在るの自然な在り方の全的理解

受講者
先ほどはセッションをありがとうございました


大きなこだわりが

ひとつ消えた感じでした


「在る」ことの理解は

これだけセッションを受けていても

あれ!!??って感じでしたね



はい、在るの大きさ、奥深さ、

また、その自然さ、シンプルさ、普通さ、当たり前さは無限です。

それは桁違いに大きく、桁違いに当たり前です。


受講者
人として「在る」

人ではない

そのように人を超えた(感情ではない記憶ではない思考ではない)存在でありながら

あのね

それが「人」



はい。

人は現れた在る、実現された在る、

在るそのものです。

悟りを「差取り」と表現されたりすることもありますが、

(20年くらい前に何かの本でこの表現に出会いました。

この「差取り」自体も様々な意味で使われていることと思いますが。)

それも確かなひとつの視点ではありますが、

どのような状態、どのようなプロセスにあっても、

そこ(人と在るの間)にはまったく差がない、

1ミリの差、違いもない、

寸分違わず、

まったくのイコール

それ

そのもの


それだけが在るのに

それ以外のものがあるわけがない

すでにそうであり、

すでにそれである

今それである、

これまでもそれであり、

これからもずっとそれである

それ以外に在りて在るものなし、


という理解(視点、真実)があります。


差を取っていくという視点と

もともと差など存在しないという視点は、

見方の違い(どこからどのように見るかの違い)であり、

存在の中ではけっして対立するものではありません。


無空庵で言えば、

在るに意識を合わせ、

在るに戻ることを繰り返していく過程で、

浄化が起こったり、

歪みやアンバランスが正されたり、

もう不用になった様々なものが落ちていったりということが起こりますが、

そのことを、まったき純粋なそれ(在る、真我、本質)との差を取っていく

ひとつのプロセスとしても見ることも可能です。

(その過程で在るの理解が深まったり、ある意味、差がなくなってからも

それ自体の理解の深まりは無限に起こっていきますので、この点では

「差取り」という表現ではカバーしきれない部分もあります。)


差がなくなる(多くの場合、まず意識レベルにおいて。主体の純化とも言えます。)、

今、よく使われているようですが、

これもひとつの「非二元」と言えます(意識レベルにおける非二元とも言えるかもしれません。)。

ある意味、人から在る(本質、真我、人を超えたもの、個人はいない、)

人→在る

これを大きくひとつのプロセスと見るなら、

次は、在る(本質)→人(現れ)

(別の表現としては、人→在る、そして、次は、主体、立ち位置、視点、自己理解、自己認識、在り方が変わるため、

在る→人へという→ではなく、○、

在る、本質の全方向への浸透、あるいは、包み込み、あるいは、方向というものがなくなる、

ただ○の拡大、○の深まり、

という表現をもって、それを表現することもできるでしょう。

その他には、○、次も、○、あるいは、ずっと、○ という視点も在ります。)

本質の現れへの浸透、統合のプロセスがあります。

プロセスがあるという点では、十牛図の説明なども参考になるかもしれません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%89%9B%E5%9B%B3

共鳴においては、あるいは、共鳴のときだけでなくても、

常に双方向(人→在る、在る→人)の動きがあり、両方が同時に進んでいくとも言えますが、

存在全体の成熟、統合のプロセスにおいては、しっかりとした土台が必要です。

そのしっかりとした土台となり得るのは、起こっては消えていく個人(現れた在る)ではなく、

変わらない本質である在る(絶対)です。

(見方によっては、個人と在るが協力して、あるいは、個人と在るがひとつとなって、という言い方もできますが。

また、この段階で、「もう個人はいない」という言い方をする方もあるかもしれません。)

そのような視点からは、ひとつの大きな見方として、人(現れ)→在る(源、本質)というプロセスを見ることができます。

(既述しましたが、この大きな見方、流れの中にも、無限の双方向への動き、人→在る、在る→人、があります。

 あるいは、全方向、または、それ自身における循環、○、完結、更新があります。

気づいたら(在るに)戻る、の繰り返しの中には、

在るに戻ったら、また人へと現れていく、という動きが必然的に含まれて在ります。)


これもひとつの視点ではありますが、

大きな見方での人(現れ)→在る(本質)へのプロセスで、ある意味、ひとつの非二元

意識レベル、本質レベルでの非二元(個人はいない、すべては幻想である等)が実現されるとも言えます。

そして、そのしっかりした土台、変わらない本質をもとに、

現れのすべてが統合されていく、変わらない本質が現れのすべてに浸透し、

(現れもすでにそれ、そのままそれですが、ここでは、それ自身の実感、

自覚、自己認識、自己理解の浸透、自覚、自己理解された質のさらなる浸透)

すべてを包み込んでいく、トータルな変容、トータルな成熟へと進んでいきます。

(━日常等起こっていることは━ 何も変わっていないけれど、

━見え方、感じられ方、在り方が━ 全く違う、というのは、

ここにおいて実現されます。これにも無限の更新があるとも言えますが。)

そこに現れを含み超えた、ある意味、もうひとつの差取り、もうひとつの非二元、

あるいは、成熟した非二元があるとも言えるでしょう。

(非二元はひとつしかなく、ふたつがないのが非二元ですが、

それは在るであり、まったく変わらないものであり、至高のものでありながら、

同時に、無限に成長、成熟していくものである、という見方、

そして、そのような在り方があります。)


多くの方は、至高の在るの“状態”の(自動)継続を望みますが、

在るの自然本性、在るの自然な在り方の理解が進めば、

それは特定の状態の維持継続ではなく、

在るの自然な在り方の全的理解、

すでにそれである、

ただそうであるの全き理解、

1つの段階があり、次の段階、そして、最終的にはこうであるというのは、

ひとつの見方、表し方であり、そして、それもまた正しく真実ではありますが、

全的な理解、トータルな理解においては、それはすべての段階を含み超えて在ります。

超えて超えて、至高であるそれ自身をも超えていく、とはそういうことでもあります。

そして、超えてもやはりそれはそれです。

それは常に新しきそれ、全きそれ、変わらぬそれです。


実現されたのは自然であり、

到達したところは普通、当たり前、在るがまま、そのままであるところ、

辿りついたのは、元いたところ、

出発点、

自分自身です。

これは自分自身の旅であり、自分自身の道のり(自分から自分への道のり)です。

それは、ただひとつのものである自分自身の成長、自分自身の深まりの道、

自分自身を無限に体験し、自分自身を無限に味わい、自分自身を無限に知っていく道です。

距離ゼロ、よろこび無限の道です。


人→在る(本質への溶け込み、本質への帰還)、在る→人(本質、在るの実現、あるいは、本質、在るのトータルな実現)のプロセス、循環、更新、

これもまたただひとつであるもの(在る、真の自己、真我、愛、全体、気づいている意識、悟り意識、知っている意識)の中で起こっていることであり、

真には何も起こっていないとも言えるものです。

絶対平和、絶対安全、絶対安心の中で、すべてはただ起こっています。

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プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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