エックハルト・トール|無空庵

エックハルト・トール氏のご紹介

エックハルト・トール氏は、その著書「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」、
「世界でいちばん古くて大切な教え」を参考本のところでご紹介させて頂いている現代の覚者です。

エックハルト・トール氏の書籍「世界でいちばん古くて大切な教え」(第1刷 2006年4月30日)から彼のプロフィールを紹介させて頂きます。

ドイツ生まれ。13歳までドイツで過ごす。ロンドン大学卒業後、ケンブリッジ大学研究員および指導教官となる。
29歳の時、その後の人生を180度転換させる劇的な霊的体験をする。
以後数年間は、この時の体験を理解し、深め、知識として融合するための研究に費やす。
現在は講演家として世界各地を巡り、人々にメッセージ=「苦しみから平和へいたる道」を伝えている。
処女作『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(原題:The Power of Now』は、世界30ヵ国以上で出版され、300百万部を超えるベストセラーに。
現代でもっとも重要なスピリチュアル書のひとつに数えられている。1996年よりヴァンクーバー(カナダ)在住。

エックハルト・トール氏の本は、とても読みやすく、これまで悟り、覚醒等に関する本を読んだことがなかった方にも、理解しやすいのではないかと思います。
本質(本当の自分、真我)、そして、エゴの性質、傾向等についても理解が進む本だと思います。

わたしも、本当の自分、真我の確認が起こる前には、スピリチュアル系の本をいろいろ読み、参考になるもの、鼓舞されるもの等ありましたが、エックハルト・トール氏の「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」を読ませて頂き、今を意識し、はじめて現れレベルでの変化を実感できたという覚えがあります。

スピリチュアル系の季刊誌で、エックハルト・トール氏の顔写真を拝見したことがありますが、とても透明感のある方だと感じました。


エックハルト・トール「さとりをひらくと人生はシンプルで
楽になる」等から


それでは、エックハルト・トール氏の本から、何か所か抜粋させて頂き、ご紹介させて頂きたいと思います。

「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」より

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エックハルト・トール
「過去は、究極的には現実ではない」と認識して、「いま、この瞬間」をあるがままに受け容れることが「許し」です。
これをおこなうと、心に奇跡的な変容が起こるだけでなく、外界にも変化が起こります。
強烈に「いまに在る」と、心に平和をもたらすだけでなく、外界にも平和が生まれるのです。
「いまに在る」意識がつくるエネルギーの場に入った人やものは、すべてその影響を受けずにはいられないからです。
変化が即座に、目に見えて起こることもあれば、より深いレベルで作用し、視覚的な変化は、時間がたってから現われることもあります。
強烈に「いま」に在り、その波動を維持するだけで、直接的にはなにも手をくださなくても、不調和を溶かし、痛みを癒し、無意識を追い払えるのです。

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問い
暴力や攻撃といったものに対する、「無抵抗主義」はどうなんですか?

答え(エックハルト・トール)
わたしの言う「無抵抗」は、必ずしも、「なにもしないこと」を意味するのではありません。
わたしの言う「無抵抗」は、どのような行動も、感情的リアクションにならないということです。
「相手の力に抵抗してはなりません。身をゆだねることで打ち勝つのだ」という、東洋の格闘技の奥義である、深遠な智慧を胸に刻んでおきましょう。

しかしながら、強烈に「いまに在る」時には、「なにもしないこと」自体が威力を発揮し、状況や人々を変化させたり、癒したりすることがあります。
道教には、「行動なき行動」もしくは「なにもせず静かに座る」と一般に訳される、「無為」[wuwei]という言葉があります。
古代中国では、「無為」はもっとも気高いおこない、美徳のひとつとみなされていました。
これは、不活発な状態とは違います。
恐れ、怠慢、優柔不断などの無意識状態とは、もちろん対極に位置します。
真の「なにもしないこと」は、「手放していること」、「無抵抗であること」、「意識がはっきりと目覚めていること」が要求されるのです。

「手放すこと」の境地に達していれば、行動をとるべき時には、思考に基づいてリアクションをすることはありません。
かわりに、「在る」意識に基づいて対応するのです。
「手放すこと」の境地にある人は、非暴力主義を含め、どのような観念にもしばられていません。
その人がどんな行動に出るか、誰も予想すらできないのです。

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問い

あなたが「選択すること」についておっしゃったことは、「許し」についても、当てはまるのではないですか?
「完全に『いま』に在り、執着を捨てなければ、人を許すことはできない」。そうじゃありませんか?

答え(エックハルト・トール)
「許し」は、過去二千年にわたって使われてきた言葉ですが、ほとんどの人は、この言葉について、とても限られた見解しか持っていません。
「ほんとうの自分」のアイデンティティを、過去から引き出しているうちは、他者はもちろん、自分自身も、ほんとうの意味で許していないのです。
わたしたちの、唯一のパワーの源である、「いま」につながってはじめて、真の許しができるのです。
「いま」につながれば、過去は無力になり、自分がこれまでしたこと、されたことは「ほんとうの自分」という輝かしい本質を傷つけるどころか、それをかすりもしなかったのだと、心の奥で気づきます。
すると、「許し」という概念そのものが、不必要になります。

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「世界でいちばん古くて大切な教え」より

エックハルト・トール
ほとんどの人は、「いま、この瞬間」を「いま起こっている出来事」と錯覚しています。
でも、このふたつは別のものです。
「いま、この瞬間」は、そこで起こる出来事よりも、ずっと奥深いのです。
「いま、この瞬間」は、出来事が起きている空間なのです。
ですから、「いま、この瞬間」を、その内容と混同してはなりません。
「いま、この瞬間」は、その中で起こるどんな出来事よりも、深遠なのです。

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エックハルト・トール
思考、感情、感覚、その他なんであれ、あなたが経験するものが、「わたしの人生」を構成しています。
この「わたしの人生」が、「わたし」という感覚のよりどころであり、さらにそれを「人生の意義」だと信じるなら、少なくともあなたにとっては、それが真実になります。

けれども、これは、致命的な誤りなのです。
なぜなら、わたしたちが核で感じる「わたしが在る」という感覚は、人生の出来事とは、まったく関係がないからです。

「わたしが在る」という感覚は、「いま、この瞬間」とひとつです。
それは、どんなことがあっても変わることがありません。
子供のときであろうと、老いたときであろうと、健やかなときであろうと、病めるときであろうと、成功の頂点にいようと、失敗のどん底にいようと、「わたしが在る」、あるいは、「いま、この瞬間」のスペースは、もっとも深い次元では、永遠に不変なのです。

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エックハルト・トール
「わたしは、『本当の自分』を知りたい」。あなたはそう思うかもしれません。
けれども、あなた自身が、「本当の自分」なのです。
あなた自身が、すでに「知」そのものなのです。
あなた自身がすべてを知る媒体である意識なのです。
意識は、それ自身を知ることができません。
意識が、「知」自身なのですから。

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エックハルト・トール
自分自身を、万象万物が発生する源である意識であると知ることによって、出来事に依存することをやめ、状況、環境の中に自己を見つけようとする習性から解放されます。
いいかえるなら、どんな出来事が起こるか、あるいは起こらないかは、どっちでもよくなります。
物事の重要性、深刻さは薄れはじめます。
代わりに「遊び心」が芽生えます。
世界は、宇宙が繰り広げるダンス━形態のダンス━であり、それ以上でもそれ以下でもない、そう悟るのです。

「本当の自分」を知るとき、そこには絶えることのない、生き生きとした平和の感覚があります。
それを喜びと呼んでもいいでしょう。
なぜならば、力強く、あふれんばかりの平和、それこそが、真の喜びだからです。
それは、自分自身を、生命が形態になる前のエッセンスであると知る喜びです。
それが「在ること」の喜び、「本当の自分で在ること」の喜びです。

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「ニュー・アース-意識が変わる 世界が変わる-」より

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エックハルト・トール
エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である。
自分が何者でもないという不安、存在しなくなるという不安、死の不安だ。
結局エゴの行動はすべて、この不安を解消するためなのだが、エゴにはせいぜい親密な人間関係や新しい所有物やあれこれの勝利によって一時的にこの不安を紛らすことしかできない。
幻想は決してあなたを満足させてくれない。
ほんとうのあなたに気づくことができれば、それだけがあなたを解放してくれる。
なぜ不安なのか? エゴは形との同一化によって生じるが、実はどんな形も永遠ではなく、すべて移ろいゆくことをどこかで承知している。
だから外見はどれほど自信満々に見えても、エゴにはいつも不安定な頼りなさがつきまとう。

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エックハルト・トール
J・クリシュナムルティはインドの偉大な哲学者、霊的指導者で、五十年以上も世界各地を旅して講演し、言葉を通じて━言葉とは中身だが━言葉を超え、中身を超えたことを伝えようとした。
人生も後半にさしかかったあるとき、彼は「私の秘密を知りたいと思いますか?」と問いかけて、聴衆を驚かせた。
聞いていた全員がはっと耳をそばだてた。
聴衆の多くは二十年三十年と彼の言葉を聞いてきて、それでもなお彼の教えの本質を理解することができないでいた。
長い年月のあと、ついに師は教えを理解する鍵を与えてくれるのか。「これが私の秘密です」と彼は言った。
「私は何が起ころうと気にしない」。

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エックハルト・トール
大切なのは、目的や行動ではなくそのもとにある意識の状態だということです。

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フーマン|無空庵

フーマンのご紹介

フーマンは、「恩寵の扉が開くまで」という本を参考本のところでご紹介させて頂いておりますが、内容は、とても分かりやすく、かつ、深いです。
同じ真我(フーマンは、「真実の自己」、「これ」等表現していますが。)、本質について語っていても、その存在の意識、自己理解の深さにより、響き方、伝わってき方が違います。
その点、フーマンはとてもクリアで深く、また、トータルで、そして、とても愛に溢れた存在であるということが本を読んでいても伝わってきます。

「恩寵の扉が開くまで」にあるフーマンのプロフィールをご紹介いたします。
フーマンは、1964年、イラン生まれ。米国の大学を卒業し、エンジニアとしてボーイング社に勤務。
子どもの頃から聖なる次元への回帰願望が強く、27歳のある日、ごく自然な形で光明を得る。
最初はシアトルで魂を覚醒へと導く教師として教え、後にハワイ島へと移住。2005年、7月に他界する。

わたしは、無空庵として現在のゼロ意識共鳴セッションをスタートさせる前に、
整体院をしながら、理解があり、必要であると思われる方に個別の共鳴を行っていました。
それは、当時、覚醒に関するセミナーに定期的に参加していて、
そこで主に大人数に対しての共鳴という形で行われていたものを、
自分なりに、個別の形で、言葉等も使い、導きながら行っていたのですが、
その当時出会った本が、フーマンの「恩寵の扉が開くまで」でした。
それを読み、今、自分が行っている共鳴ととても近いものを感じ
(わたしは、フーマンのようなサイキック的な能力はまったくありません。
あくまで「真我」、「これ」に気づく、覚醒することのサポートという点について「近いものを感じた」ということです。)、
自身のスタイルを確認できたという記憶があります。
また、フーマンのスタンス、在り方に関しても、共感できる部分が多かったということも覚えています。


フーマン「恩寵の扉が開くまで」から

では、そのフーマンの「恩寵の扉が開くまで」から、何か所か抜粋し、ご紹介させて頂きたいと思います。

「恩寵の扉が開くまで フーマンとの出逢い」より

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フーマン
すべて、本当の真実に目覚めた存在のメッセージは、いつでも唯一「愛」だけだ。
「愛」は単なる感情的なものではない。
それは「知っている」というフィーリングであり、この宇宙において本当の真実は何か、
すべての宇宙の中で何が真実かを知っているもの、それが愛の源泉だ。
それは、「現象世界に顕れない真実」だ。
それが「愛・ワンネス・真実」であり、あなたはそこへ向かっている。

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フーマン
「あなたが」その深さやスペースを継続して体験するというのではない。
 従来の体験からすべてが切り離され、あなたの中に全く新しい存在(being)が開いてシフトするというものだ。
 そうだったろう?

━まさにそのとおりです。

フーマン
私は、そこへあなたを導こうとしている。
しかし今回はそれを「永続的」にしたい。
そこに到達するには、もっとあなたが開き、あなたの中ですべてがシフトして「逆転」しなければならない。
 それが起こるには、しばらくは「自分が宙ぶらりんな状態」に留まる必要がある。

 なぜならその深さを体験する「主体そのもの」がワークされなければならないからだ。
 その深さそのものは、体験者の周りに既に存在している。
 しかしそれを認識する主体がワークされて、開かれる必要があるという事だ。

 もしあなたが「数か月前と比べて自分というものをあまり認識しなくなった」と感じ始めたら、それが自分に変容が起こり始めたと知る時だ。

 マインドを超えるという事。
 マインドの領域に留まっていては、変容は起こらない。

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フーマン
ただ「あなた自身で在る」事、実はこれこそがスピリチュアルに得る事の出来る、最も高次のものだ。

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フーマン
本当のあなたは(それはノーマインドであるが)、例えば「純粋な気づき」に限定されるものではない。
「絶対の境地」であったり、「純粋な愛」であったり、様々な違った要素を持っている。

しかしそれらは同じものであり、同じエッセンスだ。
その事が解るだろうか?
その事について、決して混乱してはならない。

今後どんなシフトや違ったレベルの体験を通り抜けていこうとも、それは同じエッセンスの変化だ。
つまりキヨタカでないもの、個としての自己ではない「より広がった自己」の変化である事を知りなさい。

これが自己理解(Self-Realization)の始まりだ。
自己理解とは、真実の私つまりキヨタカではない自己を理解する事であり、それには違った姿がある。
 時には「強烈な愛」として、時には「存在の神秘」として、時には「源泉での深い寛ぎ」として、そして時には「理由のない幸せ」として体験する。

しかしそれらは同じだ。
つまり同じものが違った顔つきをしているという事だ。
この事が分るかな?

━ええ、なんとか・・・。

フーマン
この事は非常に重要だ。
このシフトが起こって初めて、「スピリチュアルな道」が本当に始まる。
それまでは、あなたはただマインドの中にいる。

私の言ってる意味が分るかな?

それが起こるまでは、あなたは探求している。
このシフトが起こった後は、その「反対側」へもっとアクセス出来る様になる。
それこそが「自由」だ。
キヨタカからの「自由」だ。

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フーマン
「これ」が、真実の自己のエネルギーが、仏陀の本性が、あなたのパターンを洗い流す。
「これ」は、あなたを存在の自然な状態へと引き戻す。
それはただ「自分自身で在る」という事だ。

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━つまり本当の私(Real Me)は境地を超えているのですね?

フーマン 
イエス。
たった今あなたが体験している「これ」は「境地」だろうか?
よく見て欲しい。
いや、それは境地なんかではない。
それは「本当のあなた」だ。
それが、解るだろうか?

「自己理解」あるいは「悟り」とは、境地ではない。
それは境地を超えている。
あなたは夢から抜け出す。
境地はまだマインドに属している。
吸収のレベルは瞑想に属している。

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フーマン
深く瞑想していない人々や、マインドの強い人々は、ステートオブプレゼンスのワークや「絶対の境地」へ入るワークをして、
瞑想の境地を体験する必要がある。
しかし、それではマーヤからの目覚めは起きない。
マインドからの繋がりを絶つ事はできない。
あなたのマインドは、ただ一時停止状態になってまだそこにあり、戻るチャンスを伺っている。

それはサマーディ(三昧)に入っている人々を見るとよく解る。
どんなに深いサマーディに入っても、そこから出たとたん、マインドがただちに戻ってくる。

(フーマンは実際にインドに長期滞在して、サマーディに入った聖者に何人も会ったそうだ。)

だから、あまり長いリトリートはする必要がない。
例えば10日とか21日間のリトリートをすると、マインドが脇に追いやられて一時停止状態になるので、素晴らしい体験をするだろう。
全てがクリヤーで、無心の境地を体験する。
しかしそれは、マインドの集中と一時停止による効果に過ぎない。

それは、「真実の自己」の目覚めではない。
そこには「自己に対する理解」がない。

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フーマン
解放への究極の道は、「自己理解」にある。
ノーマインドに到達して、本当にマインドが落ちる事でそれが起こる。
それは、長時間坐ることで起こるのではない。
また、瞑想でなんらかの境地に到達する事で起こるのでもない。

そうではなくて、成熟する事で起こる。
成熟すると、あなたは恩寵を受け取る。
その時にのみ、それが起こる。
それが起こるまでは、準備をして成熟する事が必要だ。

ラマナ・マハルシ|無空庵

ラマナ・マハルシ|20世紀最大の覚者

ラマナ・マハルシは、参考本のところで、「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」と「不滅の意識 ラマナ・マハルシとの会話」をご紹介させて頂いておりますが、ユング、ガンディーが敬慕した20世紀最大の覚者、沈黙の聖者と言われている存在です。

ラマナ・マハルシは、「私は誰か?」という問いかけによる実践的な真我の探求(アートマ・ヴィチャーラ)を推奨しました。

知っているところ(真我・知そのもの)から、直接的に真我に意識を向けさせるその教え(または、沈黙の力)、在り方は、非常に深く、パワフルで、かつシンプルです。

ラマナ・マハルシのシンプルな在り方そのものが真我の在り方そのものであり、彼は、その存在で、真我実現とはどのようなものかを伝えているとも言えます。

彼の弟子には、"尊敬するお父さん"という意味の「パパジ」の名で呼ばれているプンジャジがおり、また、プンジャジのサンガからは、ムージ、ガンガジ等の覚者が出ています。


「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」から

参考本とさせて頂いている「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」から、真我の本性である愛について語られているところ等一部分を抜粋し、ご紹介させて頂きます。

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質問者 
スワミ、神を愛することは善いことではないでしょうか?
それならなぜ愛の道(バクティ・マールガ)にしたがわないのでしょうか。

ラマナ・マハルシ
それにしたがえないと誰が言ったのかね?
そうするがいい。
だが、あなたが愛について語るとき、そこには二元性がある。
愛する者と、神と呼ばれる実体である愛される者がいる。
そうではないだろうか?
個人は神から分離していない。
それゆえ、愛とは、自分の真我に対する愛を意味しているのである。

質問者
だからこそ私は、神が愛の道を通して崇拝されていいのかどうかと尋ねているのです。

ラマナ・マハルシ
それこそが私が言ってきたことである。
愛そのものが神の本当の姿である。
「私はこれを愛さない」「私はあれを愛さない」とすべてを拒絶していくと、拒絶しきれないものが残る。
それがスワルーパ、真我の無形態の形態である。それは純粋な至福である。
純粋な至福、神、アートマ、好きなように呼ぶがいい。
それが帰依、それが真我の実現、それがすべてである。
 あなたがこのようにすべてを拒絶すると、真我だけが残る。それが真実の愛である。
その愛の秘密を知った者は、世界が普遍の愛で満ちていることを知るだろう。
 真我の本性である愛を知る人にのみ、強くからまった生のもつれは解きほどかれる。
愛の高みに達した人にのみ、解脱は成就される。それがすべての宗教の本質である。
真我の体験とは愛である。
それはただ愛だけを見、愛だけを聞き、愛だけを感じ、愛だけを味わい、愛だけをかぐ。それが至福である。

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質問者
「ブラフマンは真理である。世界(ジャガト)は幻想である」とはシュリー・シャンカラーチャーリアの常套句です。
しかし、別の人たちは、「世界は実在である」と言います。
どちらが真実なのでしょうか?

ラマナ・マハルシ
どちらの言葉も真実である。
それらは異なった霊性の段階について、異なった視点から語られたものである。
真理の探究者(アビャーシ)は、「つねに存在するものが実在である」という定義から進みはじめる。
それから彼は世界を非実在として捨て去る。
なぜなら世界は変化するものだからである。
このように、変化するものを非実在として捨て去っていくことで、探求者は究極的に真我にたどり着く。
その実現のなかで、彼はすべての存在がひとつとして在ることを見いだす。
そのとき、最初に非実在として捨て去られたものも、ひとつとして在ることの一部分だったことが理解されるのである。
実在のなかに吸収されれば、世界もまた実在である。
真我の実現のなかではただ存在だけがあり、他には何もない。

質問者
バガヴァーンはマーヤー(幻想)と実在が同じものだと言われます。
どうしてそれが可能なのでしょうか?

ラマナ・マハルシ
シャンカラーチャーリアは彼のマーヤーの見解について、人々から理解されないまま批判された。
彼はこのように言った。
(1)ブラフマンは実在である。
(2)宇宙は非実在である、そして
(3)宇宙はブラフマンである。
彼は第二番目のところで止まらなかった。
なぜなら、第三番目が他の二つを説明しているからである。
それは、もし真我として知覚されれば宇宙は実在であり、真我から分離したものとして知覚されれば宇宙は非実在だということを意味している。
したがって、マーヤーと実在はひとつであり、同じものなのである。

質問者
そうだとすれば、世界は、本当は幻想ではないのでしょうか?

ラマナ・マハルシ
真理の探究者の段階では、あなたは世界が幻想だと言わなければならないだろう。
他に道はない。
ある人が、自分は実在であり、永遠に、全てに遍在するブラフマンだということを忘れ、
はかない身体であふれた宇宙のなかのひとつの身体を自分自身だと思いこんで、その迷妄ゆえに苦しんでいるとき、
あなたは彼に世界は非実在でしかなく、それは迷妄なのだということを気づかせなければならない。
なぜか?
なぜなら、真我を忘れた彼の視野は、外側の物理的な世界のなかに浸っているからである。
あなたが外側の物理的な世界は非実在だということを彼の心に焼きつけないかぎり、彼が内側に向かい内観することはないだろう。
ひとたび彼が真我を実現すれば、彼自身の真我以外に存在するものは何もないと知るだろう。
そして彼は宇宙全体をブラフマンとして見るようになるだろう。
真我を離れて宇宙は存在しないからである。
人が、すべての源である真我を見ずに、外側の世界だけを実在で不変のものとして見ているかぎり、
あなたは彼にこの外側の宇宙は幻想でしかないと伝えなければならない。
それはどうすることもできないのだ。
紙を見てみなさい。
われわれは文字だけを見ている。
文字が書かれている紙に気づくものはいない。
文字がそこにあろうとなかろうと、紙はそこに在る。
あなたは文字だけを実在と見なしている人に、それはただ紙の上に載っているだけで非実在、幻想なのだと言わねばならない。
賢者は紙と文字をひとつと見なす。
それゆえ、ブラフマンと宇宙もひとつとして見るのである。

質問者
それでは、真我として体験されたとき世界は実在であり、個々に分離した名前と形として見られたとき世界は非実在なのでしょうか?

ラマナ・マハルシ
炎が煙で隠されてしまうように、意識の輝く光は世界という名前と形の集まりで隠されてしまう。
慈悲深い神の恩寵によって心が清らかになったとき、世界の本性は幻想としてではなく、ただ実在として知られるのである。
 心がマーヤーの邪悪な力から解放され、世界の知識を捨て去って無執着となり、
自ら輝く至高の実在の知識に到達した人だけが「世界は実在である」という言葉の本当の意味を正しく知ることができるのだ。
もし真理の知識の本質に沿って世界観が変容すれば、エーテル(アーカーシャ)から始まる五つの元素でできた世界は至高の真理の実在として見られるだろう。
多くの名前と形であふれかえり混雑した、この空なる世界の原初の状態は至福であり、多様な色彩のクジャクの卵の黄身が単一であるように、それも単一である。
真我の内に在ることで、この真理を知りなさい。

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質問者
神と真我は同じものでしょうか?

ラマナ・マハルシ
誰もが真我を知っている。だが、明確には知られていない。
あなたはつねに存在している。その「在ること」が真我である。「私は在る」(I AM)が神の名前である。
神を定義した言葉のなかで、『旧約聖書』の出エジプト記第三章一四節にある「私は私であるものである」
(I AM THAT I AM)ほど、ふさわしい言葉はない。
他にも「ブラフマイヴァーハム(ブラフマンは私である)、「アハム・ブラフマースミ」(私はブラフマンである)、
ソーハム(私は彼である)という言葉がある。
だが、「私は在る」(I AM)を意味するエホヴァという名前ほど、直接的に表現したものはないだろう。
絶対的存在とは、ただ在るものである。
それが真我である。それが神である。真我を知れば神を知る。実際、神は真我以外の何ものでもない。

ニサルガダッタ・マハラジ|無空庵

ニサルガダッタ・マハラジ|覚醒の巨星

ニサルガダッタ・マハラジは、覚醒の巨星、覚醒の巨人とも言われる近年の大覚者です。
参考本のところで紹介させて頂いておりますその対話録である「I AM THAT(私は在る)」は、現代随一の聖典とも絶賛されているものです。

ニサルガダッタ・マハラジは、1897年、インドのマハーシュトラ州カンダルオンという村で生まれ育ちました。
正式な教育を受けたこともなく、純真素朴な青少年期を送った彼は、その後、ボンベイに移り住み、小さな雑貨屋を営みながら、ごく平凡に暮らしていました。

ニサルガダッタ・マハラジが、はじめてグルに出会ったとき、師は彼に、

「あなたはこれが自分であるとみなしているものではない。
あなたとは誰なのか、それを見出しなさい。『私は在る』という感覚を見守りなさい。
そしてあなたの真我(本来の自己)を見出しなさい」。と言いました。

ニサルガダッタ・マハラジは、そのグルの言葉をまったく疑うことなく誠実にその教えに従い、わずか3年で真我を実現し、偉大な覚者となりました。

彼の弟子には、「誰がかまうもんか」の著書で知られるラメッシ・バルセカールや、
「ただそれだけ」の著書で知られるセーラー・ボブ・アダムソン等がいます。

わたしも、以前は、瞑想を習ったり、覚醒に関するセミナー等に通ったりして学びを進めてきましたが、
「(真我について)それならすでに知っている」という確かな確認ができたのは、
ニサルガダッタ・マハラジの「I AM THAT(私は在る)」を読んだときでした。

やはり、同じ真我を知っていたとしても、その本質的な理解の深さ等により、伝わってくる
強さ、深さ等が違います。

彼(真我)から起こる知性、そして、書籍から伝わってくる彼の絶対的な立ち位置から絶対的に離れないその在り方はとても素晴らしく、これまで素晴らしい先生はたくさんいらっしゃいましたが、
もしわたしが、誰かひとりだけ師と呼べる存在を挙げてくださいと言われたのなら、
ニサルガダッタ・マハラジを挙げさせて頂きたいと思います。
彼は、無空庵で言っている「在る」の先輩でもあります。


ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT(私は在る)」から

それでは、ニサルガダッタ・マハラジの対話録である「I AM THAT(私は在る)」から、
真我、本質等について語られているところなど、何か所か抜粋してご紹介させて頂きたいと思います。

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質問者
賢者はけっして不体裁なことはせず、つねに手本となるような行為をすると聞いています。

ニサルガダッタ・マハラジ
誰が手本を示したのだろうか?
なぜ解脱した人が社会の慣例にしたがう必要があるのだろうか?
予測可能な人となった瞬間、彼はもはや自由ではないのだ。
状況の必要性にしたがい、その瞬間の必要性を満たすことのできる自由があるということのなかに彼の自由がある。
好きなことをする自由とは実は束縛であり、正しいこと、するべきことをする自由のあることが真の自由だ。

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質問者
ラーマクリシュナ・パラマハンサの妻であるサーラダー・デーヴィは、彼の弟子たちの行き過ぎの
努力をよく叱ったそうです。
彼女は、彼らを熟する前に摘み取られたマンゴーに比較して、「どうして急ぐの?あなたが完全に熟し、
甘く、芳醇になるまで待ちなさい」と彼女はよく言ったそうです。

ニサルガダッタ・マハラジ
何と彼女は正しいことか!
多くの者たちが、完全な真我実現前のつかの間の体験で夜明けを昼と間違え、過剰な自尊心から
彼の得たわずかばかりでさえも台無しにしているのだ。
謙遜と沈黙は、どんなに進歩していてもサーダカ(真我の探求者)にとって本質的なものだ。
完全に成熟したジニャーニ(賢者)だけが、己に完全な自発性の発揮を許すことができるのだ。

質問者
あるヨーガのアーシュラムでは弟子が光明を得た後、沈黙を七年、十二年、あるいは、十五年、
または二十五年にわたってまでも守っていくといいます。
バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシでさえも教えはじめる前に、彼自身二十年もの沈黙を守ったのです。

ニサルガダッタ・マハラジ
そうだ。内なる果実は熟さなければならない。
それまでは戒律を守り、気づきのなかに生きることが必須となる。
徐々に修練はより微妙になっていき、最後にはまったく形のないものとなる。


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質問者
真我の実現とは何でしょうか?
誰が実現した人なのでしょうか?
ジニャーニ(賢者)は何によって認識できるでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
ジニャーナ(真理の知識)特有の証拠というものはない。
無知だけが認識できる。
ジニャーナは認識できない。
ジニャーニは自分が何か特別な存在だとは主張しない。
自分自身の偉大さ、特別さを宣言する者はジニャーニではない。
彼らは実現に向けての何か特別な発達を、実現と考え違いをしたのだ。
ジニャーニには、自分がジニャーニだと宣言しようとする意図はない。
彼は彼自身を完全に普通だと考え、彼の真の本性に誠実なのだ。
自分自身を万能の、全知全能の神として宣言することは、明白なる無知のしるしだ。

質問者
ジニャーニは、彼の体験を無知な人に伝えることができますか?
ジニャーナはひとりの人から別の人に伝達できるのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
それはできる。
ジニャーニの言葉は、マインドのなかの無知と暗闇を追い払う力を持っている。
言葉ではなく、その背後にある力が重要なのだ。

質問者
その力とは何でしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
真我実現の直接的体験をもとにした確信の力だ。

****************

質問者
実在において私が何であろうと、私は小さな分離した数多くのなかのひとりの個人だと感じます。

ニサルガダッタ・マハラジ
あなたが個人として在るのは、時間と空間という幻想のためだ。
あなたが自分をある容積を占有する、ある点だと想像しているからだ。
あなたの人格は身体との同一視によるものだ。
あなたの思考と感情は時間の連鎖のなかに存在し、記憶があなた自身にある期間、存在し続けていると想像させるのだ。
実際には、時間と空間があなたの中に存在する。あなたが時間と空間のなかに存在するのではない。
それらは知識の様式だ。
だが、それらがすべてなのではない。
時間と空間は紙の上に書かれた文字のようなものだ。
紙は現実だが、言葉は表現のための約束事にすぎない。

****************

質問者
なぜマインドはこれらの区別をつくり出すのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
区別することはマインドの本性そのものなのだ。
区別すること自体に害はない。
しかし分離は事実に反している。
ものごとと人々はさまざまだ。
しかし、それらは分離していない。
自然はひとつ、実在はひとつだ。
反対のものはあっても、対立はないのだ。

****************

質問者
あなたが言ったことをするには、私は絶え間なく気づいていなければなりません。

ニサルガダッタ・マハラジ
気づくことは目覚めることだ。
気づかないことは眠っていることだ。
いずれにせよ、あなたは気づいている。
そうあろうと試みる必要はない。
あなたに必要なのは、気づいていることに気づくことだ。
意図的に、そして意識的に気づいていなさい。
気づきの領域を広げ、そして深めなさい。
あなたはつねにマインドを意識している。
だが、あなた自身が意識していることに気づいてはいないのだ。

****************

質問者
あなたは考える人のようにふるまっていますが。

ニサルガダッタ・マハラジ
いけないかね?
だが私の思考は消化作用のように無意識であり、意味のあるものだ。

質問者
もしあなたの思考が無意識ならば、どうやってそれが正しいと知るのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
それを妨げる何の欲望も恐れもないからだ。
どうして間違いを犯すことができるだろうか?
ひとたび自分自身と、自分が何を意味するのかを知れば、自分自身をつねに確かめる必要はない。
あなたの時計が正確な時を告げていると知れば、それを見るたびためらう必要はないのだ。

質問者
もしマインドでないのなら、今、この瞬間誰が話しているのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
質問を聞いているそれが答えるのだ。

質問者
しかし、それとは誰でしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
誰ではなく、何かだ。
あなたにとって、私は個人として見えるかもしれないが、あなたの言葉の意味でいう個人ではない。
私はそのなかですべてが起こる無限の意識の大海なのだ。
そしてすべての実存と認識を超えた存在の純粋な至福なのだ。
私から分離したと感じられるものは何もない。
それゆえ、私はすべてだ。
私はいかなるものでもない。
それゆえ、私は無なのだ。
 火は燃え、水は流れ、種子は発芽し、樹木は生長する。
その同じ力が私をしてあなたの質問に答えさせるのだ。
言葉や話しぶりは個人的に見えるかもしれないが、私に関しては何も個人的なことはない。
個人とは、欲望や思考や行動の一様式だ。
私の場合、そのようなものは何もない。
私には望むものも恐れるものもない。
どうして様式がそこにありえようか?

****************

ニサルガダッタ・マハラジ
・・・・・・・・・・・・・・
探求者には、彼の真我を見出すというたったひとつのゴールしか視野にない。
すべての欲望のなかで、それはもっとも野心的なものだ。
なぜなら、何も、そして誰もそれを満たすことはできないからだ。
探求者と探求されるものはひとつだ。
そして探求のみが重要なのだ。

質問者
探求は終焉するときが来ます。
探求者は残るでしょう。

ニサルガダッタ・マハラジ
いいや。探求者は消え去るが、探求は続く。
探求は究極であり、永遠の実在だ。

質問者
探求とは、欠けていること、欲していること、未完成、そして不完全を意味します。

ニサルガダッタ・マハラジ
いいや。それは不完全と未完成の拒絶と拒否を意味する。
実在の探求自体が実在の動きなのだ。
ある意味では、すべての探求は真の至福、実在の至福のためのものだ。
しかし探求ということで、私たちはマインドを超えた光としての、意識的存在の根本である真我を意味している。
この探求が終わることはけっしてない。
それと同時に、それ以外のすべての落ち着きのない切望が終わらなければならないのだ。
 実在、神、あるいはグルの探求は、真我の探求と同じだということを理解しなければならない。
ひとつが発見されると、すべては発見されるのだ。
「私は在る」と「神は在る」があなたのマインドの中で区別不可能となったとき、何かが起こる。
そのとき疑いの余地なく、神が存在するのはあなたが在るからであり、あなたが存在するのは神が在るからだと知るだろう。

****************

質問者
仏教の伝統ではニルヴァーニ、悟りを得た仏陀は、宇宙の自由を司っていると言われています。
彼は存在するすべてを知り、体験することができます。
彼は因果律連鎖によって自然界を制し、調停し、出来事の結果を変え、過去を消すことさえできるのです!
それでも世界は彼とともに在り、しかもそのなかで彼は自由なのです。

ニサルガダッタ・マハラジ
あなたが描写しているのは神だ。
もちろん、宇宙の在るところには、その片割れである神もまた存在するだろう。
しかし、私はそのどちらも超えているのだ。
ある王国が王を探していた。
彼らはふさわしい人を見つけだし、彼を王にした。
だが、彼はけっして変わっていない。
彼は王位の称号と権利、そして職務を与えられただけだ。
変わったのはただ彼の行動だけで、彼の本性は影響を受けてはいないのだ。
同様に、悟りを得た人も彼の意識の内容は根本的な変容を遂げる。
しかし、彼は惑わされない。
彼は不変なるものを知っているのだ。

****************

質問者
あなたはあなた自身に関するそのような並外れた表現を行います。
何があなたにそのようなことを言わせるのでしょう?
時間と空間を超えると言うことで、あなたは何を意味しているのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
あなたが尋ね、そして答えがやってくる。
私は私自身を見守り、答えを見て、そこに矛盾がないことを見るのだ。
私が話していることが真実だということは明らかだ。
それはまったくシンプルなことだ。
あなたは、ただ私を信頼しなければならない。
つまり、私が話すことはまったく真剣だということだ。
すでに話したように、グル(師)は私に自己の本性と世界の本性を見せてくれた。
それを実現したため、私は世界と一つであり、しかもそれを超えているのだ。
私は欲望と恐れのすべてから自由になった。私が自由になるべきだと論証したのではない。
まったく予期せず、何の努力もなく、私は自由であることを見いだしたのだ。
この欲望と恐れからの自由は、それ以来、私とともにとどまっている。
もうひとつ見いだしたことは、私は何の努力をする必要もなく、何の遅れも軋轢もなしに、行為が思考にしたがうということだった。
私はまた、思考が自己充足するようになり、ものごとがすらすらと、正しい場所に落ち着いていくことも見いだしたのだ。
主な変化はマインドのなかだった。
それは不動で、沈黙し、素早く反応するが、反応を永続させなくなった。
自発性が生のあり方となり、真実は自然になり、自然さは真実となった。
何にもまして、生は無限の愛、幽玄で静穏な、すべての方角に輝き、すべてを抱擁し、すべてを興味深く、美しく、意味深くする幸運なものとなったのだ。

****************

質問者
聖人ほど苦しむ人は誰もいないでしょう。

ニサルガダッタ・マハラジ
彼らがあなたにそう言ったのかね?
それともあなたが自分からそう言うのだろうか?
聖人のような高徳な生き方の本質は、現在のこの瞬間の完全な受容と、起こるがままとの調和にあるのだ。
聖人はあるがままから変わってほしいとは望まない。
すべての要因を考慮した上で、それが不可避であることを彼は知っているのだ。
彼は必然的なものと親しくあり、それゆえ苦しむことがないのだ。
苦痛なら彼も知っているだろう。
だが、それが彼を打ちのめすことはない。
もし彼にできるならば、失われたバランスを必要なだけ回復するだろう。
あるいは、ものごとがそれ自体の流れを取るにまかせるだろう。

****************

質問者
私は真我実現のためにサマーディが必要なのです。

ニサルガダッタ・マハラジ
あなたはあなたに必要な真我実現のすべてを手にしている。
だが、それを信頼していないのだ。
勇気をもちなさい。
あなた自身を信頼しなさい。
行き、話し、行為しなさい。
それ自体が証明する機会を与えるがいい。
ほとんど気がつかないほどの真我の実現が起こるかもしれない。
だが、とにかくそれには確信が必要なのだ。
変わったにもかかわらず、それに気づかないでいる。
そのような劇的ではない場合のほうが、しばしば、もっとも信頼のおけるものなのだ。

質問者
人は自分が真我を実現したと信じたり、誤解したりすることができるのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
もちろんだ。
「私は真我を実現した」という考えそのものが過ちだ。
自然な状態のなかには、「私はこれだ」、「私はあれだ」といった考えはないのだ。

****************

質問者
彼らがある霊的体験をしたとき、別の問題が起こります。
彼らは体験が偶然のように来ては去っていき、永続しないと不平を言います。
キャンディーを一度手にしたら、いつまでもそれをしゃぶっていたいのです。

ニサルガダッタ・マハラジ
いかに高尚であっても、体験は実在のものではない。
体験はその本性からして、来ては去っていくものなのだ。
自己実現は獲得されるものではない。
それはもっと理解の本質に近いものだ。
ひとたびそれに到達すれば、けっして失われることはない。
その反対に、意識は変化し、流れ、瞬間から瞬間へと変容を通り抜けていく。
意識とその内容をとどめようとしてはならない。
意識にとどめれば、それは止まる。
洞察のひらめきと至福の爆発を永続させようと試みることは、それを維持しようとするものにとって破壊的になる。
来るものは去らなければならない。
永遠なるものは、去来するすべてのものの彼方にあるのだ。
すべての体験の根底へ、存在の感覚へと行きなさい。
無限の実在は存在と非存在の彼方にある。
何度も繰り返し試みることだ。

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ニサルガダッタ・マハラジ
ひとたびあなたが目的地に到達し、真の本性を知るならば、あなたの存在はすべてにとっての祝福となる。
あなたは知らないかもしれない。世界もまた知らないだろう。
だが、助けは広く行き渡るのだ。
世界のなかには、すべての政治家や慈善家を合わせたより以上の善を為している人びとがいる。
彼らは意図をもたず、知ることもないまま、光と平和を放っている。
他者が彼らの為した奇跡について話すと、彼らもまた驚きの念に打たれる。
それにもかかわらず、何ひとつ彼らのものとして受け取らず、誇りももたず、名声を望むこともない。
彼らには、ただ彼ら自身のために何かを欲望すること、他者を助ける喜びを求めることさえ不可能なのだ。
神が善であると知るゆえに、彼らはただ平和の内に在るのだ。

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質問者
あなたは目覚め、夢見、眠りの三つの状態を、私たちと同じように体験するのでしょうか、それとも異なるのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
私にとって、三つの状態すべてが眠りなのだ。
私の目覚めの状態はそれらを超えている。
私があなたがたを見ると、あなたがたは皆、眠っているように見える。
私は気づいている。
なぜなら、私は何も想像しないからだ。
それは眠りの一種であるサマーディではない。
それはただマインドの影響を受けない、過去と未来から自由な状態だ。
あなたの場合、それは欲望と恐れ、記憶と期待に歪められている。
私の場合、それはありのままの正常な状態だ。
個人として在ることとは、眠っていることなのだ。

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ニサルガダッタ・マハラジ
在るためには、過去も未来も必要ない。


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ニサルガダッタ・マハラジ
一生話し続けた後の沈黙と、一生沈黙していた後の沈黙は同じ沈黙だ。

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ニサルガダッタ・マハラジ
もしあなたの注意深さが深く、揺るぎなく、つねに源を向いているなら、それは徐々に上昇し、突然それが源となるのだ。
マインドではなく、気づきに仕事をまかせなさい。マインドはこの仕事に適した道具ではないのだ。
永遠は永遠によってのみ到達できる。
あなたの身体とマインドはともに時間に支配されている。
ただ気づきだけが時間を超えている。それは今でさえ超えている。
気づきのなかで、あなたは事実に直面する。
実在は事実を好むのだ。

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ニサルガダッタ・マハラジ
私は光を見たり、声を聞いたり、神々に出会ったり、彼らと話をしたりという奇妙な体験を通り抜けてきた。
ひとたびグルが私に「あなたは至高の実在だ」と言ったとき以来、幻想や超越状態を体験することはなくなり、とても静かに、そしてシンプルになった。
私は欲望をもつことや知ろうとすることがだんだんなくなっていき、最後にはまったくの驚きとともに、「私は何も知らない。私は何も欲しくない」と言うまでに至ったのだ。

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質問者
あなたはいつも彼方へといき、超然とした孤独の必要性を強調します。
「正しい」や「間違い」という言葉はほとんど使いません。
なぜそうなのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
自分自身であることが正しく、自分自身でないことが間違いだ。
それ以外はすべて条件づけだ。
行動の基盤を必要とするために、あなたは正しさと間違いを分離することに熱心なのだ。
あなたはいつも何かを追及している。
だが、個人的に動機づけられ、何らかの価値の尺度に基づき、ある結果を狙った行為は無為よりも一層悪い。
なぜならその結果はつねに苦しいものだからだ。

****************

質問者
気づきと愛はひとつであり、同じものなのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
もちろんだ。
気づきは動的で、愛は存在だ。
気づきとは行為のなかの愛なのだ。
マインドはそれ自体で無数の可能性を実現することができる。
だが、愛によって喚起されないかぎり、それらに価値はない。
愛は創造に先行する。
それなしでは、ただの混沌となってしまう。

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ニサルガダッタ・マハラジ
実在は不動のものだ。
それにもかかわらず、絶え間ない変化のなかにある。
それは力強い川のようなものだ。
それは流れていくが、しかも永遠にそこにある。
流れていくのは、川とその川岸ではなく、水だ。

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ニサルガダッタ・マハラジ
すべてを通じて同じ生命が流れ、あなたがその生命なのだということを、疑いを超えて知ったとき、あなたはすべてを自然に自発的に愛するだろう。

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ニサルガダッタ・マハラジ
多くの努力と苦行を終えてその野心を満たし、より高次の体験と行為を確保した人たちは、たいていの場合、彼らの地位を鋭敏に意識している。
彼らは人々を最低の未達成者から最高の達成者までに分類し、階級のなかに類別してしまう。
私にとっては皆が同等だ。
現れや表現のなかの違いはそこにあっても、それは問題ではないのだ。
金の装飾品の形が金そのものに影響を与えないように、人の本質も影響をうけることはない。
この同等の感覚が欠乏しているならば、それはつまり、実在には触れられていなかったということだ。
学者やヨーギは多くのことを知っているかもしれない。
だが自己が知られていないとき、単なる知識が何になるというのか?
それは間違いなく誤用されてしまうだろう。
知る者の知識なしには平和はありえないのだ。

****************

質問者 
ひとりの人間の理解によって、世界を大きく変えることはできないでしょう。

ニサルガダッタ・マハラジ 
あなたが住む世界は深く影響を受けるだろう。それは健康で幸福な世界となるだろう。
それは光を放ち、通じあい、拡大し、広がっていくだろう。
真実のハートの力は計り知れないものなのだ。

プロフィール

Author:のびのび
2010年8月に『無空庵』に出会い、師からの直接伝授(ゼロ意識共鳴セッション)により、本当の自分(ゼロ・空・愛)を思い出すことができました。
今も継続してセッションを受けています。
師の言葉は、分かりやすく、深く、やさしく、愛に溢れています。
師を通して伝えられたことを、私なりに整理してみたくなりました。
私の学びのノートです。

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