる範囲も広がっていく、
という感じで変容が起こっていきます。

そして、
さらに在るであることを何度も繰り返し、
それに何度も戻ることで、
その在るの質が、現れレベルにもさらに浸透し、
現れレベルがさらに変容していきます。

反応は起こっても、それで完結する。
その後に、さらなるマインドが続いていかない。
許容できる範囲がさらに広がる、
気づきながら、ニュートラルな視点から、
ここは何かしら言い返したりした方がよいだろう
という場面やポイントでは、
反応できるようになる、
反応が自然に起こるようになる、
さらには、
それまで反応が起こっていたのが、起こらなくなる
ということもあります。

ただ、前述させて頂いたように、
すべての反応がどんなときでも起こらなくなる
ということではありません。
それでは、世界は止まってしまいます。
創造は止んでしまいます。

起こることは起こります。
ただそれにとらわれなくなります。
とらわれが自然に起こることにも
とらわれなくなっていきます。
あるがままで在れるようになります。
すべてを
ただそうである(愛)
と見れるようになっていきます。


受講者
たしかに、「純粋な気付きそのもの」にはカタチもなく、
ありとあらゆる現れや存在を映し出し、包みこみ、
姿を変えつつ生み出しているものであり、定義不能で「器がない」、
という意味はわかります。

しかし、その「定義のない気付き(アウェアネス)の状態」を、
保てる(感じられる)領域に、限界や許容量がある、



保つということに焦点を当てるよりも、
何度もそこに注意を向け、
それそのもので在る体験を重ねていく、
それにより、自己理解を深めていく、
というスタンスがよろしいですね。

焦点が様々なところに移るということも
在るから自然に起こっていきますので。


受講者
特にそれが、自分の場合、あまり褒められたレベルではない、
ということに、自分の未熟な「器」を、日々感じているのです。



それは、在るそのものであることを繰り返していくこと、
何度もそれに戻ることを繰り返していくことで、
広がり、大きなものとなっていきます。


受講者
>> 器がなくなる、というのは、自分にはまだよくわかっていないと思います。

とは、そういう意味です。



そうでしたか。
在るそのものであることを繰り返していき、
何度もそれに戻ることを繰り返していき、
自己理解を深め、それを体験を通して知っていきましょう。


受講者
ですが、たとえば路など歩いて景色を見ながら、
見ている世界が「自分の意識そのもの」であり、
ただそれだけが広がって、そこに「個人」はいない、
という感覚は、最近、意識的によく感じています。



とてもいいですね。


受講者
それは、「特に今までにないような特別な気付き」であったり、
「エクスタティックな感覚」だったり、
というわけではありませんが、
無空さんが、「個人がいない」とおっしゃる意味は、このことか・・・、
と、自覚的にそれを意識するようにしています。



それは素晴らしい実践です。
その実践により、個人からより自由になっていきます。
自己理解も深まっていきます。
これまでよりも、現れにより巻き込まれにくくなっていきます。
そして、その「個人がいない」と自覚的に意識している者自体が、
個人でないということの自覚、認識は、
さらなる主体の純化を促し、
自己理解のさらなる深まりにつながっていきます。

(なかには、あるいは、プロセスのはじめの段階では、
個人が、あるいは、個人がミックスされた状態で、
「個人がいない」ということに気づいている場合があります。
ただそれそのものとして、それ自身に気づいている在り方が、
もっとも純粋な在り方、もっとも純度の高い在り方です。)


受講者
そして、その「現れの世界」をこえて、
それを映し出している「純粋な意識」を、ただ意識すること、
そこにただ気付きを向ける、ということが、
ただ、ものごとを秩序づけ、癒し、進めていく、という感覚を、
最近、再び感じたり思い出したりしています。



素晴らしいですね。
それ(在る・真我・愛・純粋な意識)は、
知性そのもの、秩序そのものであり、
すべてを正すもの、すべてを癒すもの、
すべてを展開させていくものでもあります。


受講者
それをより深く追求してみたいと思います。



是非。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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