最終的には、すべては自然である、あるがままである、というところに落ち着く

受講者
セッション最初の頃、無空さんに質問しました

「意識に意識を向けようとしているのは誰なんですか?」

無空さんは

「真我です」

と、はっきりおっしゃいました。



いつもブログ等でも書いているように、
どのような場面で、どのような方にお伝えするかで、表現も変わってきます。
視点により、~しようとするのは、個人という言い方をする場合もありますが、
(その核、その背後には真我が在る。というようなフォローを入れる場合も
あります。また、立ち位置が真我の方にシフトし、現れを含め、全体が統合される
まで、もともとひとつであったことが自然なものとなるまでは、~しようとするのは、
個人であるという言い方をするケースは、今の所、多いかもしれません。
真我自体には、~しようという意図はなく━自己理解という点で大切です。━
、そこから~しようとする意図が起こる。~しようとする個人が起こる。)
究極的には、真我(意識)だけがあるわけですから、
究極的な答えとしては、真我以外のものにはなりえません。


受講者
探究者は、真我そのものだった。

真我が真我を探していたんだ。

最初から、それしかいなかったんだ。

ただ、個人と同一化が起こっている時は、それに気づきませんし



そうですね。

そのため、個人に気づいている真我(意識)に気づく必要があります。

その不動不変の気づきの視点を持つため、それを確かなものにするために、

ひとつの方法として、源(真我・意識)と現れ(個人等)を識別するということが、

有効となってきます。

そして、その不動不変の気づきが確かなものとなれば、自ずと、現れもまた、

真我であるという認識が起こり、気づき・認識の純粋な主体と客体(対象)がひとつになり、

もともとすべてはひとつ、すべては真我であったという理解が絶対的なものとなっていきます。


受講者
巻き込まれるも、マインドと同一化が起こっていて苦しいだけです。苦しみに巻き込まれます。

それさえも、気づきに在れば、真我・在るから起こっているという視点です。気づきの一点からすべてをひっくり返すことができる、と無空さんがおっしゃったことの腑に落ち感。



そうです。

ひとつの気づきで、すべてをひっくり返すことができます。


受講者
だからといって、巻き込まれて苦しむ必要はないですが、この理解さえしっかりあれば、巻きこまれが起こっても、ただそうである、と、安心の中、気づきに戻り、現象から早く離れることができるのですね



そうですね。

現象から早く離れられるという現れ的利点もありますが、最終的には、すべては自然である、

あるがままである、というところに落ち着きます。

(「ただそうである、安心」とも書かれてありますね。)

それは、ある意味、真我を知り、すべてが統合される前とまったく同じであるとも言え、

同時に、まったく同じようでもありながら、実質は、まるっきり違うとも言えます。

すべては、自然である、あるがまま起こるがまま、ただそうである、と深く知っていることによって、

存在全体の安定感、やわらかさ、落ち着き、くつろぎ度合い、安らぎ度合い等すべてが

大きく変わってきます。

その理解(知ることの深さ)は無限であり、それが深まれば深まるほど、感じられ、実現される

存在の安定感、やわらかさ、平和、幸せ、喜び等は、計り知れないものとなっていきます。

自然、あるがまま、ただそうである、あるいは、ただ、というところから感じられる味わいの深さ、

広がり等は、本当に無限です。

それは、深遠、神聖なる未知の開かれ、無限の宇宙創造、宇宙体験、命そのもの、

生命そのものの体験とも言えます。


受講者
すべては、真我・ゼロから起こり、どんな体験も現象も、真我・ゼロに戻っていく

体験・現象もただあるだけ、起こるだけで、意味は超えています

超えているというより、もともと意味はなく。  

起こっては消えゆく現象に左右されずに

真我はいつも、ただ在る

そのなぁんにもない、真我・ゼロの、安らぎ、くつろぎは、絶対、確かなるものです。

それはエクスタシーを超えています。


そうです。


受講者
ただ、真我の自由性により、フォーカスしたものを体験するので、起きてきたことを体験するだけです(体験するものはいません)

喜びそのもの、悲しみそのもの、怒りそのものだけがあります

そこには、もう巻き込まれはなく(あったとしても)在るの中でそのものがあるがままにあるだけです。



そのとおりです。


受講者
まるで、存在の詩のようです(Oshoの本のタイトルの一つにありましたかね…)

抵抗がおきても、起こるがまま、気づいているだけです
もや~があったとしても、雲が自然に起きるように、そのもや~も自然のままに、起こるがまま、ただそうであると気づいているだけです。

恩寵は、この一瞬一瞬すべてのすみずみにあまねく…。これを感じるかどうかは、(感じる個人はいませんが)ひとえにどう在るか、にかかっています。一瞬一瞬の在り方・気づき次第。在る=恩寵。どこからやってくるものでもない。すでに在る。恩寵そのもの。

そして、ゼロ・真我は、すさまじく底なしで、すべてを飲みこみ、洗い流し、そして、復帰させる。そのすさまじさは轟音の滝のようで。すさまじく飲み込むはやさしく包み込むと等しく。真我が真我自身を支え、育んでいる。それがそれをたらしめ。あまりにも自然で普通で当たり前に自動的に起こっているのでその壮大さ偉大さに気づくのはマインドには難しい



そうですね。


受講者
いまは、ここまでの理解です



素晴らしい理解ですね。


受講者
ここまで書いて、気が付きましたが、「起こってくる体験・現象に意味はない」と書きましたが、意味がないという視点があると同時に、真我から起こってくる現象・すべては、真我の恩寵ともいえます


いろいろ書きましたが

「なんにもない」(意識を向けると、空の意識があるだけ)

いまは、この一言に尽きます。



そこにすべてがあり、そして、同時にそこには何もありません。

マインドを超えたところでは、すべてがあると何も無いに違いはありません。

ふたつは同じもの、ひとつです。

それほどに、そこはそれであり、それはそれであります。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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