立ち位置、主体が何ものであるかにより、マインドの見え方、感じ方は変わってくる
受講者
これまでは、マインドに引きずられるままだったり、よく言われる「マインドの奴隷」状態でした。
たとえば、日常的なことですが、疲れているから休みたいと思って休んでも、なんだか罪悪感があったりとか。 休みたい時は、ただ休めばいいだけなんですけどね。
師
休みたいを個人所有せず(「私が休みたい」とせず)、
ただ「休みたい」だけが在る、それが起こっているという理解で在りましょう。
それは、自然(全体)そのものの中で起こる純粋な自然現象です。
(雨は、「私が降りたい」と思って降っているわけではなく、風は、「私が吹きたい」と思って吹いているわけではありません。それは、ただそうであるだけ、雨はただ降り、風はただ吹くだけです。そこに「私が」はありません。現れている肉体も、心もただ休むだけ、それが自然に起こるだけです。現れている自我、「私」の休みは、それが消えているとき、起こっていないとき、真我・在るに溶け、ひとつになっているときです。自我が「休みたい」と思っているとき、自我が「私は休んでいる」と思っているとき、自我はめいっぱい働いています。)
真我の視点からは、そこに休みたい個人はいません。
受講者
このマインドのパターンは完全になくなっているわけではありませんが、少しずつ、落ち着いてきているように感じます。
また、つい最近まで、よく無空さんに「これはマインドなんでしょうか?」と質問しており、在るがチェック機能を果たします、と無空さんがおっしゃっていましたが、
そのあたりも、「あ、これは個人だ」と、微細なところに気づけるようになってきたと感じます。
そして、個人を感じるが起こると、自然に在るに戻るが起きているような気がします。
ほぼ、同時くらいです。個人だと気づけば気づくほど、それと同時に在るというしっかりとした土台のような、基盤のようなものを感じます。
師
そのとき、起こってくる個人は、在るをより確かなものにしてくれるもうひとつの在る(在るはひとつですが、源であるまま現れとしても現れます。)、在るが別の姿で現れているものということも分かってくるかもしれませんね。
起こってくる個人は、あるときは、個人体験を与えてくれるもの、
その源である真我へと意識を向け始めた時などは、ときにはそれを妨げるようにも見えるもの、
より進んでいけば、それは真我であることをより確かなものにしてくれるもの、
すべてが統合され、ひとつであったことが実現されるようになれば、それは分かつことができないもの、存在全体に深み、厚み、幅、奥行き、トータルさ等をもたらしてくれるものとなります。
同じもの(起こってくる個人)が、主体の立ち位置、ステージ、在り方等により、自然に、ただ自然に、それはそのような意図を持たないまま、(マインド的に見れば)様々な役割を果たしてくれます。
受講者
そして、それを感じれば感じるほど、なんともいいようのない喜び、安心感、永遠不変の愛などを感じます。
マインドかわいい、と感じることもあります。
師
在るで在ると、その立ち位置であると、自然にそのような思い、感じが起こってくることがありますね。
マインドはいつもただマインドであり、同じものですが、立ち位置、主体が何ものであるかにより、マインドの見え方、感じ方は変わってきます。
マインドを嫌ったり、嫌がったりするのもまたマインドであり、また逆に、マインドを弁護しているような場合も、マインド主体であることもあります(本人はなかなか気づきませんが。)。
これまでは、マインドに引きずられるままだったり、よく言われる「マインドの奴隷」状態でした。
たとえば、日常的なことですが、疲れているから休みたいと思って休んでも、なんだか罪悪感があったりとか。 休みたい時は、ただ休めばいいだけなんですけどね。
師
休みたいを個人所有せず(「私が休みたい」とせず)、
ただ「休みたい」だけが在る、それが起こっているという理解で在りましょう。
それは、自然(全体)そのものの中で起こる純粋な自然現象です。
(雨は、「私が降りたい」と思って降っているわけではなく、風は、「私が吹きたい」と思って吹いているわけではありません。それは、ただそうであるだけ、雨はただ降り、風はただ吹くだけです。そこに「私が」はありません。現れている肉体も、心もただ休むだけ、それが自然に起こるだけです。現れている自我、「私」の休みは、それが消えているとき、起こっていないとき、真我・在るに溶け、ひとつになっているときです。自我が「休みたい」と思っているとき、自我が「私は休んでいる」と思っているとき、自我はめいっぱい働いています。)
真我の視点からは、そこに休みたい個人はいません。
受講者
このマインドのパターンは完全になくなっているわけではありませんが、少しずつ、落ち着いてきているように感じます。
また、つい最近まで、よく無空さんに「これはマインドなんでしょうか?」と質問しており、在るがチェック機能を果たします、と無空さんがおっしゃっていましたが、
そのあたりも、「あ、これは個人だ」と、微細なところに気づけるようになってきたと感じます。
そして、個人を感じるが起こると、自然に在るに戻るが起きているような気がします。
ほぼ、同時くらいです。個人だと気づけば気づくほど、それと同時に在るというしっかりとした土台のような、基盤のようなものを感じます。
師
そのとき、起こってくる個人は、在るをより確かなものにしてくれるもうひとつの在る(在るはひとつですが、源であるまま現れとしても現れます。)、在るが別の姿で現れているものということも分かってくるかもしれませんね。
起こってくる個人は、あるときは、個人体験を与えてくれるもの、
その源である真我へと意識を向け始めた時などは、ときにはそれを妨げるようにも見えるもの、
より進んでいけば、それは真我であることをより確かなものにしてくれるもの、
すべてが統合され、ひとつであったことが実現されるようになれば、それは分かつことができないもの、存在全体に深み、厚み、幅、奥行き、トータルさ等をもたらしてくれるものとなります。
同じもの(起こってくる個人)が、主体の立ち位置、ステージ、在り方等により、自然に、ただ自然に、それはそのような意図を持たないまま、(マインド的に見れば)様々な役割を果たしてくれます。
受講者
そして、それを感じれば感じるほど、なんともいいようのない喜び、安心感、永遠不変の愛などを感じます。
マインドかわいい、と感じることもあります。
師
在るで在ると、その立ち位置であると、自然にそのような思い、感じが起こってくることがありますね。
マインドはいつもただマインドであり、同じものですが、立ち位置、主体が何ものであるかにより、マインドの見え方、感じ方は変わってきます。
マインドを嫌ったり、嫌がったりするのもまたマインドであり、また逆に、マインドを弁護しているような場合も、マインド主体であることもあります(本人はなかなか気づきませんが。)。
スポンサーサイト