無限にある視点は、ただひとつであるものをどのように見るか、どのように見たかだけの違い

受講者
自分が最近、個人的に取り組んでいるものに、○○博士の○○というメソッドがあります。
(その時に起こっていることが、自分の中では共鳴と同じようなことではないか、と思います。)



わたしは詳しくは知りませんが、例え同じ意識共鳴でも、
(深い部分での)在り方、純度、成熟度合い、理解の深さ、
どこに焦点が当たっているのか、

また、共鳴中はただ在るとしても、
その共鳴は、何のために行っているのか、
どのような動機で行っているのか、
ただ漠然と、ただ何となく、現れのために、
ひたすら真我実現のために、変わらない幸せのために、
個人を超えていくために、
その思い、その意識の強さ、深さ、真剣さ、誠実さ等、
そして、
真の「ただ」、ただそれが真我から起こっているという場合とでは、
ただ在る共鳴時に自然に起こることは、
それぞれ違ってくるとも言えます。

(それは、立場を変えて等の共鳴時に、
他の共鳴時と体験が違ってくることがあること等からも
お分かり頂けるかも知れませんね。)


受講者
父と母に対して○○(メソッド)をやっているとき、自分は両親との意識の共鳴を感じます。
その感覚を感じると自分も元気になりますし、何か充実感のようなものを感じられます。



素晴らしい共鳴が起こっていますね。
身近な方の場合は、特に共鳴は起こりやすいでしょう。


受講者
それで、先日「両親との関係」について○○(メソッド)をやっていたら、母から連絡が入りました。
父の機嫌が悪いので、しばらく家に来ないように言われていたのですが、
よかったら来てくれないか、と誘われました。
行くと、父からも「先日は怒鳴ってすまなかったな。」と謝られました。
かつての父からは、とても考えられなかったことです。



意識が変われば、現れも変わることがありますね。


受講者
そして、母の骨折して腕が上がらない左肩と、坐骨神経痛のマッサージをしたのですが、
その翌朝、朝の寝起きの時に、昔(高校時代)のことを思い出しました。
その時思い出したのは、母との関係性に関して、自分にとっては決して楽しくない思い出で、当時の大きなストレスになっていたことだったのでした。

それが、気付くとその頃の思い出とともに、その頃のエネルギーや感覚が身体に甦っていました。
ですが、その自分を覆っているエネルギーや感覚に対して、何もせずにじっと放って置くことができました。



覚醒度(気づいている度)、在る度、あるがまま度が高かったですね。


受講者
つまり、その感覚に対して、ごくわずかですが距離を保っていることができました。
その感覚に対して、ほんの少しでも抵抗したりすれば、あっという間に身体にその感覚が組み込まれ、筋肉の力みとともに同一化してしまうだろうな・・・、というのを感じていました。
ですが、どうにかそっと何もせず、同一化せずにやり過ごすことができました。

ああ、今まで長い間引きずっていたものは、これだったのだな・・・、と寝覚めの意識の中で感じました。
きっと、昨日マッサージしたことがよかったんだろうな・・・、と思いました。
そういうエネルギーの感覚というのは、多分自分ひとりではなく、母や家族とすべてつながっているんだろうな・・・、とも思いました。
つまり、自分があの時解放されたエネルギーは、多分自分だけではなく、母もそうでしょうし、おそらくは芋づる式に、それに関わる様々な「エネルギーのもつれ」のようなものだったのであり、それが力を失って消えていった、という気がしました。



そうですね。
ただ在ること、ただ気づいていることは、とても大きな働きをしますね。


受講者
書きながら、なんだか庭の草取りをしているときの、こんがらがった雑草や切り株の根っこを、少しずつほぐして抜いていくイメージを思い出しました。
一本抜けたからといって、それですべてがなくなるわけではないのですが、でも確実に軽くなった感覚もありますし、抜けた根や草の蔓などを見て、「おお、でっかいのが抜けたなぁ」という実感もあります。(笑)
なんだか、その「有機的なもつれ具合」が似ているなぁ、と・・・。



よい例えですね。
ただ在ること、ただ気づいていることの実践を続けていかれれば、
それらのもつれは、どんどんほぐれていくでしょう。


受講者
ですが、自分の中に疑問もあります。
○○博士なども、よく「努力を手放す」ことを言われますし、
「やる」ことが少ないほど、「完全性」が出現する、とも言われます。



無空庵では、「努力」に関しては、“起こる”という視点です。
それは、必要なときには、在るから自然に起こる、
努力している個人はいない、という視点が
真我・在るのひとつの視点です。

また、無空庵では、あまり「手放す」という表現は使いません。
それは、「手放す」のは個人だからです。
ただ、やはりその立ち位置にあるときに、
それが自然であり、それが有効であるようなときには、
それを確認し、「手放す」を奨励することはあります。
そしてさらに、同時に、「手放す」が“起こっている”という視点も持つようお伝えしています。
「起こっている」という視点は、
行為者・行為の主体となってしまう個人ではなく、
在るの視点、在るの立ち位置です。

また、在るは、在るだけですべてを為しているということは、
無空庵でも言っています。


受講者
先日の共鳴セッションの中でも、「今この瞬間」の持つ『完全性』ということが、話題になりました。
しかし、自分が一番深く自分の生命の充実や至福を感じた瞬間というのは、振り返ってみて、ただすべてを手放して「楽をしている」とき、という感じではないのです。



個人が生命の充実を感じるのは、頑張っているときです。


受講者
それが起こったとき、というのは、だいたい人生で何か大きな負荷がかかって大きくバランスを崩し、追い詰められた苦しみに対して、限界まで頑張る中で、何か状況を転換させるような運命の変化が起きて、大きな気付きや回復が起こったタイミングで、そういう感情の高密度な充実感、エクスタシーのような感覚を感じたような気がします。



本当に限界まで頑張っているようなときには、
その限界地点では、無心・無我(無我夢中)・頑張りそのものとなり、
手放しが起こっている状態になることが多いです。
その状態は在るであり、真の無為とも言えます。

そして、そのときに起こってきた素晴らしい感覚、体験を
個人が自分のもの(自分の体験)とする、所有するというのが、
自然に起こっていること(個人体験)です。

マインド(個人)を超えた在るの一元的な視点からは、
そのときには、感覚だけ、体験だけがあり、体験者はいない、
あるいは、体験そのものが体験している、感覚そのものが感じている
という言い方もできるかもしれません。
それが一元性からの視点です。

また、すべてを含む在るのトータルな視点からは、
透明な個人感覚も含め、
すべての感覚が、ひとつの体験の中に重なり、溶け合い、含まれている、
と言うことができます。
在るに確立し、個人に固執しなくなり、捉われなくなれば、自然に、
個人を含む現れのすべてをあたたかく、軽やかに包み込めるようになり、
すべては統合され、
すべては、もともとひとつであったという真実、事実が
自然に実現されるようになります。
そこでは、真我だけがあるという言い方もできますし、
個も真我もない、あるいは、個も真我も違いはない、
と言うことができ、
個のまま真我、個のまま在る、する=在る、として、
存在全体でひとつであるものとして、
とても自然に在れるようになります。


受講者
つまりそういう解放が「起きている時」は、確かにそのときには、深い解放と大きな自由、無限の感覚などを感じていますが、それが起きる前には、限界を思い知らされるような苦しみや、その限界を超えようとする全力の努力がいつもあった、と思うのです。



それは、エックハルト・トールさんの
「悟りをひらくと人生はシンプルで楽になる」という本に書いてあった、
「十字架の道」という見方にも通じるところがありますね。
(苦しみやそれをもたらすような大きな出来事━十字架━により、
手放しが起こり、悟りを開く、悟りが開かれるというような見方。)
マインドを限界まで働かせ、自然にマインドが落ちる、
または、マインドが絶えられないようなことが起こり、
マインドが落ちる、
そこで制限をつくっていたマインドがはずれ、
大きな解放感や自由、無限を感じる。

また、それまでが大変であったからこそ、相対的な面からも、
大きな自由や深い解放感を感じることができるという部分もあります。
そのような在り方、進み方は、
間違いなく深い解放や大きな自由、無限の感覚を感じるための
ひとつの道、方法だと言えます。
また、それは、マインドの成熟、存在の全体の成熟という点でも、
有効であると言うことができます。

(ですから、無空庵でも、
夢や現れレベルで実現したいことがあれば、
社会的に見て、明らかに他の方に迷惑をかけるようなものでない限り、
その実現に向けて努力することも支持しています。

そしてまた、
それが何か具体的な現れレベルの実現を目指すもの、
特定のゴールを目指すものであると同時に、
そのような生き方そのもの、努力自体、
そのひとつひとつ、その一瞬一瞬が
在るの現れ、在るの実現、在るそのものでもあり、
そのひとつひとつ、その一瞬一瞬の今が、
何よりも尊いものである、ということも言えます。)


受講者
そしてそのプロセスが、自分の器を広げるための大きな糧になっているような気がするのです。



そうですね。
そして、ご自身の限界をどんどん超え、
最後に超えて行くのは、個人である自分自身です。
そこまでは、
個人として努力するというエネルギーは自然に働き続けますので、
どんどん努力し、器を広げて行ってください。
個人が努力し、器を広げて行くという体験も、
とても貴重で尊い体験です。
それもまた比類なきものと言うことができます。
そして、最終的に、個人である自分自身を超えると、
器自体がなくなり、無限そのものとなります。
器がなくなるので、計れないもの、計り知れないものとなります。

(このように、
直線的な時間の流れという視点を前提とした、プロセスという見方、
その中での変化、成長等という見方の他に、

前述したように、
在ること、起こることのひとつひとつ、一瞬一瞬が、
他に比類することなく、尊く素晴らしいものである、
それがすべてである、今にすべてがある、
という視点があります。

このふたつの視点、あるいは、その他にも無限にある視点は、
ただひとつであるものを
どのように見るか、どのように見たかだけの違いで、
けっして対立したり、矛盾したりするものではありません。
もし、対立するように見えるのであれば、
あるいは、そこに対立が起こっているようであれば、
それは視点自体ではなく、
その視点に固執し、その視点を自分のものとして所有している
個人・マインドが対立しているのです。
自分の方の正当性を主張し、
自分の方が正しく、他の方は間違っているという、分離感と、
ある意味、実在でない、実在していないという
自覚から生まれるマインド的な性質、本性が
そのようにさせているのです。)


受講者
ですから○○博士のおっしゃるように、ただ無為であり、すべての努力もストレスも全く必要ない、という視点や立場で、人生というものを見てもよいのだろうか・・・?



個人の器を広げるためにということであれば、
それら努力等は必要であると言えますね。
また、
深い解放と大きな自由、無限の感覚などを感じるために
ということであれば、
それは、今在る立ち位置によります。

深い解放と大きな自由、無限の感覚などを感じるために、
目いっぱいの努力が必要な場合もあります。

また、その目いっぱいの個人の努力を必要とせず
(傍から見ると、
目いっぱいの努力をしている人がいるように見えるかもしれませんが、
当の存在には、
それはただ起こっていることとして認識されている、
あるいは、起こっていることそのものとなっている)、
解放そのもの、自由そのもの、無限そのもの
である場合もあります。

(その他、
真の自己理解が深く、源と現れ全体が統合され、
ひとつであるものであることが自然なものとなっている場合は、
何事も排除されず、全てがその中に包含され、
透明な個人の努力が起こっているということも
軽やかに感じられながら
━完全に個人がいないこともありますが━、
かつ、それにとらわれずに、
解放そのもの、自由そのもの、無限そのものとして在ること、
すべてのすべてであることができます。)

また、
やはりそれぞれの立ち位置による
メインとなる視点というものはあると思いますが、
それ以外に、様々な視点を持てるようになると、
より許容量も増え、安定感が増し、器も大きく、
在り方もより大きく在れるようになるのではないかと思います。


受講者
というのが疑問です。
そんなことを、若干の引っ掛かりとして心に感じたりします。

「ただ無為であり、すべての努力もストレスも全く必要ない、という視点や立場で、人生というものを見てもよいのだろうか・・・?」



これもひとつの視点ですね。
貴重な個人体験の最中の方に、これを言うことは
適切ではないとも言えます。
また、すべての努力も必要ないということを
マインドで一面的に捉えてしまうと、
ただの怠け者になってしまうだけです。

個人体験も大詰めを迎え、
個人を超えたところへシフトしようとしている方等には、
上記の括弧書きのような視点は、よいかもしれません。

そして、個人を超えたところを知っている方、
そこに在る方、それである方には、
その視点から見るならば、
それはまったくその通りであるということになるでしょう。

もしくは、様々な補足の仕方ができますが、
もう少し言葉を加えれば、
マインド的な誤解を与えなくてもすむようになるかもしれません。
(在るをトータルに真に深く実現すれば、
「ただ無為であり、~という視点や立場で、
人生を見ることができるようになる。」とか、
「ただ無為であり、~という視点や立場は、
在り方に関するものであり、
現れレベルでは、努力等は必要。
ただ在ることで、それは必要に応じ、自然に起こる」等。)

すべてを包含するトータルな視点からは、
現れレベルの成長、成熟には
(さらに大きく見れば、存在全体の成熟にも)、
すること、努力、適度なストレスも必要である
(個人を超えた視点からは、それが起こることが必要である)
ということが言えます。

無為、努力、ストレスも全く必要ない、
というのは、
在るの状態、在り方です。

在るは、すべてが起こる源です。
(在るから起こったものも、在るであると言うこともできますが。)
在るから、
する、努力、適度なストレスも起こります。
ですが、在るは、
それらから自由であり、それらに影響を受けません。
ですから、このふたつは矛盾しません。

在るの在り方が、
存在全体、日常、人生にも浸透するには
(する=在る・無為、または、在る・無為からする、
努力が自然に起こるようになるには、
それが自覚できるようになるには、)、
在るの実践(在るに意識を向けること、在るそのものであること)
の積み重ねが必要である
ということができます。


受講者
ですが、それはそれで保留にしつつ、じっくりと経験や観察、思考(視点)などを熟成させる必要を感じています。



それはとても成熟した態度であるとも言えますね。


受講者
もっと深く理解が起これば、きっとそのうち分る事だろうな・・・、とも思いますので・・・。
でも、無空さんはそれについて、どのようにお考えか、伺ってみたい気持ちもあります。
そんなことを思うこのごろです。



上記が参考になればと思います。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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